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敗残兵の邂逅と再生(9)

 それは、紛うことなき「巨人」だった。大地を寄せ集めて作られた、巨大なゴーレムは、その内部に土宿儺自身を抱え込み、丈は十五メートルを超えている。夜闇に紛れて周りからは見えにくいだろうことが幸いだ。そうでなければ大騒ぎだ。

 止めなければ、と漠然と考えるが、両手両足が傷ついた状態で、その上魔力もほとんど回復していない状況だ、具体的にどうすればいいのか、策はまるで思いつかない。

 ゆったりと考えている時間はなかった。泥人形の巨大な右手が京介の頭上に振りかざされる。蠅でも叩き潰すかのように無造作に掌が落ちてくる。半ば転がるようにして降ってくる手から逃れると、紙一重のところでずしんと重い音が響き渡った。

 のろのろと手が持ち上がっていくと、地面は掌の形に沈んでいる。やはり質量は手のサイズに比例しているらしい。こんなものに潰されたらひとたまりもない。

 幸いなのは、巨体故に動きが緩慢であることだ。万全の状態なら余裕で躱しきれる程度に相手は鈍い。現在の京介は万全とは程遠い状態なので、「余裕で」とはいかないものの、「本気で頑張ればぎりぎり」躱せる程度であるが。

 右手が持ち上がり再びこちらに降り下ろされてしまう前に、京介は立ち上がり、痛む脚を引きずりながらも距離を取る。

 全身茶色の泥人形は、外から見ては、そのどこに核である土宿儺がいるのか解らない。京介はほんの一瞬だけ、稀眼を使う。すると、泥人形の心臓に当たる左胸のあたりに白い光を視ることができた。そこに土宿儺が、頑丈な土の壁に守られながら隠されている。

 土宿儺の妖力が巡らされ強化された泥の体のすべてを崩すことは難しい。特に、魔力がほとんどない今の状態では困難だ。ゆえに、ピンポイントで土宿儺本体を狙うしか道はない。ありったけの力を一点に集約させ、泥人形の心臓を射抜くのだ。

「頼む……どうにか持ってくれ」

 祈るような気持ちで左手に呪符を取る。

「焔穹現界」

 呪符から湧き出す焔が弓へと形を変えていく。番えられた矢は煌々と燃え上がる炎熱の矢。泥の壁を貫通し、土宿儺へと届かせるために、エネルギーを一本の矢に凝縮させ、引き絞る。

「――撃墜せよ」

 びゅうっ、と風が鳴る。弦を放れた炎の弓が火の粉を散らしながら、狙い過たず泥人形の心臓めがけて駆ける。

 人形が動く。緩慢ながらも左手を持ち上げ、盾にするように胸の前に掲げる。焔の鏃が、その掌を捉えた。

 土宿儺によって固く強化された泥の左手を、焔の矢が射抜く。掌の中央に穴を開け、周りを黒く焦がし、衝撃によってぼろぼろと崩れさせる。受け止めきれなかった矢は、その先の心臓へ到達しようと、止まることなく突き進んだ。

 そして、泥人形の胸に突き刺さる。

 ぼとりと人形の左腕が落ち、その先がしっかりと見通せるようになると、人形の左胸に確かに焔の矢が食らいついているのが見えた。

 土宿儺まで届いただろうか。京介は固唾を呑む。次瞬、聞こえてきたのは、土宿儺の声。

 それは決して断末魔の声などではなかった。

「その程度か、人間」

 ゆっくりと泥人形の右手が持ち上がり、己の胸に突き刺さる矢を、無造作に握り潰した。

「っ!」

 痛みも熱さも感じない、ゴミを払うくらいの調子で、泥人形は焔を掻き消した。人形の胸には、僅かに焼け焦げたような痕が残るばかりで、その先にいるはずの土宿儺の姿は拝めない。そればかりか、崩れたはずの左手も、あたりの土を拾い集めて再生を始めている。

 今の攻防など存在しなかったかのように、泥人形は平然と一歩前進して低い足音を響かせた。その音が、京介には絶望が近づいてくる音に聞こえてならなかった。

 体は悲鳴を上げている。魔力は空っぽ。最後の力で打ち放った渾身の一撃は平然と凌がれた。

 あとはもう何も残っていない。

「何も不思議なことはない。この世界は元々、絶望で溢れている。どうしようもない無力と、死に満ちた世界だ。だが安心しろ。俺が全て壊す。お前はそれを眺めていればいい」

 その直後、泥人形の腹部から無数の蔦が飛び出した。枯れた色の蔦は一見すると脆そうだが、土宿儺の妖力が通い泥人形の血管として機能するそれは頑丈に作り替えられている。鎌首を擡げる蛇のようにも見えるそれらは、一斉に飛び掛かり京介の体に巻き付いた。

 咄嗟に焔の術で燃やそうと考える。しかし、魔力が底をついている上に、両手を蔦に戒められ呪符を放つこともできない。手を拱いているうちに全身を拘束する蔦は際限なく増えていく。

 身を捩るが甲斐もなく、体はいっそう酷く締め付けられる。苦し紛れの抵抗をあっさり蹴散らされ、軋む体を力任せに引き寄せられる。脚が地面から離れると、泥人形の壁のような胴体が眼前に迫っていた。

「脆弱な人間とはいえ、曲がりなりにも退魔師……土に埋めれば養分くらいにはなるか」

 泥人形の胴体が、ばっくりと口を開けて底なしの闇を覗かせる。

「喰らえ、泥人形」

 刹那、土の中に引きずり込まれ、闇の中に呑み込まれた。




 何も見えない暗闇の中で、絡め取られた体はぎしぎしと軋みを上げ、苦痛に侵蝕されていく。意識を保っていることさえも困難になってくる。

 息苦しい。土の中に埋もれ、酸素が足りない。思考がちっともまとまらない。こんなところで負けている場合ではないのに。

「行かないと……戦わ、ないと……」

 うわ言のような声が漏れる。それに、嘲笑を含んだ鬼の声が応じる。

『無駄なことだ。諦めろ』

「煩い……まだ……」

『お前にはもう絶望しかない。お前には戦う力は残っていない。お前を助けてくれる仲間もいない。孤独のまま、土に埋もれて息絶えろ』

「俺は……」

『お前は無力だ。何も守れやしない。何も救えない。何も為せずに死ぬ。絶望したか。少しは俺の絶望が解ったか……そのまま闇に呑まれてしまえ』

 麻痺した思考に鬼の声が染みこんでくる。心臓を冷たい手で握り潰されるような感覚。体も心も凍えてしまいそうだ。

 苦しい。自分の無力が、とても苦しい。大事な友達を失くして、自分の弱さを後悔して、全部を守れるくらい強くなりたいと願ったのに、また何もできない。

 絶望は息ができないほど苦しい。失意に締め付けられて、心の中で何かが壊れてしまったかのように、ぼろぼろと涙が溢れた。

「俺はまた……何も、できないのか……?」

 闇の中で慟哭を吐き出した――瞬間。

 衝撃音と共に、世界を暗闇に閉ざしていた泥の壁が吹き飛んだ。

 目を見開く。背中に星空を背負って浮かぶ人影。紫苑色の瞳が京介をまっすぐに見つめていた。

 白い手が伸びる。京介を捕えていた無数の蔦を無造作に引き千切ると、土に埋もれていた京介を力ずくで引きずり出す。

 暗闇から救い出してくれたのは、芙蓉姫だった。

「芙蓉姫……?」

 いったいどうして、彼女がここに。思考が混乱する。訳が解らないまま、京介は芙蓉姫の腕で抱き上げられる。芙蓉姫は泥人形を黙って蹴り飛ばし、その勢いで後ろに跳んだ。

 たんっ、と危なげなく着地し、芙蓉姫が泥人形を見上げる。つられて京介もその視線を追う。泥人形の腹は大きく抉られている。どうやらそこから救出されたらしいと解る。芙蓉姫が穿ったらしいその穴は、しかし既に修復を始めていた。やはり土宿儺本人にダメージを与えなければ、強大な妖力を以て、泥人形はすぐに自己修復してしまう。不破の先祖が苦戦した相手は、やはり一筋縄ではいかない。

「無駄だ。我が泥人形は何度でも再生を繰り返す。生半な攻撃では俺に傷一つつけられない。俺を止めることはできない」

 土宿儺は芙蓉姫の闖入にも特に焦る様子もなく淡々と告げる。

「すべてが無駄だ。お前に俺は倒せない。お前は何も守れないのだ」

 空漠たる空に高笑いが轟く。直後、

「くだらない」

 嘲笑を掻き消すように凛とした声が響いた。

「……何だと?」

 土宿儺が微かに不機嫌そうな声を上げる。芙蓉姫は抑揚のない声で続ける。

「くだらない戯言を吹き込むな。何も守れないだと? 少なくとも、この男に守られた者が、ここに一人」

 思いがけない言葉に、京介は瞠目する。この手では何もできないのかと絶望しかけていた。けれど芙蓉は「守られた」と思ってくれているのか。

 土宿儺の方は、馬鹿馬鹿しいとばかりに一笑に付す。

「人間の力などたかが知れている」

「お前に言われずとも知っている。人間は弱くて脆い。だが、私にはないものを持っている。それは……私が求めているものかもしれない」

 紫苑色の瞳が京介を見た。視線が交錯する。憂鬱そうな瞳に、ほんの一かけら、別の光が宿っているように見えた。

「私は期待しているのかもしれない」

「芙蓉姫」

「帰ろう。お前に死なれるわけにはいかない」

 芙蓉姫は京介を抱えたまま踵を返す。ろくに体を動かせない京介は、大人しく芙蓉姫に身を任せるしかない。

 平然と立ち去ろうとする芙蓉姫に、土宿儺が嘲笑する。

「敵わぬと見るや迷わず敵前逃亡か! 俺に牙を剥いておきながら、逃げられるとでも? 愚かな!」

「愚かなのはお前だ。勝敗は決した。お前のような蛆虫に、もはや用はない」

 びりびりと空気が震えた。地震の前の予兆を彷彿とさせるような感覚。京介は芙蓉姫の肩越しに土宿儺の巨人を振り返る。

 刹那――轟音と共に、巨人が地面に叩き伏せられた。

「……!?」

 まるで見えない鎚を振り下ろされたかのように、上から叩き潰され、押し潰された。一瞬で崩れ去り、ただの土塊となった巨人、その残骸の中から姿を現した土宿儺は地に這い蹲っている。不可視の力に押さえつけられているかのように、微動だに出来ずにいた。

「我が『黒鎚』は遍く敵を踏み潰す……加減はしてやったぞ」

 ――十五メートル級の巨人を一撃で粉砕しておいて「加減」なのか。

 予想以上の芙蓉姫の力の片鱗を目の当たりにして、京介は言葉も出なかった。


★★★


「癒しの光よ……穢れを清め……ええっと、何だっけ? 治癒の術なんて数年ぶりだから呪文がうろ覚え……」

 怪しい詠唱で治癒魔術を行使しようと奮闘するのは竜胆である。芙蓉姫に運ばれアパートまで帰ってきた京介が、両手両足の負傷と魔力切れのために満身創痍でどうしようもなかったため、さてどうしたものかと困っていたところ、丁度竜胆が京介の部屋で待っていた。部屋を訪ねたら、芙蓉姫が鍵を掛けずに出かけてしまったことが判明したため、竜胆は留守番するしかなくなったらしい。

「いやいや、待てよ、京介、私に任せておきなさい。この程度の傷、回復力を向上させる魔術を使えばすぐに塞がるんだから」

「別に無理しなくても、普通に病院行くけど」

「いやいやいや、戦闘に参加しない私がサポートすらしなくなったら、当主として立場がないじゃないか。治療くらい私にやらせなさい。だいたい、そんな怪我で病院行って、なんて言い訳するつもりだい。そんなあからさまに喧嘩の後みたいな怪我じゃ高額自費診療待ったなしだよ。まあ待て待て、今思い出すから……ええっとぉ……」

 こめかみをぐりぐりと押して記憶を引っ張り出そうと竜胆が唸る。呪文を思い出すまでにたっぷり五分はかかった。

「休んで魔力が回復すれば再生能力も上がる。ま、そのうち治るよ」

 ようやく治癒魔術をかけてくれた竜胆は、重篤な怪我ではないようだと適当な調子で見立てた。

「鬼たちは」

「神ヶ原一高のグラウンドで伸びている鬼三匹については、さっき中央会から回収の連絡が入った。それにしてもたまげたね。不破のご先祖様たちが必死こいて封じてきた鬼を一撃で沈めるとは。芙蓉姫ちゃん凄すぎ」

 竜胆が手放しで褒める。芙蓉姫は称賛に対しては無反応で、部屋に戻ってきてからずっと、いつものように膝を抱えて俯いている。土宿儺の前ではいつになく饒舌だったのだが、あれは幻聴だったのだろうか。

 思えば、ずっと殻に閉じこもって心を開こうとしてこなかった芙蓉姫があれだけ喋ったことも勿論だが、そもそも京介を助けに来てくれたこと自体、奇跡のようなことだ。未だに、あれは夢だったんじゃないかとも思う。

「芙蓉姫……どうして、助けに来てくれたんだ」

 直球で問えば、芙蓉姫は顔を上げる。浮かない表情、陰鬱そうな瞳をしながら、芙蓉姫は薄く唇を開く。

「式神が主人を守るのは、別に不思議なことではないはずだ」

「お前は、それでいいのか……俺を、主人だと思えるのか」

「……少なくとも、お前が私を守りたいと言った言葉に、偽りはないと思う。お前と私の契約は、本来の理に逆らう仮初のもの。それでも今は、お前が主人で、私が式神だ。式神として、為すべきことは為す。そうすることで、お前が私にかけた慈悲には、応えるつもりだ」

 蹲っていた芙蓉姫が、不意に京介の傍らに寄り添った。京介の右手をそっと取ると、紫苑色の瞳はまっすぐに京介を見つめた。

「この手に契約の印がある限り、私はお前のものだ。何でも命じればいい。お前の命令をきくのは、そんなに嫌ではない」

 言うことを聞かせたいなら命令すればいい、と刺々しく睨みつけてきた時とは違う。

 逆らえない命令に縛られるのではない。命令を受け入れる覚悟がある、と紫苑の瞳が語っていた。

「何が切欠で、心を開いてくれたんだ。自分で言うのも悔しいが、俺は情けないところを見せてばかりで、とてもじゃないがお前の主人に相応しいことをした覚えがない」

 そう尋ねれば、芙蓉は京介の胸にそっと手を触れる。

「不完全な契約を結んだばかりだからか……お前の心が揺れると、それが伝わる。お前はずっと私のことを考えて、悩んで、答えを出そうとしていた」

「それって」

「一言で言うと……ここ数日の思考がだだ漏れ」

「――ッ!!」

 予想外の爆弾を投下されて凍りついた。

 守りたい。助けたい。でもどうすればいいだろう。本当にそんなことができるのか。ただの枷になってはいないだろうか。早く自由にしたい。もどかしい。苦しい。――そんなふうに、ずっと悩んでいた。

 それが――全部筒抜けだっただと?

 恥ずかしさで体が火照る。無駄とは解りつつも、一応言ってみる。

「プライバシーの侵害!」

「私に言われても困る」

 もっともだ。

「まあ、おかげで、お前が表も裏もない、ただのお人好しだと解った。それで、お前の式神になら、なってもいいと思えた」

「芙蓉姫……」

 羞恥で昂ぶった精神が落ち着いてくると、京介は深く息をつき、芙蓉姫をまっすぐ見つめて問う。

「俺は弱いから、一人じゃどうしようもないときがある。そうなったとき、お前の力が必要になったとき、お前を呼んでもいいか?」

「ああ」

「……ありがとう、芙蓉姫」

 まだ心の底からではないかもしれない。それでも、ほんの少しでも、信じてくれて、受け入れてくれて、ありがとう。京介は柔らかく微笑を浮かべる。

「お前がいつか私との約束を果たすその時まで、私はお前の式神だ。お前は私に何を望む?」

「……俺は神ヶ原の退魔師として、人と妖を守りたい。一緒にやってくれないか」

「京、介……」

 芙蓉姫がぎこちないながらも名前を呼んでくれる。歩み寄ろうとしてくれているのが感じられて、俄に胸が熱くなる。

「………………………………あの、それは、ちょっと面倒」

「……ん?」

 なんとなくいい雰囲気だったはずなのに、気づけば芙蓉姫が微妙な表情で眉を寄せている。

「……基本的には、命令は聞くつもりだが……元々私は、誰かを守るのは得意じゃない」

「じゃあ、事件の調査を一緒に手伝ってくれるとか」

「…………いや、調べ事も、そんなに好きじゃない」

 得手不得手の話から好き嫌いの話になってきた。このあたりから、京介と芙蓉姫の共闘交渉は雲行きが怪しくなってきた。

「竜胆ばあさまのサポート方面は」

「……それも私向きではない」

「妖相手の説得とかは」

「……どちらかというと嫌い。この際はっきり言うと、私の専門は、敵を問答無用で叩き潰すことだけというか」

「いや、あの……本気で嫌なことを強制するつもりは勿論ないし、お前が俺の頼みに納得してくれた時に助けてくれればそれでいいんだけど……それにしても…………結構注文多いな」

 京介が微かに疲労交じりにツッコミを入れると、芙蓉姫はほんの一瞬だけ、くすりと屈託なく笑った。

 思えばこのあたりから、芙蓉姫は少しずつ、押し込めていた本当の自分――身もふたもない言い方をすれば本性を、顕し始めていた。

「いやあ、めでたいねえ。芙蓉姫ちゃんと京介、記念すべき和睦、最初の一歩って感じ?」

 傍で聞いていた竜胆が、明らかに笑いを堪えているような顔でのたまった。

「とりあえず記念撮影、いっとこうか」

「なんで撮影?」

「後で見比べるためさ! 今はちょーっとぎこちないけど、私は予言するよ、二か月もするうちには、きっとお互い十年来の友人の如く、本音をぶつけ合える気の置けない仲になっているはずさ!」

 そして、竜胆はどこからともなくカメラを引っ張り出して、ろくに準備の暇も与えずにシャッターを切った。おかげで、京介はボロ雑巾状態のなりを写真に残すことになってしまった。芙蓉姫はというと、少々ぎこちないもののそんなに嫌そうではない顔で写っていた。

 仮初の主従コンビは、ここからスタートする。

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