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敗残兵の邂逅と再生(2)

 契約の言葉を交わした瞬間、強烈な白い光に視界を灼かれた。契約の理を犯した反動は、予想以上に強烈だ。契約術に注ぎ込んだ魔力が跳ね返され、自分自身に牙を剥く。

 電流のようにばちばちと肌を刺す鋭い痛みが全身を巡る。契約は容赦なく京介を拒み反発する。強い斥力に跳ね飛ばされそうだ。

 だが、既に賽は投げられた。京介は芙蓉の手を取ったのだ。今更引き返せない、この手を離すわけにはいかない。

 契約のルールなんて知ったことか。正しいルールよりも、傷ついた女の子を救うことの方が大事に決まっている。契約の理よ、つべこべ言わずに認めろ――!

 そんな無茶苦茶な力押しで、京介は嵐のような力の氾濫に耐えきった。そして不意に、力は反転する。吹き飛ばそうと躍起になっていた圧力が消え、それと同時に、京介の力が吸い取られ始めた。

 全身の力を一瞬で根こそぎ奪われ、あっけなく意識が消失した。

 次に気づいた時には、京介はぐったりとベッドに横たわっていて、あまり機嫌のよくなさそうな竜胆が顔を覗き込んでいた。

 竜胆の第一声は苦情だった。

「困るよ、京介。こっちはロートルなんだから。ぶっ倒れた二人を車まで引きずってここまで運ぶなんて、重労働にもほどがある。おかげで持病の腰痛が」

 腰痛を発症した割にはピンと背筋を伸ばした仁王立ちで竜胆はぐちぐちと言い募った。

「まったく、無茶をしちゃって」

「悪かった……けど、ばあさまだって唆したんだから」

「そうやって私に責任を……まあ、いい。グロッキーな孫相手に大人げなく文句を言っても仕方がない」

 竜胆の不平が一段落したところで、京介は問う。

「……彼女は、どうなった?」

「一応、契約は成功したようだね。右手を見てごらん」

 簡単に言ってくれるが、今の京介には手を持ち上げることですらつらい。血管に鉛を流し込まれたかと錯覚するくらいに体が重い。それでもどうにか、気の遠くなるような時間をかけて、己の右手を視界に入れる。右手の甲に、花弁を模ったような紋様が刻まれている。式神の体にも同じものが刻まれているはずだ。主人と式神とで対になる、契約の証たる契約紋がその手にあった。

「ただ、当然だが、この契約は本来ありえないはずの、禁忌の二重契約。とても不安定なつながりだ。何が切欠で壊れるか解らない」

「だろうな……芙蓉姫は?」

「彼女なら別室で眠っている。仮初の契約とはいえ新たな主人による庇護がはたらいている、元主人の鎖の束縛は消えているはずだ」

「見つかる心配はないか」

「今のところはね。けど、何度も言うけどこれはイレギュラーな状況だ。綱渡り状態な契約は、ちょっとでもバランスが崩れればあっけなく瓦解する。彼女やお前の力が弱まったり、元主が回復したりすれば、簡単にね。元主がくたばってくれれば話は簡単なんだけどねぇ」

 さらりととんでもないことを言う。理屈ではそうかもしれないが、それに期待するのは間違いだろう。

「くたばれっていうのは、違うだろ。主が回復すれば、芙蓉姫は人殺しにならずに済む」

「さて、そこは今更気にするべき問題かな。強い式神なら、既に何人か殺ってるかもしれないし。というか、式神が裏切るくらいだ、主は死んだ方が世のためになるレベルでクズなのかもしれないし」

「会ったこともない主人のことをあれこれ憶測したって仕方がないだろ。中央会のデータベースに、彼女や、彼女の主人の情報はなかったか?」

「データベースにはアクセスしてみたけれど、彼女についての情報はなかった。退魔師は基本的に中央会へ登録することにはなっているが、後ろ暗いことをやっている奴なら当然未登録だ。あるいは、退魔師自身の登録があっても、式神になにかヤバいことをやらせてる場合は、式神の存在を隠すこともある」

「どちらにしても、きな臭いな」

「けれど好都合だよ。これで堂々と、芙蓉姫ちゃんのことはお前の式神として登録しておける」

 不正な方法で契約した式神の存在をわざわざ中央会に申告することには懸念があるが、不破の退魔師の周りに急にうろちょろするようになった妖のことをいつまでも隠しておけるはずもない。あとでバレて、それまで黙っていたことを追及されるよりは、最初からそ知らぬ顔で申告しておいた方がいいだろう。

「結局、芙蓉姫のこともその主のことも謎だらけだな。本人が話してくれるのが一番てっとり早いが、立ち入った話をしてもらえるほどの信頼関係はまだない」

「だけど、悠長に信頼関係を醸成している暇はあるかね。かろうじて保っているバランスがいつ崩れるか解ったものじゃない。二重契約、仮初の契約はあくまで暫定的な処置。あの子を本気で救うつもりなら、この後のことを考えないと」

「解ってる……おいおい考えるつもりだ」

 二重契約の禁忌がその場しのぎの非常手段であることは解っていたが、そこから先をどうするかなどまったく考えていない。

 ただ、彼女を目の前にして、手をこまねいていられなかった。今すぐ何かしなければ、彼女の手を取らなければという衝動に駆られた。

 何もしないで後悔するのは、もう御免だった。


★★★


 ぎぃ、と床が微かに軋む音で、京介は夜半に不意に覚醒した。部屋は暗い。カーテンの隙間からかろうじて注ぐ薄い月明かりのおかげで、かろうじて部屋の輪郭が解る程度だ。

 誰かの気配をすぐそばに感じた。ただ、朝方の消耗のせいで、意識がはっきりするまでにひどく時間がかかった。寝ぼけているうちに、誰かが忍び足で近づいてくる。摩耗した思考では、それに危機感すら覚えることはなかった。

 ひやり、と首筋に冷たい感触。瞬間、喉に強い圧迫感を覚えてようやく意識がはっきりとした。

「……っ、ぁ――は……ッ!」

 氷みたいに冷たい両手が京介の首を絞め上げる。それに気づくや、京介は目を見開き、痺れる腕をどうにか持ち上げて、絡みつく指を引き剥がそうと刺客の手を掴む。だが、ロクに力の入らない手では抵抗もままならなかった。

 喘ぎ声と唾液が零れる。ぐらぐらと揺れる視界の中、暗闇に紛れて殺気を向けてくる刺客の姿を捉える。

 芙蓉姫だった。華奢な体でマウントを取って京介を押さえつけ、細い指が首を絞めている。

 実のところ、考えるまでもなく敵は芙蓉姫以外にはありえなかった。この屋敷にいるのは、京介以外には三人。竜胆と、彼女の式神の乱鬼、そして芙蓉姫だけだ。京介を殺そうとする理由があるのは芙蓉姫しかいない。

 廃墟の前で出会った彼女はすっかり弱っていたのに、今の彼女は鬼気迫る表情で、迷いない殺意を京介に向けていた。一日でこれだけ動けるようになったのだ、その回復力は凄まじい。元々彼女が持っていた力なのか、契約を結んだ甲斐が少しはあったのか。どちらにせよ、助けた相手が回復してくれるのは喜ばしい話だ。元気になった途端に殺しにかかってくるのでなければ。

「……っ、……!」

 悲鳴をあげる余裕すらない。ぱたぱたと足先が逃げるように跳ねるが、芙蓉姫を押しのけることはできない。

「死、ね……」

 抑揚なく呟かれた言葉に、背筋が凍る。

「よくも、私に枷を。殺してやる……貴様を殺して、今度こそ……」

 その言葉の先は、聞かなくても解った。

 今度こそ自由になる。彼女の望みはそれだけだ。

 禁忌を犯して主人に血を流させ、死に物狂い、這う這うの体で逃げ出してきた。だというのに、自分が弱っているのをいいことに、強引な契約を押しつけた奴がいる。再び不本意な主従の枷で縛られ、自由を奪われた。芙蓉姫にとって現状はそういった具合であり、実際その通りに違いない。芙蓉姫にとって京介は障害以外の何物でもないのだ。京介が芙蓉姫を守るために契約したのだとしても、彼女にとってそんな事情は関係ない。弱り切って、まともな判断もできず、拒絶することのできない状況で契約を強要したというのが、事実だ。それだけ聞くと酷く悪質な話だ。

 主人を手にかけた芙蓉姫ならば、紛い物の主人を手にかけることなど容易いだろう。芙蓉姫は指先に徐々に力を込めてくる。首に食い込む指は、確実に京介の呼吸を奪い、思考を奪い、命を奪おうとしていた。

「死ね――死んで、くれ……どうか、死んで、私を解放して……!」

 途中から、懇願するように、芙蓉姫は唱え続けた。切羽詰まった表情で、自由を求めて、死んでくれと希う。

 霞む視界の中で、不意に芙蓉姫の顔が、暗闇の中でありながらも、はっきりと見えた。黒い闇に慣れてきた目が、最後の足掻きのように芙蓉姫を捉えた。

 彼女は泣いていた。

 死んでくれと願いながら、涙を流していた。

 殺すことを躊躇っているのか。自分の不遇を呪っているのか。自分の手の中で死んでいく命の儚さを嘆いているのか。芙蓉姫の涙の理由は解らない。

 京介はただ、それを見た瞬間、芙蓉姫の手を引き剥がすのをやめ、震える手を彼女に伸ばした。何の抵抗をするつもりかと訝しむように芙蓉姫は眉を寄せる。京介は朦朧としながらも手を伸ばし、そっと芙蓉姫の頬に触れる。

 そして、指を滑らせ、芙蓉姫の目尻に浮かんだ涙を拭った。

「――!」

 芙蓉姫がはっと目を見開く。

 声を奪われた京介は、言葉以外のもので示すしかなかった。

 泣くな、と。

 泣かせたくない。俺はお前の敵じゃない、と。



 直後、喉の圧迫感が消え、芙蓉姫がさっと京介の上から飛び退いた。途端に、京介は激しく咽込む。ベッドの上で体を丸めてえずく。久しぶりに思い出した呼吸は、ぜえぜえと酷く苦しげなものになっていた。

 数分かけて呼吸を落ち着かせる。その間、芙蓉姫はぴりぴりと針のような気配を放ちながら、じっとこちらを睨んでいた。

 ようやく息を整えて、京介はふらふらと立ち上がる。ヘッドボードの上のリモコンで部屋の電灯のスイッチを入れる。ぱっと白い光で照らしだされた表情は、お互い苦痛で満ちている。

 京介は疲れ切った微苦笑を浮かべて、掠れた声で言う。

「とりあえず、闇討ができる程度まで元気になったのは嬉しいよ。でも、できればもう俺では実践しないでほしい。割と本気で死にかけた」

「殺すつもりでやったんだ……お前は何者だ。お前の目的は」

「不破京介、って一応名乗っただろ。本業は中学生で、退魔師が副業。目的も言ったはずだけど、解ってもらえていないみたいだからもう一度言う。俺はお前を守りたい。目の前で傷ついている奴を放っておけなかった。だから手を伸ばした。何もしないで後悔するのは嫌だから」

「……」

「すぐに信じてくれなくていい。けど、今はまだ、この契約を受け入れてくれ。せめて、この問題を解決する目途が立つまでは」

「解決、だと?」

「そう。お前の自由を取り戻す、それが最終目標だ」

 京介と芙蓉姫との間で交わされた歪な契約のことを説明した。その状況を芙蓉姫が理解するのは早かった。

「お前を殺して強引に契約を解けば……本物の契約が私を縛り、奴が私を見つけてしまう、か。どうあっても、私は逃げ切れないらしい」

 芙蓉姫は自嘲気味に笑う。その痛々しい表情を見つめ、京介はふっと溜息をつく。

「今はまだ、解決の糸口が掴めていないが……必ず自由にする。約束するから、待っていてほしい」

「なぜそこまでする。お前と私は、今日初めて会ったのに」

「お前のため、って言えれば美談なんだけど、半分くらいは、俺の都合だ」

 芙蓉の疑問はもっともなことで、こんな不明瞭な言葉で納得ができるはずもない。だが、理由を話すには、京介の過ちに触れざるを得ない。

 助けを求めて伸ばされた手に気づかずに、それを振り払ってしまった。気づいた時にはもう手遅れで、大事な友達を自分で殺してしまった。悔やんでも悔やみきれない、取り返しのつかない過ちだ。

 それを包み隠さず話せるほどには、京介の気持ちはまだ決着がついていない。京介は、曖昧に誤魔化したまま言う。 

「お前と出会う少し前に、俺は間違いを犯した。同じ間違いを繰り返したくないんだ。だから、助けを求めている奴を見過ごせない」

 芙蓉姫を救いたいのは本当だ。だが京介は、彼女を救うことで自分も救われたいと、どこかで思っているのかもしれない。ひどく利己的なことだと、自虐的に笑う。

 芙蓉姫は真意を測ろうとするようにじっと京介を見た。やがて芙蓉姫は小さく息をつく。

「どういう事情だろうが、差し伸べられた手であることに変わりはない。勝手にしろ。どうせ私に選択肢などない」

 抑揚のない声で投げやりに吐き捨てると、芙蓉姫は背を向けた。

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