退魔師に休日はない(1)
なぜこんなところになっているのだろう、と京介は心の中で、もう何度目になるか解らない問いを唱えた。
魔術師というのは、妖怪を式神として使役することはあっても、妖怪に使役されることはない。ではなぜ、今、京介は、
「ほら、頭が高いぞ。跪いて足をお舐め」
という、ベタすぎるくらい理不尽な芙蓉姫の命令を従順に実行しようとしているのか。
優越感たっぷりに見下ろしてくる女王様の脚に恭しく口づけようとしているのか。
なぜこんなことになっているのか――それはきっと、今日引いたおみくじが大凶だったのがいけなかったに違いない。
遡ること二時間前。
空は青々と晴れ、明るく陽が差しているが、その割に気温は上がらない。当然と言えば当然の、寒空の冬、元日。冬休みの課題は年内に終わらせた。大晦日には竜胆邸に帰り、怠ける竜胆に代わって屋敷の大掃除をほぼ一人でこなした。やるべきことはすべて終え、すっきりとした気分で新年を迎えることができた。
冬休みの宿題が終わるまで退魔師としての稽古は休んでいた京介だったが、これで竜胆に文句を言われることなく再び修行に励むことができるようになった。というわけで、新年一発目の召喚。
大人しく呼ばれて出てきてくれた芙蓉だったが、用件を言うと煩わしげに睨んできた。
「正月まで式神を扱き使う気か。年末年始も休みなしとはとんだブラック企業だな」
まあ、確かに正論かな、と思わないでもない。ただ、そういう台詞は、年末年始以外はちゃんと上司の命令をきいてしっかり働いている奴が言うものじゃないのか、と思わなくもなかった。
そこへ竜胆が介入してきた。
「芙蓉ちゃんの言うとおり、正月くらいゆっくりすればいいじゃないか。あまり根をつめても体を壊すだけだしな。そうだ、二人で初詣にでも行ってきたらいい。お年玉をあげよう、おみくじを引いて甘酒を飲めるくらいには入っているよ」
そう言って、京介と芙蓉にぽち袋を放って寄越した。用意がいいことである。そこで京介は、今更ながらに、そうか竜胆は祖母だっけ、と改めて思った。還暦を過ぎているとは思えない元気さと若さ、そしてばしばし仕事を寄越すブラックな上司ぶりに、たまに忘れかける事実である。
何百年も生きている妖怪でも、お年玉を貰うのは素直に嬉しいらしく、芙蓉は、
「まあ、甘酒を飲むまで付き合ってやってもいいか」
などと言い出した。
そんなわけで、元日の午後、京介と芙蓉は連れ立って初詣に行くことになった。
向かった先は、神ヶ原一高の近所にある九重神社である。大学受験を控えた神ヶ原一高生が合格祈願のためによく訪れる、高校生御用達の神社だ。元日の今日は、高校生だけではなく、老若男女が訪れ賑わっていた。
鳥居をくぐり、石畳を歩いていく。手水舎で手を清めてから拝殿前に向かうと、そこそこ長い行列ができていた。酒と甘いものが好きな芙蓉は、ひょっとしたら甘酒が唯一の目当てなのかもしれないと京介は危惧していたのだが、芙蓉は面倒くさそうな顔もせず、一緒に行列の最後尾についてくれた。
のろのろと進む列についていきながら、周りを見回す。華やかな着物姿の女性も少なくない。視線を隣に戻すと、芙蓉はいつも通り、軍服じみた装いをしている。ただ、さすがの彼女も寒いのか、今日は襟元にマフラーをしている。鮮やかすぎるくらいの真紅をしたマフラーだが、基本が黒ずくめの格好をした彼女には、意外と似合っていた。
やがて拝殿の前に辿り着く。用意してきた五円玉を賽銭箱に投げ入れて鈴を鳴らす。鈴には魔除けの意味があるらしいが、どちらかと言えば「魔」の側である芙蓉が涼しい顔で鈴を鳴らしているのがなんとなく可笑しかった。
二礼二拍手一礼。そして願をかける――今年こそ芙蓉が頼みを真面目にきいてくれますように。
ちらりと横を窺うと、芙蓉は淡々と参拝を終えたところである。彼女が何を願ったのかは解らない。まあ、願い事などおいそれと人に明かすものではないから、彼女が何を祈願しようと構わない。だが、京介が芙蓉の願いを知らないのに、芙蓉の方は「どうせ私が命令をちゃんときくようにとでも祈願したんだろう」とあっさり見通してきた上に、「それは叶わない願いだ、願い損だ」と断言してきたのが、実に腹立たしかった。
さすがに少しむっとしたので、京介は言い返す。
「解らないだろ。俺も力をつけてきたわけだし、そろそろお前に低能呼ばわりされるのを卒業してもいい頃だと思っていたんだ」
「無理だろうな」
「即答すんなよ」
「それより、御籤を引いてみろ、京介。お前が凶を引くところを写真に収めてやる」
「なんで凶を引くことが前提なんだよ」
ぶちぶち言いながら、しかしおみくじを引くこと自体には賛成である。京介は社務所に向かい、巫女装束の女性に声をかけておみくじを引かせてもらう。
引いて三秒後に、京介は苦々しい顔をすることになった。対する芙蓉は優越感に満ちた顔をしている。聞くまでもないことだと思いつつ、京介は芙蓉に問う。
「……どうだった」
芙蓉は引いたおみくじを見せつけてくれる。「大吉」である。芙蓉も、京介の浮かない顔から察しているようで、愉快そうに言う。
「だから予言してやっただろう。凶に違いないと」
「はは……お前でも予言を外すことがあるらしいな」
「何?」
苦し紛れに強がりを言って、怪訝そうにする芙蓉に向かって、京介はおみくじを見せてやる。
大凶。
さすがの芙蓉も憐れむような顔をした。
「お、きょーすけじゃねえか!」
その声は、奇遇にもクラスメイトと会うことができたことに対する喜びというよりは、丁度いいところで獲物を見つけたことに対する復讐者の歓喜が顕れていたように聞こえた。振り返ると、白いトレンチコートを着た窪谷潤平が軽く手を挙げて歩いてきた。
「潤平か。あけましておめでとう」
「おー、あけおめ。ええと、芙蓉、さん? も、あけおめっす」
「ああ」
隣にいた芙蓉を認めて、潤平は一応挨拶した。若干おっかなびっくりな感じなのは、芙蓉の恐るべき戦闘力を目の当たりにしたことがあるからだろう。芙蓉の方はというと、潤平にはさして興味がないらしく愛想笑いの一つも浮かべない。一言応えただけでもマシだ。
潤平は特に気にした様子もなく、京介に向き直り言う。
「ほんとなら今この瞬間にもきょーすけの顔面にハバネロボールをぶつけてやりたいところだが」
「おいこら」
「ま、一応神さまの前だから、今日のところは勘弁してやろう」
神さまの前というより人前であることの方が潤平にとって問題だったのではないかとも思う。元日から通報されては大変だ。潤平がただ保身に走っただけなのになぜか恩着せがましく言われてしまい、京介は苦笑する。
「美波ちゃんは一緒じゃないのか」
シスコンである潤平が初詣を妹と一緒に来ないのは意外だな、と思いながら訊いた。すると潤平は露骨に苦い顔をする。
「美波の奴は学校の友達と一緒に初売りセールに行った」
「成程」
「その上、『兄さんは絶対についてこないでください』と念を押された」
「お前のことだから、何が何でもついていきそうだが」
「美波もそれを見越していた。朝飯に薬が盛られていたんだ。俺が寝こけている間に美波は出かけちまって、どこ行ったか解らん」
美波もなかなか強硬な手段に出るな、と京介は感心とも戦慄ともつかない気持ちになる。過激な兄に過剰な愛情を表現されると妹はそうなるものなのか、と思う。
妹にすげなく扱われたことを思い出したようで若干沈みかけていた潤平だが、すぐに気を取り直して言った。
「そーだ、京介、おみくじ引こうぜ、おみくじ。お前が凶引いてるところをツイッターにアップしてやるよ」
思考回路が芙蓉にそっくりだな、と京介は呆れる。Sっ気の強いこの二人は意外と気が合うかもしれない、と恐怖しながら、京介は仏頂面で大凶おみくじを披露してやる。潤平が「お、おう……」と反応に困っていた。
「結んでいけばどうだ?」
「ああ、そうする」
大凶のおみくじなど懐に持っていたら、あまりの運の悪さに今年こそ潤平に闇討ちされてしまうかもしれない。社務所の横手には二本の柱に縄を渡したみくじ掛がある。すでに結ばれている大量のおみくじに紛らせて、京介は大凶というある意味貴重な代物を結びつける。これで凶が吉に転じればいいのだが。
不意に、人混みの方から小さな悲鳴のような声が上がった。振り返ると、若い女性がぱたぱたと体中をあちこち触って、何かを探しているような素振りをしている。しかし、見つからなかったようで、再び小さく悲鳴を上げる。
「財布がない!」
一緒に来ていたと思しき隣の男性が、「どこかで落としたのか?」と心配そうにしている。
「さっきおみくじ引いたときかなぁ……」
二人は連れ立って社務所の方に向かい、財布を探し始めた。
もしかしたら財布が落ちているかもしれない。京介は少し気にかけておくことにする。
と、注意して周りを見るようになると、人混みの中をちょろちょろと動く小さな影があることに気づいた。中学生男子くらいに見えて、タートルネックのセーターを着て、ニット帽を目深にかぶっている。
「妖……?」
その子供は妖怪だった。ゆえに、おそらく厳密には子供というような年齢ではないのだろう。その小さな妖怪は、すばしこい動きでいろいろな人間に近づいてはすぐに離れていく。人間の目に留まりにくい妖怪らしく、人間たちは気づかない。
その奇妙な動きと、先程の女性を襲ったトラブルを合わせて考えると、少年妖怪が何をやっているかは自明だった。
「スリか」
京介の呟きで、芙蓉も気づいたようで、少年妖怪を目で追い始めていた。
「つまらんことを……低俗な妖だな」
「ん、どうした、きょーすけ?」
潤平には見えていないようだった。おそらく京介が指さして示したところで、目には入らないだろう。京介は見えない潤平のために説明する。
「妖怪が、人間に見えてないのをいいことにスリをはたらいてるんだ」
「何ぃ? きょーすけ、捕まえなきゃじゃんか」
「確かに、放っておくわけにはいかないな」
言いながら、京介は早足に少年の方に向かう。
少年は素早い動きでいくつもの財布を掏り取り、懐に入れる。しかし、京介は奇妙に感じる。彼の顔には、狙った獲物を獲得したときの達成感も、間抜けな人間に対する嘲笑も浮かんではいなかった。寧ろ、やけに沈鬱そうな顔をしている。
そんなにつまらなそうな顔をしながらなぜスリをするのか、京介には解らなかった。その時は、まあとっ捕まえてから吐かせればいいか、くらいにしか考えていなかった。
思えば、その時深く考えていれば、後に起こるトラブルを回避できたのかもしれない。




