それぞれの戦闘開始(7)
「来なさい、『緋色十字』」
姫井がその手に得物を現す。手にしたそれは、その名の通り、緋色をした十字架のようだった。
掌に収まるくらいの十字架で何をしようとしているのかは知らないが、何かをする前に先手を打ってしまえばいい、と弁天と紗雪は同時に攻撃を仕掛ける。
「穿て、影矢羽」
「貫け、氷槍」
漆黒の刃と純白の槍が現出し、無数の凶器が一斉に姫井に飛び掛かった。風を切りながら突き進んでいくそれらを一瞥すると、姫井は十字架を翳して唱える。
「護りの十字」
詠唱に呼応して、十字架を中心として緋色の光が溢れる。半球状に広がる光は障壁となり、影と氷の攻撃を阻み弾き落とした。
中距離からの射撃が効かないと解るや、紗雪の行動は迅速だった。右手に白い太刀・白雪姫を召喚すると、びゅん、と弾丸に匹敵する速度で地を蹴り駆けると、一気に姫井へ肉薄した。姫井が作る緋色の障壁に向かって太刀を振り下ろす。
細身の太刀から、しかしその美しい外見に似つかわしくないほどの激しい斬撃が繰り出される。障壁がそれを受け止め、拮抗は耳障りな音を生み出した。
やがてガラスが割れるような音と共に、紗雪の一閃が光の障壁を斬り破った。ばらばらと砕けていく光の残骸を横目に紗雪は唇を歪め笑う。返す刀で姫井の喉元を狙う。
「裁きの十字」
一瞬早く姫井が唱え終える。と、握られていた小さな十字架は身の丈ほどの大きさに、丁度剣のように変化する。姫井は十字の剣で紗雪の攻撃を受け止め剣戟を演じる。
紗雪と姫井が激しく切り結ぶ。それを後方から眺めながら、弁天はあんちょこ片手に詠唱する。
「深淵の王の力以て、黒影を統べ槍と為し、眼下の敵を撃ち貫かん」
右手から黒いリボンのように飛び出した影の力が螺旋を描きながら集束し、巨大な槍を形成する。弁天はそれを握りしめ、擲たんと構える。円錐状に鋭く尖った槍頭が見据える先は紗雪の背中だった。
弁天は躊躇うことなく槍を投擲した。射出と同時に、紗雪は姫井の振るった剣に弾かれるままに後方へ跳び上がり射線上から逃れる。紗雪との剣戟に囚われ、紗雪の体で視界を遮られていた姫井にとっては、目の前に突然槍が湧いたように見えただろう。
「……!」
気づいた時には既に接触一秒前まで迫っていた攻撃。生半な魔術師ならそのまま貫通コースだ。しかし、それなりの戦闘経験を積んでいるのか、姫井の反応は早かった。すぐさま体を横にずらして避けようとする。まさしく紙一重という具合で影の槍が姫井の脇を過ぎて行く。とはいえ、紙一枚分足りなかったらしい、姫井の脇腹は凶器に抉られ血が滲みだしていた。
「……痛いじゃないの」
負傷した右腹部を手で押さえながら、姫井は剣を持ち直して、お返しとばかりに投擲の構え。元は十字架だったそれの用途は本来敵を貫くことではなく、槍のように先端は尖っていないが、魔力による強化と推進力に物を言わせて強引に肉を抉ろうというのか。姫井は十字剣を片手で投げ放った。
丁度着地したところの紗雪と、その先にいる弁天とが並んだところを一直線にまとめて狙う軌道だ。だが、速度は弁天の時と比べて僅かに遅い。紗雪は攻撃を一瞥するとさっと横に飛び退くだけで避けてみせる。その先の弁天は、右手に影操剣を握りしめて待ち構える。打ち落とす準備は万全だ。
タイミングを測り、弁天が剣を横に薙ぐ。まっすぐ飛んでくるだけで、加えてさほど速くない投擲槍など、叩き落すのは容易いと思われた。
しかし、予想に反して、振るわれた影操剣は空を切った。弁天が目を見開く。
攻撃が軌道を変えたのではなければ、速度が急に上がったわけでもない。弁天が見誤ったのでもない。飛来した十字が突如、元の小さな十字架に戻ったのだ。
掌ほどの十字架など、当たったところで痛くも痒くもない。このタイミングで攻撃力のない小さな十字架に戻ったのは無論姫井の意思によるものだろうが、その意図が解らなかった。そしてそれを考えるより先に、姫井の術が動き出す。
「誘きの十字」
十字架が俄に光り出す。滞空する十字架から緋色の光の糸が幾本も伸びて弁天の体に繋がる。瞬間、電気に撃たれたようにびくんと弁天の体が震えた。
十字の形をした道具と体が糸で繋がれる、その姿はまるで操り人形のよう。
「踊りなさい、『傀儡人形』」
体が弁天の意思を無視して動き出す。ぎこちなく動く両手が剣を握り直す。その切っ先を、あろうことか自分自身に向けて。何が起きているのか理解した弁天が息を呑んだ。
ずぷん、と剣が己の腹に潜り込む。久しく味わうことのなかった灼熱の嵐のような激痛に弁天は低く呻いた。頭の中が真っ白に灼けて、思考は千々に乱れる。何も考えられないのに、体は糸に操られるまま勝手に動き続ける。体を貫いた刃を一息に抜き放ったのだ。栓を失って血が溢れ出し、指先から急に熱が失われたような気がした。
「弁天さん!」
紗雪が叫ぶのと、弁天ががくりと跪くのはほぼ同時だった。そして、二人同時に、姫井を睨みつける。
「私の本業は人形師。人形を操る魔術で私の右に出るものはいないでしょう。人形にされた気分はどうかしら。それにしても、意外とあっけないものね。こんなに簡単に落とせるなんて」
「はは……馬鹿を言っちゃあいけないよ。これくらいで勝ったつもりかい? 世の中には、腹に穴を開けて平気で戦う人間がいるらしいから、妖である私がそれに劣るわけにはいかない」
姫井への苛立ちが半分と、腹に穴を開けて平気で戦う某退魔師への張り合いが半分の心境で、強がりを吐く弁天だが、どくどくと容赦なく血が流れ出していく現実は、あまり強がっていられる状況でもない。
「だったら、次は頭に穴を開けてあげましょうか。そうしたら間違いなくあなたは廃棄処分だわ」
姫井がぱちんと指を鳴らすと、弁天の体は再び宙に浮かぶ十字架に操られて動き出そうとする。剣を握りしめ立ち上がろうとする――と、その両手両足が、氷で強制的に床に縫い止められた。
「いい歳をしてお人形遊びに夢中だなんて失笑ものでございますわね」
高いトーンで、しかしどこかに不機嫌さを滲ませた不穏な調子で、紗雪が語る。姫井の意識が弁天から紗雪へと向けられる。
「お人形の相手ばかりをして、わたくしのことを無視されてしまいますと、なんだか面白くなくて、遊べないようにしてやりたくなってしまいますの、あしからず」
操り人形のように体を動かされてしまう魔術、とはいえ、氷漬けにされてしまえば動かしようがない。
「弁天さん、あなたはもう十分に戯れられたでしょう。そろそろわたくしに出番をお譲りくださいな。すぐにこちらの、お人形さんしか友達のいない可哀相なお方を、物言わぬ死体に変えて差し上げますわ」
「それは頼もしいね。ところで、どうせ助けてくれるならもう少しマシな方法はないのかい。この格好は、そこそこ屈辱的だ」
呑気な調子で言うが、実は状況はさほど呑気なものでもない。傷は痛むし、両手足は氷漬けであんまり放置されすぎれば凍傷待ったなしだし、姫井の人形術が忌々しくも未だに体を操ろうとしているせいで全身がぎしぎしと軋む。しかしそれ以上に、弁天としては四つん這いのまま身動きできない状況であるのが一番気に入らない。
紗雪はにこりと笑っている。
「一撃で十字架を破壊できる確証もありませんでしたし、壊したところで解術できる確証もありませんでしたので、対症療法ではありますが、このような方法を取らせていただきましたわ。一瞬の判断にしては最善手を打てたと自負しております」
「フォローしてもらっておいてなんだが、絶対に『最善』ではないと断言できるよ」
「まあそんな。弁天さんの身の安全を第一に考えましたのよ」
「私の自尊心について配慮はないのかい」
「ご安心ください、その格好も、なんだか誘っているようで素敵です」
「何も安心できないんだが」
「京介さんもそういうのが好みかもしれませんし」
「奴に好まれても嬉しくないし、一応奴の名誉のために言っておくが、絶対好みではないと思うよ」
この女はいつもこんな調子なのだろうか。もしそうなら、彼女にひん剥かれたらしい不破京介に同情したくなるな、と弁天は嘆息した。
だが、紗雪のおかげで大事に至らなかったのは事実なので、あまり文句も言えない。素直に礼を言うのは面白くないが、せめて黙って成り行きを見守ろう。
紗雪が姫井に向き直り挑発的に告げる。
「さて、わたくしのことも同じように操ってみせますか? もっとも、既に仕掛けが明らかになった魔術にかかるほど、わたくしは間抜けではありませんが」
「幸か不幸か、私の『緋色十字』は特注品だから、そんなにぽんぽん傀儡を量産できるわけではないの」
「あら、たいしたことありませんのね」
「だから代わりに、私の最高の人形で相手をしてあげる」
そう言って、姫井は徐に上着の右袖を捲り上げる。露出させた白い腕に浮かび上がっている紋章は、契約紋だ。
「来なさい、花朱雀」
床に召喚魔法陣が浮かび上がり光を放つ。陣から風が立ち上り、それに煽られ髪を靡かせながら、一人の少女が現れる。
まだあどけなさを残す顔つきだが、艶やかな髪、きらきらした円らな瞳、ふっくらとした唇と、綺麗なパーツばかりを持つ少女だ。纏った赤いワンピースにはところどころチョコレート色のリボンがあしらわれていて可憐な装いではあるが、その可憐さには不釣り合いに、腰に巻かれたベルトには大量のメスが収められていた。
「お呼びでしょうか、ご主人様」
姫井の最高の人形――式神・花朱雀は鈴のような綺麗な声で問う。
「命令よ、敵を始末して」
「畏まりました、ご主人様」
花朱雀は上品に微笑みながら紗雪を見据える。
「お相手いたします、敵さん」
満を持して登場したからには、手練れの式神なのだろう。それを相手にどう戦うのか、身動きを封じられたままの弁天は静かに紗雪を見守る。
花朱雀は銀色に光るメスをベルトから引き抜き、宣戦布告代わりに投げつけた。紗雪は笑顔のまま、太刀を一振りしてメスを叩き落とす。
「わたくしこう見えて、京介さんとは違って過激思考ですの。可憐で上品な敬語キャラなんて、わたくしとキャラかぶりしそうな危険因子を即座に抹殺することに躊躇いはございませんので、そのおつもりで」
紗雪が真っ先に心配したことがキャラかぶりだった時点で、弁天は仲間を案じる気分が早くも失せてきていた。たぶんこれは、心配無用だな。




