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敗残兵の邂逅と再生(1)

 朧を失くした場所を、京介と竜胆は訪れていた。冬の早朝は、空がまだ薄暗く、森に囲まれた廃墟はいっそう薄気味の悪い場所になっていた。そんな場所では、他の誰の邪魔も入らないだろうと思って、京介は目を閉じ、深い溜息を繰り返しながら、これから先どう折り合いをつけて行こうかと考えていた。自分の選択ミスが招いた悲劇――友を手にかけたことの苦しみと哀しみにぐちゃぐちゃにされた心を抱えて、それでも不破の退魔師として立ち止まることを許されず、どうにか前を向かなければと懊悩していた。

 そんな時、森の方でがさがさと物音がした。はっと目を開けて振り返る。

 こんなところにいったい誰が、と不審に思っていると、鬱蒼とした草木をかき分ける音と足音が徐々に近づいてきた。

 俄に緊張する。直後、人影が森から飛び出してきた。いったい何者だろうかと見極めるより先に、人影は脚を縺れさせ、ばたりと地面に倒れた。

「! おい、大丈夫か?」

 受け身も取らずに倒れ伏したのを見て、警戒も緊張も吹き飛んで心配が先に立った。ほとんど反射で、京介は倒れた人影に駆け寄る。若い女のようだった。

 京介は慌てて女を抱き起こす。長い黒髪は乱れに乱れ、土に塗れてくすんで見える。白いワンピースはところどころ擦りきれていて、そして夥しい量の血に濡れている。露出した腕や脚は、肌の白さに混じって青痣がいくつも浮かんでいる。

 苦しげに呻いていた女は、京介の呼びかけに反応し、焦点の合っていないような目で京介の方を見た。

 紫苑の美しい瞳だった。

「しっかりしろ。何があった?」

 一目見て、京介は女が妖であると解った。酷く傷つき弱ってはいるものの、強い存在の妖だった。普通の人間の目にも映るだろう、強い力の持ち主に違いない。そんな妖が、ここまで満身創痍であるとは、穏やかな話ではない。彼女の身にいったい何が起きたというのだろうか。

「っ……」

 女が何事かを言いかける。京介は息をするのも忘れて耳を澄ませ、言葉を聞き取ろうとする。

「……さわ、るな」

「……!」

 消え入りそうなか細い、掠れた声で、しかし女ははっきりと、拒絶の言葉を口にした。今にも意識を失ってしまいそうなほどだというのに、それでも誰の手も借りたくないとでも言うように、女は京介の手を振り払おうとする。しかしそれは、女の力があまりにも弱々しかったために叶わない。京介は拒絶されながらも、今彼女を離してはならないと直感し、崩れそうになる体をしっかりと支えた。

「とにかく……どこかで休ませた方がよさそうだな」

「いや、京介。話はそう簡単じゃないかもしれないぞ」

 竜胆が固い声で言う。

「よく視てみろ」

 言われるままに、京介は目を凝らす。見えないものを視る稀眼は、やがて、女の体に纏わりつく赤い光の鎖を捉えた。

 幾重にも絡みつき、戒める光の鎖。魔力で編まれた鎖が彼女を苦しめているのは明白だった。

「これはいったい……」

 何者かの魔術だろうか。京介は初めて目の当たりにする現象に眉を寄せる。

「都市伝説のようなものだと思っていたが、実際に起こりうるとは……」

 緊張した声で、竜胆が意味深な言葉を呟いた。

「竜胆ばあさま、何か知ってるのか」

「その娘は式神だ。それも、主を裏切った、ね」

「裏切った? 馬鹿な、式神は主人を裏切れない」

「だから、都市伝説のような話だと言っているだろう。極めてレアケースだよ、これは」

 お前にとっては今更の話だろうけれど、と前置きしてから竜胆は細説する。

 人と妖が結ぶ契約には、厳格なルールが存在している。

 式神は主を傷つけてはならない。

 式神は主の命令に服従しなければならない。

 式神は二人の主を持ってはならない。エトセトラ、エトセトラ。

 そして、そのルールを管理する「存在」がある。それは目に見えるものではないし、触れる形があるわけでもない。たとえていうなら、契約の神、精霊。あるいは、そういう法則、秩序、理。「それ」がある限り、式神は契約に逆らえない。人が物理法則を超越できないように、妖は契約の条理に抗えない。

「……はず、なんだけどね。魔術師が科学や物理を無視するみたいに、契約の理を突破する妖がいる、そんな都市伝説は実しやかに囁かれ続けていた。力の強い妖はルールを強引に捻じ伏せて禁忌を犯せるらしい。けど、代償はでかそうだ。その状態が、()()、というわけだろうね」

 契約の絶対的なルールを犯す代償。

 反逆に対する罰が、鎖となって顕れている。鎖は全身を巡り、そして囚人を捕える枷のように脚を戒め、長く遠く、どこかへと伸びている。

「どこへ……繋がってるんだ、この鎖は」

「おそらくは、彼女の主人の元に。主人と式神の魔術的接続は、信頼関係が崩れた瞬間、聖なる絆から忌まわしく鎖に変わる、ということだ。この様子だと、主人から逃げてきたようだが、契約の鎖で繋がっている以上、居場所はすぐに割れるだろう。逃げ切れやしない」

 淡々と呟いていた竜胆が、不意に釘を刺すように言う。

「京介、そいつは主人を裏切り逃亡した式神だ。それだけの力がある奴だ。弱っているからといって油断するな、今まで出会ったどんな妖よりも危険な存在なのだからね」

 女が、震えながら立ち上がろうとする。竜胆の言葉から明らかな敵意を感じ取ったのだろう。目の前にいる人間は味方ではない、ただの敵、障害だ――そう認識したらしい彼女は、京介たちからも逃げようとする。その歩みでは決して逃げ切れるはずもないのだが、半端な覚悟で追いかけるわけにもいかない。

 どうする、と京介は自問する。

 京介の迷いを見透かすように、竜胆が言う。

「彼女の主人が見つけたら、間違いなくひっ捕らえて折檻ものだね。中央会の魔術師が見つけたら、まあ処刑かな。神ヶ原を守る退魔師としては、とりあえず危険な式神を放置するわけにはいかないから厳重に拘束すべきところなんだろうけど」

 どう転んでも彼女にとってロクな結果にはならないだろう。

 危険な式神――そう言われても、京介の目にはそうは見えない。傷ついて、今にも消えそうな、守るべき存在にしか見えない。処刑だとか、拘束だとか、そんな物騒な言葉を向ける気にはとうていなれなかった。

 ぼろぼろの体を引きずるように歩いていた女が、不意にどさりと崩れ落ちる。京介は反射的に駆け寄り手を伸ばす。先刻の彼女の言葉が思い出され一瞬躊躇われるが、それを振り払って女の華奢な体を抱えた。今度は抵抗されなかった。その力も、もう残っていないのだろう。

 赤い鎖が、徐々に戒めをきつくしているように見えた。時間が経つにつれて、より重く、厳重に、女を縛る。いったいどれほどの苦痛を感じているのだろうか。

「お前……どうして、こんなになるまで……なぜ、主人を裏切った」

 それは殆ど独り言のようなもので、答えを期待していたわけではなかった。だが、思いがけず、女が口を開く。後から思えば、それは京介の問いに答えたのではなく、朦朧とする意識の中で漏らした譫言にすぎなかったのであり、しかしそれゆえに偽らざる本心からの言葉だったのだろう。

「……が、……い」

「え……?」

「……自由が、ほしい」

「……」

「望まぬ、命令に……縛、られる、ことのない……安息の、場所が、ほしい……それ、だけ、なのに……」

 何がこの式神を、裏切りという凶行、絶対禁忌の行いに駆り立てたのか。主人と式神との間に何があったのか、知りようもない。だが、きっと彼女の望みは、今言った通りなのだ。

 自由が欲しい。たったそれだけだ。たったそれだけの願いが叶わないから、逃げ出した。本来絆であるべき主従の契約が、彼女にとって、ほんのひとしずくの自由さえ許されないただの束縛に変わった瞬間、彼女は鎖を断ち切ってしまおうと思ったのだろう。

「竜胆ばあさま」

「……なんだい、京介」

「俺はもう……救えるはずの誰かを、取り零したくない。救いを求めて伸ばされた手を振り払って後悔するのは、もう嫌だから」

 二度と同じことを繰り返すつもりはない。友達の血で汚れてしまったこんな手でも、救えるものがあるのなら。

「契約のルールから逃げることはできない……けど、竜胆ばあさまなら、抜け道の一つくらい、もう思いついてるだろ」

「私をいったいどんな性悪だと思っているんだい」

 竜胆は呆れたように言う。しかし、直後ににやりと笑う。

「その娘の服の血……気づいているかい、その娘の血じゃない。返り血だよ」

「返り血?」

「まあ、十中八九、主人の血だろうね。それだけの返り血を浴びてるってことは、主人は相当の重体だ。式神を律するべき主人は死にかけ。そしてその式神は、主人をそこまでやれるほどの強すぎる力を持っている。……そしてお前の魔力も充分強い」

 主人の弱体化。式神の潜在能力。そして、京介の力。

「他の誰が無理でも、お前ならあるいは、契約の理を捻じ伏せられるかもしれないよ。主人と式神の繋がりがギリギリまで弱まっている隙に、お前の存在を間に捻じ込む。妖一人につき一つしかないはずの主人の椅子を、横から掻っ攫う」

 それは、道義的に禁断と言われ、契約のシステム上も不可能とされていたこと。昔から陋劣な魔術師が実験を繰り返しては、失敗してしっぺ返しを食らい、あるいは束の間の成功と引き換えに制裁を受けてきたと言い伝えられている禁忌の邪法だ。

「……二重契約、か」

「魔術師にとっても妖にとっても絶対禁忌だ。中央会にばれたら極刑ものだけど」

「ばれなきゃいいんだろ」

 奇しくも、朧の時と似ていた。契約を結ぶことで、他の魔術師からの意に沿わぬ調伏を防ぐという方法。今回は、京介の方が間違いなく悪者で異物の側にいるのだけれど。

「おい、聞こえるか」

 まだ声は届くらしい。女が虚ろな目で京介を見上げる。

「俺はお前を守る。お前がさっき言ってた願いも叶える。そう『契約やくそく』する。それを受け入れる気があるなら、俺の手を取れ」

 女がゆっくりと瞬きする。

 やがて、震える手を伸ばして、京介が差し伸べた手を握り返した。

「俺は不破京介。お前の名前は?」

「……芙蓉姫」

 そう告げると、彼女――芙蓉姫は小さく微笑んだ、気がした。

 京介は契約の言葉を唱える。

「誓いを以て約定を交わす――其が名は、芙蓉姫!!」

 瞬間、視界を真っ白な光が灼き尽くした。

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