それぞれの戦闘開始(4)
憧れていた相手と再会した時、その相手が昔と変わってしまっていたらどうするか。
答えは簡単だ。取り戻せばいい。それを可能にする力が、この手に――否、この言葉にはある。
「人間ってのは、しがらみばかり多くて面倒な生き物だね」
彼は歌うように言いながら凶器を振るっていた。その表情は怖いくらいの冷たい笑みで彩られていて、躍るようなステップで、周りの男たちを切り裂いていく。残酷な行動とは裏腹に、子どもみたいに無邪気な様子は、狂気的というほかない。全身を返り血で濡らしながら、美しく輝いて見えた。
「罪さえもまともに裁けない。罪人はのうのうとのさばる。まあ、妖である俺には人間の事情なんかどうでもいいから、気に入らなければ殺すだけなんだけど」
くだらないしがらみに縛られず、己の正義に従い、気に入らない者は殺す。その行動原理のなんと魅力的なことか。本能の命じるままに敵を赤く染め上げる彼は、麻生より先に「復讐」を遂げてしまった。
自分の人生を狂わせた奴らを皆殺しにするはずだった。しかし、その復讐は、突然現れた彼に奪われた。だが、彼を恨みはしない。麻生の心もまた彼に奪われたのだ。
洗練されていて、強くて、孤高で、抜身の刃のような美しい妖。麻生は憧憬の眼差しで彼を見た。
地獄に叩き落され、生きるには強くなるしかないのだと実感した麻生にとって、つきつけられた、強さのお手本。
この先生きて行くためには、あんなふうに強くなればいいのだ。自分の正義を持って、それを犯そうとする者があれば、容赦なく排除する。それだけの強さを手に入れて、その力を振るうことへの躊躇いをなくす。そうすれば、これから先、あの屈辱の日のように人生を狂わされることはなくなるだろう。
彼と話がしたかった。麻生は、自分の人生観を一瞬で劇的に変えてくれた彼を愛した。無論、麻生の一方的な憧れだ。彼の方は麻生にそんな強い感情を持ってはいないだろう。それを、一方的ではない関係に変えたかった。彼の隣に立ちたかった。
けれど、彼はその後すぐに捕えられてしまった。黒須の家の魔術師共が寄ってたかって彼を戒め、彼を麻生の手の届かない遠くへ連れて行ってしまった。
麻生はいつか彼と再会する日を願って力をつけていった。そして、ようやく彼をまた見つけた。けれど、彼は初めて出逢ったあの日から随分と変わってしまっていた。
つまらない主を持ち、ぬるま湯のような日常に浸り、刃を錆びつかせ、穏やかな表情で微笑むようになっていた。
違う。そうじゃない。麻生を変え、麻生がずっと、切実に求め、欲しいと思った彼は、今の彼じゃない。
壊さなければならない。本当の彼を覆い隠すつまらない殻をぶち壊し、欲しかった彼を取り戻さなければ。
そうでなければ……過去の彼を否定されたら、自分自身まで否定されてしまう。
★★★
十年以上前にほんの数回見かけただけだった上に、その頃とすっかり容姿が変わってしまって気づかなかった。話を聞いてようやく思い出して、紅刃は苦笑する。
「あの時の、女の子か……ほんとの名前は、初ちゃんだっけ?」
「今は女でもなければ、初でもない。あの男たちにめちゃくちゃにされてから、僕は僕、初になった」
かつての紅刃は、傲慢な正義を持っていた。醜悪な人間を殺すことに躊躇いがなかった。殺すという取り返しのつかない手段で外敵を排除することが正しいと思っていた。だから、自分の醜い欲望のために年端もいかない少女を寄ってたかって穢す男たちが気持ち悪くて仕方なくて、全員皆殺しにした。今の主と出会う切欠になった、紅刃の中のターニングポイントであり、けれどあまり思い出したくない類の黒歴史の一つである。
その時、紅刃と麻生の道は一瞬だけ交わった。初という少女の人生を捨てて、生まれ変わって、復讐のために男たちを探していた麻生の目の前で、紅刃はその復讐を横取りした。その鮮烈な光景は、麻生の人生を再び方向転換させてしまっていた。
「悪いけど……俺のせいでそんなふうになっちゃったって、責められても困るよ? 最終的には自己責任……他人の人生まで責任取れないから」
「君を恨んでなんかいない。寧ろ感謝してる。君のおかげで僕はここまで強くなれた。だからこそ、弱く、変わってしまった君が許せない」
「俺がどう変わろうと、俺の自由だろ」
「構わないさ。それをどう捻じ曲げるかも、僕の自由だ」
いやそれは他人の自由じゃないでしょ。口にしないまま、紅刃は麻生の自分本位ぶりに絶句する。
麻生初の境遇には同情すら覚える。過去の悍ましい自分なんかの背中を見せて、直接的ではないにしろ間違った道に導いてしまったことに罪悪感を覚えないわけでもない。
けれど、どれだけ文句を言われるとしても、紅刃にとって今の絶対正義は己の主人であり、かつての自分が間違いであったと断言できる。
「悪いけど、俺は化け物だったころの俺を否定する」
「そう言っていられるのも今のうちだけだ」
麻生は剣を握る。紅刃の体を貫いたままの剣を乱暴に捩じり、傷を掻き回した。
「ぅ、ぐっ……」
内臓が撹拌されて激痛が体中を巡る。紅刃は血反吐と共に呻き声を吐き出す。
「君には彼女より僕の方が相応しい。かつてのように血を纏う姿こそ本当の君だ。彼女を捨てて僕を選ぶと言って。そうすれば、こんな傷、一瞬で治してあげる」
苦痛のせいで視界が霞む。恍惚に似た表情を浮かべる麻生の顔が目の前で歪んで見えた。
麻生の、脅迫というよりも懇願に近いような言葉に、紅刃はゆるゆると首を振る。
「俺はお嬢を裏切らない。たとえ嘘でも、お嬢以外を選ぶなんて言わない……二度と」
たとえ歌子を守るためのものであっても、苦しい嘘はもうつかないと決めてある。自分が助かるためだというなら尚更だ。
「解ってはいたけれど、強情だね。まあ、いい。夏は上手くいかなかったけれど、ここまで近づければ、もう一つの術の方も成功させられる」
呟きながら、麻生は右手で紅刃の頭蓋を掴んだ。
「現実を歪める言葉と対をなす、心を歪める言葉の魔術――これを使えば、手に入れられないものなんてない」
心を歪める、すなわち、洗脳魔術。
以前にも麻生は言葉で紅刃を惑わそうとしていた。今回は、惑わすなんて生易しいものではない。一部の隙もなく、取り返しのつかないように、心を操ろうとしているのが解った。
「ほら、僕を見て、僕の声を聞いて……」
麻生の言葉が神経を蝕む。それをぼんやりと聞き流しながら、紅刃はぽつりと呟いた。
「……馬鹿じゃないの」
瞬間、鮮血が蠢く。傷口から溢れ、壁を派手に汚していた血が意思を持って動きだし、大きな獣の如く変化する。
血で創られた猛獣は、紅刃の代わりに敵を見据える。
さあ、吠えろ。
「『緋顎』」
緋色の獣が口を開けて牙をぎらつかせる。
「馬鹿なのはそっちだ。攻撃なんて全部無駄……」
そう嘯く麻生の喉笛を、緋色の顎は喰い千切った。
「――ッ!!」
麻生が目を見開く。苦痛に歪んだ顔で、必死に声を出そうと口を開ける。だが、そこから言葉が紡がれることはない。その手段を、一瞬で奪い取った。
声にならない悲鳴をあげてのたうつ麻生を見下ろしながら、紅刃は己を貫く剣を引き抜き投げ捨てる。疲れ切った調子で、口元の血を手で拭い、麻生の背に声を降らせる。
「悪いけど、メンヘラの戯言にいつまでも付き合ってやれるほど、俺は暇でもないしお人好しでもない」
言霊による治癒を防ぎ麻生を倒しきるには、術の発動の隙を与えないほど、一瞬で即死させる方法が有効であることは間違いない。しかし、それは今の紅刃にはできない。技術的にも、心情的にも。ゆえに、それ以外の方法を選んだ。
「言葉が魔術発動のキーになるなら、殺すまでもない、それを奪えばいいだけ。この上なく解りやすい攻略法ぶら下げてるくせに、慢心して無防備に近づいてくるとか、フツーにありえないから」
言いながら、よろめきながら一歩踏み出して、しかしどうやら歩く余力はなかったらしく、紅刃は床に崩れ落ちる。
流石に血を流しすぎた。出血多量なところにきて、更に自分の血を使う能力を行使したのだから、自業自得と言われても仕方がない。
「少し……疲、れた……」
今すぐ歌子のところに駆けつけたいのに、体がどうにも動かない。もどかしさを抱えながら、紅刃はむせ返るような鉄錆臭さと鮮紅が広がる中に倒れ伏したままふっと目を閉じた。
★★★
重厚そうな灰色の壁で道を塞がれ、頼りになる式神とは分断された。召喚して紅刃を呼び戻すことは簡単だろうが、さてどうしたものか、と歌子は女を振り返る。
侮るつもりはないが、相手はたかだか一人。いっぱしの魔術師としては、式神に頼らずとも相手を倒せるくらいでなくては。加えて、紅刃と一緒に壁の向こうにいる麻生のことはどのみち倒さなければならないのだ。ならば、それぞれがそれぞれの敵と戦うのが一番効率的だと判断する。
「京介君なら、きっとそうするでしょうね」
と、想像して、歌子は強気に微笑む。
たとえば京介と芙蓉なら、分断されたところで焦りはしないだろう、と歌子は想像する。二人はそれぞれに強い。
『その程度の雑魚、一人で何とかしろ』
『芙蓉は俺が心配するまでもないだろうな』
そんなふうに以心伝心して、お互いの強さを信じていられるんだろうな、と歌子は思う。
彼らがそんなふうに言葉を交わせる時間を取り戻せるように。邪魔な雑魚の始末は歌子の務めだ。
「二人は下がっていて。彼女は、私一人で倒してみせる」
潤平と美波を庇うように前に出る。紅刃に頼り切りではいられない。
「見ててね、紅刃。あなたのご主人サマは一人でだって強いんだから。……いや、見えてないんだけどね」
「はぁ……やる気満々なのね。仕方がない……たまには真面目にやるか」
ぼそぼそと一人ごち、魔女のような女が箒を両手で握りしめる。
「親衛隊第三席、安達萌よ。巻きで片づけるから、そのつもりでね、お嬢ちゃん」
「退魔師、黒須歌子。あんまり舐めてると痛い目見るから、そのつもりでよろしく」
口上の後、戦いの火蓋が切られる。




