敗残兵の邂逅と再生(7)
派手な音を立てながら、無数の水風船が破裂する。身の危険を感じた時は、周囲の景色がスローモーションのように見える、などという話を聞くが、京介にとってこの瞬間がまさにそれだった。
炸裂した水風船は、その一つ一つが爆弾だった。外殻が裂けると同時に、中の水が飛び散る。その水の雫の一つ一つが鏃となって襲いかかった。三百六十度、全方向から高速で飛来する水の礫、逃げ場所はない。
まずい、と頭では考えながら、手は既に無意識のうちに動いて呪符を放っている。目の前に迫る危機への対処方法は、体に染みついている。言葉は勝手に流れていく。
「焔嵐現界……!」
轟、と炎が渦を巻き立ち上る。炎の壁が京介を囲み、水の弾丸から身を守ってくれる。ほんの数秒間の攻防、どうにかしのぎ切ってから、遅れて背筋がぶるりと震えた。
今のは、術の発動が一秒遅れていたら危なかった。呼吸が乱れ、心臓がうるさく跳ねる。
緋色に燃え上がる壁に隔てられた向こうで、藍童子がけらけらと笑っていた。
「惜しかったなぁ! もう少しのんびりしていてくれりゃあ、『水風船』で蜂の巣だったのに」
実力差があるのをいいことに藍童子は余裕ぶっている。その態度に少なからず苛立ちながらも、京介は努めて冷静になろうとする。炎の壁の防御のおかげで、少しだが時間が稼げている。この間に呼吸を落ち着け、次の策を考えなければならない。
今のところ、決め手になりそうな策は浮かばない。だが、攻撃の手を緩めた瞬間、藍童子に押し負けてしまうのは目に見えている。攻め続けなければならない。
ひとまず、焔嵐の術が切れると同時に、焔の弾丸をぶち込む――そう考えて、呪符を取る。
その時、びくん、と心臓が跳ねた。
「え……」
突如、締め付けられるような胸の痛みに襲われる。息ができなくなるほどの苦痛に思わず胸をかきむしる。
体の異常を示すように、焔の壁が唐突に鎮まり掻き消える。
がくがくと脚が震え、膝をつく。京介は愕然を目を見開く。
もはや防御の用を為さなくなった消えかけの淡い炎の向こうで、藍童子が嘲るような声を上げる。
「まさか、もう終いか?」
魔力切れだった。
これ以上は術を使えないと体が悲鳴を上げている。自分の限界を見誤っていた。
こんなときに魔力切れだなんて、冗談じゃない! 京介は忌々しげに頭を抱える。確かに大技を連発したが、これくらいで燃料切れになることなどこれまではなかった。いつもだったらまだ余裕があるはずだ。しかし、今までの経験則とは裏腹に、エネルギーは枯渇していた。
現状に理解が追いつかないでいると、不意に京介の脳裏に、竜胆の意味深な言葉が蘇ってきた。
『本当? ……本当に、一人で大丈夫かい?』
今なら解る、あの言葉は、間違いなくこうなることを見越しての発言だった。京介は気づいていなかったことに、竜胆は気づいていた。だから警告をしていたのだ。直接的なことを言わず遠回しにほのめかすだけにとどめるあたり、嫌がらせじみていて竜胆らしい。
竜胆の言葉と自分の現状を念頭に冷静に考えれば、一つの答えに行き当たる。こうなった原因の心あたりといえば、芙蓉姫との契約くらいだ。普通の契約ならこうはならない。イレギュラーすぎる契約を維持するために、無意識のうちに魔力を大幅に喰われていたのだ。それに気づかず、いつもの調子で魔術を使っていたから、すぐに燃料が切れてしまった。
「けっ、折角面白くなってきたと思ったが、どうやらここで詰みのようだな」
藍童子が右手を高く掲げる。手の中に水が集束していき、次第に大きな槍を形作る。
「俺の『水神槍』からは逃げられない。どこへ逃げても、その身を貫くまで追い続ける」
身の丈ほどもある巨大な槍、それを打ち消せるほどの焔を生み出す力は残っていない。京介は崩れそうになる脚にどうにか力を入れて再び立ち上がるが、そこから先、どうすればいいのか皆目見当もつかず立ち尽くす。
逃げることもできなければ迎え撃つ余力もない。万策尽きた様を、藍童子は嘲笑する。
「万事休す、だな? それとも、式神でも喚んでみるか? 今更喚んだところで、死人が増えるだけだがな!」
「式神……」
はっとして、京介は右手を見る。その手の甲には契約紋が刻まれている。
今までずっと一人で戦っていたから、忘れていた。京介はもう一人ではない。契約を結んだ。式神がいるのだ。
主の盾となり、剣となる、唯一無二の相棒たる式神が、今の京介にはいる。それを思い出した。
もう一人じゃない。だから――京介は彼女の名を呼ばない。
焦燥で熱くなっていた思考が、すっと冷静になる。
「そう、だ……俺には式神がいる。俺はもう一人じゃない。俺の命は、もう俺だけのものじゃない」
一人のままだったら、あるいは京介は諦めていたかもしれない。大切な友達を失った失意に押し潰されて、きっとどこかで投げやりになって、簡単に諦めてしまっていたかもしれない。
だが、一人ではなくなった。守ると決めた者がいる。だから、諦められなくなった。
「俺の命だけじゃない……俺が必ず守ると約束した奴の命も懸かっているんだ。こんなところで、負けてはいられない」
刈夜叉を両手で握りしめ、正面に構える。
「今更そんな細い刀で何ができるというんだ!」
確かに、頼りない刀に見えるかもしれない。だが、これはただの刀ではない。
「魔を祓い、打ち砕く、退魔の刀だ。主が望めば、応えてくれる」
――力を貸して、刈夜叉。
そっと目を閉じ、神経を研ぎ澄ませる。
望めばきっと、何だって斬れる。恐るべき水の槍も、屈強な鬼さえも。
「貫け、『水神槍』!」
目を開く。
藍童子が咆哮と共に水の槍を擲った。まっすぐに、京介の体を撃ち貫こうと飛来する槍、それを目を逸らすことなく見据え、京介は刈夜叉を振り上げる。
「ぶった斬れ、刈夜叉――!!」
獰猛な槍の先端が迫った時、刈夜叉を振り下ろす。銀色の刃が閃き、水の槍とぶつかり合う。
瞬間、水の槍を両断し、水飛沫を舞い上がらせる。縦半分に割れた水は左右に別れて京介を避けて突き進み、やがて雫となって弾け飛ぶ。形を失い、ばしゃりと飛び散りアスファルトを濡らす水を見て、藍童子が呆然と目を見開いていた。
「馬鹿な、俺の槍が……! 妖術さえも斬るのか、その刀はッ」
京介は力強く地を蹴って、藍童子の懐へ突っ込む。予想外の事態に驚愕し硬直する藍童子に、刈夜叉で斬りかかった。
大きく一閃し、腰から肩までを切り裂く。岩のように頑丈そうな皮膚を突き破り、血飛沫が舞う。
「が……ぁ……!」
巨体がぐらりと傾ぎ、ゆっくりと地面に倒れていく。ずしり、と重い音を響き渡らせ、藍童子は仰向けに転がった。傷はさほど深くはない。だが、妖が退魔の刀でまともに斬られたら、そう簡単には立ち上がれないはずだ。藍童子は悔しげに顔を歪めてもがいていたが、やがて抵抗をやめて鎮まった。
ぱぁん、とガラスが砕け散るような音が鳴る。周囲の景色を赤銅色に染めていた結界が解けたようだ。
なんとかなったが、危ないところだった。冷や汗をかきながら、肩で息をする。
竜胆のことだ、結界が張られ、その中で何かが起きていたくらいのことは既に把握しているかもしれないが、倒した藍童子の処理を頼まなければならない。結界が解けたことで通信は回復したはずだ。京介はすぐさま竜胆に連絡を取ろうと携帯電話を手に取った。
瞬間――ばちんっ、と破裂音。
耳に当てようと持ち上げた携帯電話が撃ち抜かれ、穴が開く。
「……!」
壊れた電話が地面に落ち、ばちばちとスパークする。
ようやく片付いたと思った矢先の急襲に息を呑み、京介は攻撃が来た方向を振り返る。
「ご苦労だったな、藍童子」
声変わり前の少年のような声でそう告げたのは、小学生くらいの小さな子供だった。ただし、小学生にしては邪悪な目つきをしていて、その正体は紛うことなき妖である。
Tシャツに短パンという、戦場にも冬という季節的にも不釣り合いな格好をした妖が、底意地の悪そうな笑みを浮かべて京介をじっと見据える。
「貴様が不破の退魔師か。私の弟が世話になったようだな」
「弟……」
「然様。私は土宿儺の弟にして、藍童子が兄。鬼の三兄弟の次男、天夜行」
ここにきて新手の登場は想定外だ。京介は歯噛みする。藍童子はなんとか倒せたが、退魔刀があるとはいえ魔力切れの状態でこの上もう一人を相手にするのは難しい。藍童子の兄というからには、彼以上の実力を持っていると考えていいだろう。とてもじゃないが、相手にしていられない。
幸い結界は破られている。ここは一旦退くべきだ。
じり、と後退りする。大人しく逃がしてくれるだろうかと警戒していると、天夜行は愉快そうに笑う。
「なんだ、逃げるのか? まあ、構わんさ。私たちの目的の一つは既に達せられた」
「何?」
「なぜ私が今になって出てきたか解らんか? 藍童子が結界内にお前を引き留めているうちに、私はこの地の調べを終えた。既に、土宿儺の封印の場所は判明した」
「なっ……!」
不意を突く一言で動揺させられる。
本当にばれたのか、それともただのブラフか。天夜行の言葉の真偽を見定める必要に追われ、逃げようとしていた足が止まる。思考が乱れる。
その一瞬の狼狽を突いて、天夜行が迫る。僅かな時間で距離を詰め、京介に手を伸ばした。
天夜行の指が京介の額に触れる。ばちばちと指先から閃光が放たれる。
「――ッ!」
電流が弾けて、京介の神経を灼く。腕から力が抜けて刀を取り落す。
「今しばらく眠っておれ」
制御の利かない体が地面に崩れ落ち、天夜行の声を最後に聞きながら、意識が飛んだ。




