山積みの問題と解決(1)
竜胆の「予言」は、半分は当たって、半分は外れた。初めは距離があり、遠慮があり、ぎこちなかった芙蓉だったが、少しずつ現状に慣れてくると遠慮なく本音をぶちまけるようになった。この点、竜胆の予言は大正解だ。ただし、そうなるまでに、二か月すらかからなかった。芙蓉はあれから一か月ほどで、現在の彼女とさほど変わらない状態になった。すなわち、生意気・高飛車・上から目線の三点セットを備えた彼女である。
おそらくはそれが、本来の、彼女らしい姿なのだろう。京介の式神でいる間は、芙蓉は自分らしさを抑え込む必要がなくなった。そういうわけだから、嫌なことは、最初は遠慮がちに、次第にはっきりと、嫌だと拒否するようになった。拒否率が高いため、四六時中一緒にいる必要性がなくなり、「一応年頃の女の子なんだから」と竜胆が配慮を示したため、芙蓉は早々に京介のアパートを出て行き、近くのアパートで一人暮らしを始めた。「心の距離が近づくと物理的な距離は開くものである」という竜胆が当時語った言葉は至言である。
そのうち、あまりに命令拒否率が高いので、芙蓉との契約は本当にちゃんと機能しているのか、京介はたびたび不安に駆られた。その時期を乗り越えると、芙蓉の命令違反にいちいち一喜一憂することはなくなった。芙蓉が自由ならそれで構わないだろうという、悟りというか開き直りの境地に至った。
そんな仮初の契約が続き――ついに壊れて、今に至る。
★★★
「要するに、おヒメは元のクソ主から逃げてきて、それを不破京介が禁忌の契約で保護し、今になって王生樹雨が復活してしまったというわけか」
京介の話を弁天が大雑把に一言でまとめた。
「弁天。お前は王生のことを知っていたんだな」
「おヒメが厄介な人間に隷属されているというところまでは、噂でね。だから私はおヒメの主人を殺そうとした。私の知らない間に主人が交代していたおかげで、殺す相手を間違えかけたけど」
間違いで殺されかけた京介は肩を竦める。弁天が初めて会った時に漏らしていた言葉の真意や、二度目に会った時に京介への態度が軟化していた理由は、とどのつまりはこういうことだったわけだ。
「理屈で言えば、本来あるべき状態に戻った状況というわけだ。芙蓉は、本当の主の元に戻り、王生は芙蓉を取り戻し、俺は禁忌を犯した悪者扱いだ。けど俺は……芙蓉を王生の手に渡したくない。黙っててごめん。今までみんなを騙していたようなものだ」
本来なら、王生樹雨が正しい側だ。中央会が京介を捕えたのだって、見当外れでもなんでもない。禁忌を犯したのは京介の方なのだから。
それでも――どんなに間違っていたとしても、芙蓉を取り戻したい。
「そういうわけだから、俺が芙蓉を助けに行きたいのは、俺のエゴみたいなものだ。だから、みんなを無理に巻き込むつもりは……」
「赦しませんわ」
京介の言葉を遮って、紗雪が不意に強い口調で告げる。責められても仕方のないことだ。京介は自責に駆られて唇を噛む。
「――芙蓉さんを助けに行くですって? そんな面白そうなこと、誘ってくださらなかったら赦しませんわよ!」
「え」
顔を上げると、なぜか紗雪がうっとりとした様子で頬を染めている。
「ああ、麗しき略奪愛! 興奮しますわ! さすがは京介さん、私のツボをしっかりと解っていらっしゃる罪なお方。うふふふふふ」
紗雪は若干不気味な微笑を浮かべる。予想していたのと異なる斜め上の反応である。
続いて弁天が冷ややかな笑みを浮かべて言う。
「契約だなんて人間側の都合、私にはどうでもいい。ただ、私は王生とかいう男が気に入らないからぶち殺すだけさ。そういう意味では私とお前は利害が一致しているから、共闘してやってもいい」
「だいたい、王生樹雨は芙蓉さんが逃げたくなるほどのクズ野郎なわけですよね。正式な主だかなんだか知りませんが、そういう調子に乗っている男はいっぺんくたばったほうがいいと私も思います」
弁天に続いて物騒なことを言いだしたのは美波だ。更に歌子がそれに同調し、
「ほんとそれね。こないだパッと見た感じいけ好かない男だったものね。嫌がる女の子を強引に連れてなんて外道よ。ねえ、紅刃?」
「そうそう、お嬢の言うとおり」
紅刃はにこにこと上機嫌で主を全肯定していた。
予想していたのとは違う反応に戸惑っていると、潤平が肩に腕を回してきて笑いかける。
「正直に話したら軽蔑されると思ってビビってたんだろー。ふはは、なめんなよ、きょーすけ」
「潤平……」
「王生の野郎や魔術師中央会とやらが正義面して敵に回ったって関係ないね。俺はきょーすけがどういう奴か知ってる。お前を信じてる。だから俺はお前の味方だぜ」
「まあ、兄さんが味方になったところで戦力的にはたかが知れていますが」
相変わらず美波が辛辣なツッコミを入れ、「そりゃあないぜ美波ー」と潤平が涙目になっていた。
信じてる――その言葉の、どんなに心強いことか。
「私たちの心は決まってる。京介君、あなたは一人じゃないわ。みんなで、芙蓉さんを助けに行こう」
うじうじしてる暇はないよ、と歌子が背を叩いて、前を向けと促す。
「……ありがとう、みんな」
一人じゃない。京介には、信じてくれる仲間がいる。そして、この心強い仲間たちがみんな、芙蓉を助けるために戦おうとしている。
三年前、ぼろぼろに傷ついて孤独だった芙蓉姫。今の彼女は、決して孤独ではない。
苦しい時は、名前を呼べばいい。
手を差し伸べる仲間がこんなにいるのだから。
「今行くよ、芙蓉」
芙蓉を縛る因縁を断ち切るため、京介は退魔の刀・刈夜叉を抜いた。
立ちはだかる敵は、斬り倒してみせる。
「えっと、あの、京介君」
と、歌子が躊躇いがちに声をかけてくる。おずおずといった様子で、歌子が指さす。その視線を追って、京介は自分の手元に目をやる。右手に握りしめた刈夜叉、その刀身が、ぼっきり折れている。
「……………………」
一拍遅れて、京介は沈鬱な表情で項垂れる。
「折れてんの、忘れてた……!」
★★★
芙蓉の境遇は、実は歌子のものと似ている。三番目の子どもだった。後を継ぐ長男がいて、万が一のためのスペアである長女がいて、その次に生まれた、必要のない子。
生きるのに必要な最低限のことだけ教えた段階で、親たちは芙蓉を捨てた。人間の世界なら大問題だろうが、妖の世界では別段珍しくもない話だった。哀しくもないし、恨みもしない。妖にとって、血が繋がった子であることや家族の情などというものは大事なものではない。血が繋がっていなくても家族以上の絆を結べることもあるし、血の繋がりなど関係なく家族に見捨てられることもある。人間とは「家族」の考え方が根本的に違っている。使い道のない三番目の子どもの面倒を見てくれるほど、両親は生易しい妖ではなかったというだけだ。寧ろ、野垂れ死なない程度までは一応育ててくれたのだから、悪くない扱いだった方かもしれない。
一人になった芙蓉は好き勝手に生きた。何十年も、何百年も。比較的自由に暴れることのできた時代もあれば、魔術師がやたらと妖の世界にまで干渉してくる時代もあった。自由だったり、不自由だったり、いろいろな時代を、幾星霜。
家族には恵まれなかったが、そこそこ気の合う妖と巡り会うことはできた。生来妖力が強く、その強すぎる力を持て余し気味だった芙蓉にとって、たとえば弁天のような、まともに張り合える相手がいるのは楽しいことだった。
そうやって、自由気ままに、自分のためだけに生きて、何百年。
やがて芙蓉は、その生き方に飽きた。
独りで、自分のためだけに生きるには、妖の一生は長すぎる。
自分のためにやりたいことはたくさんやった。だから、今度は誰かのために生きてみたいと思った。
誰かの傍で、誰かを守って、生きてみたいと。誰かに必要とされる生き方をしたいと。
そう願って――芙蓉は、その「誰か」を選び間違えた。
難儀なことだな、と芙蓉は思う。
芙蓉の身にふりかかったことを、人間のスケールに合わせて一言でいうなら、単に面倒な男にひっかかってしまった、というだけの話だ。我ながらくだらないことに何年も悩まされているものだな、と芙蓉は自虐的なことを考える。ただ、人間だったら、男の頬を張り飛ばして慰謝料をふんだくった上で別れるだけのところ、妖と魔術師の関係というのは難儀なもので、契約という絶対的な上下関係に縛られているせいで、別れ話すら満足にできないのだ。
決死の思いで逃げ出したというのに、男は諦めることなく、しつこく追いかけてきた。
「悪い子だね、芙蓉姫。主人が昏睡状態だっていうのに、ほっぽって他の男のところでのうのうとしているなんてさ」
与えられた私室、芙蓉はベッドの上に身を縮めて座っている。逃亡防止のために右の足首に枷が嵌められ、鎖はベッドの脚に繋がれている。部屋の中ですら自由に動くことを許されない。扉にすら手が届かないせいで、部屋に鍵をかけることもできない。おかげで王生はノックもなしに好き勝手に侵入してくる。プライバシーも何もない。
王生は豪奢なソファに身を深く沈めて問いかけてくる。
「彼とはどこまでやったわけ。優しくしてもらえた?」
「……」
「どんな言葉で彼を誘惑したの。僕よりよかった?」
「京介とはそんな関係じゃない」
返事をするつもりはなかったのだが、王生の挑発的な問いがあまりに聞き苦しく、棘のある声を出してしまう。と、王生は張り付かせていた笑みをふっと引っ込めるとぎろりと睨みつけてくる。
「京介、か。随分親しげに呼ぶじゃないか、偽物のことなんかを」
王生は徐に立ち上がると、ベッドの脇まで歩いてくる。睨み上げると、王生は拳を振り上げ芙蓉の頬を張った。
悲鳴は上げない。唇から血が流れる。芙蓉は乱暴に手で拭い去ると、再び王生を睨んだ。
「後悔しているか、芙蓉姫」
「ああ、しているさ。あの時、ちゃんと殺しておけばよかった」
今度は反対側の頬を殴られた。
人間の拳などたかが知れている。殴られたくらいで屈服はしない。王生もそのくらいは解っているだろう。
ひとまず気は済んだらしく、王生は小さく息をつくと再びソファに腰かける。
「やっぱり気に入らないな、不破京介という男は。ちょっと画策して殺そうとしても上手くいかなかったみたいだし」
聞き捨てならない言葉に、芙蓉は視線を上げる。王生はにやりと笑う。画策とやらに、一つ心当たりのあった芙蓉は問う。
「仲間の式神に話を聞いた。魔術師中央会に、相馬誠という裏切り者が潜り込んでいたと。その名前に、私は聞き覚えがあった」
紅刃からその名前を聞かされたのは、春先のことだっただろうか。その時は、記憶の奥底に封じ込めて考えないようにしていた。今思い返してみると、やはり芙蓉はその名前を知っていた。
よくよく考えてみれば、周到な用意をして中央会に潜り込んだ魔術師が逃亡を手助けした男が京介の仇敵だったというのは、単なる偶然で片づけるには出来すぎている。相馬と葛蔭が繋がっているか、そうでなければ、京介に敵意を持つ者が相馬の裏にいるとしても不思議ではない。王生の反応を見るに、芙蓉の予想通り後者だったらしい。
「相馬は僕の従者だ。前に一度、君に話をしたことがあったかもしれないな」
「だが解らない。相馬誠が暗躍していた時、お前はまだ目覚めていなかった」
「僕が眠りにつく直前、指示をしていただけさ。君を奪おうとする奴がいたら消すようにと。あいつは忠実で、頭がいい。葛蔭悟と不破京介が騒動を起こしていたことを調べ上げ、葛蔭悟を上手く躍らせてやるのが不破京介にとって一番ダメージが大きいと即座に判断した」
「自分の犯行であることや、その裏にお前がいることを知られずに、葛蔭悟を駒として動かし、京介に差し向ける。そのために、わざわざ中央会に潜り込んだわけか。随分と遠回りな」
「まあ、結局あいつのやったことは露見したわけだけど。でも、あいつはやっぱり優秀だ。中央会の捜査の手が僕に回る前に自害した」
「部下が自殺したというのにへらへら笑っていられるなんて、神経を疑う」
「哀しめとでもいいたいのかな。馬鹿馬鹿しい。駒が一つ壊れたくらいで、いちいち泣く奴がいるかい」
「だったら、私のことも放っておけばよかった。駒を一つ失くしたところで、お前は痛くもかゆくもあるまい」
「君は特別さ」
王生は教え諭すような口調で言う。
「駒なんかじゃない。僕の可愛いお人形さん。いつまでも、僕の傍に置いてあげる」
「いい歳した男がお人形遊びか。くたばれ変態」
殴られようとかまうまいと悪態をつく芙蓉に、王生は何か言いかける。
と、扉がノックされ、王生は舌打ちしたそうな顔で口を噤み、ドアを振り返る。
「どうぞ」
「失礼」
入ってきたのは白衣の女性。姫井栞奈だった。
「王生。あなたに伝えておきたいことが」
「何?」
つまらない用事で邪魔をしないでくれ、とでも言いたそうな不機嫌の滲んだ声で王生が問う。姫井は王生の元まで歩いてくると、耳元に唇を寄せて囁いた。
「――――」
それを聞いた王生の表情が、みるみる愉悦に染まる。
「ふうん……了解。とりあえず、こちらの戦力を揃えようか」
「ここが戦場になるとでも?」
「何もないならそれでいいけど。念のため、ね」
王生は立ち上がり、肩越しに芙蓉を振り返ると、
「じゃあ、僕はちょっと仕事に出るよ。大人しくしていてね」
大人しくも何も、拘束されて部屋の中ですら満足に動けないのだ、暴れようもない。芙蓉は平静な顔でつんと顔を背ける。返事がないと見るや、王生は肩を竦め、姫井を伴って部屋を出て行った。
二人の気配が部屋から遠ざかるのを確認すると、芙蓉は手で胸をきゅっと押さえる。何も聞こえないふりをして平然としていたが、芙蓉の心臓はどくどくと脈打ち始めていた。
『中央会に捕えられていた不破京介が脱走したそうよ』
その言葉が何を意味するのか。自由になった京介がこの後どう動くのか。
それを考えて芙蓉は動揺した。




