我らが将を救出せよ(5)
そっと触れた京介の額は燃えるように熱い。三日ぶりに見ることになった京介はすっかり衰弱していてた。幸い、命に別条はない、という話らしいが、潤平は不安と焦燥を感じずにはいられなかった。
神ヶ原大学からそそくさと撤退した一行がひとまずの隠れ家として選んだのは、神ヶ原一高旧校舎である。ふだんからここを住処としている周防が勝手知ったる様子で、保健室に案内してくれた。
少々ぼろいがまだ使えるベッドに京介を横たえると、その周りに四人と一匹が集まった。
「感謝してよね、私があなたたち……というか、その狐ちゃんに気づいたからなんとかなったのよ。ほんと、人間二人と狐一匹で敵地に乗り込もうだなんて無謀なんだから」
不敵に微笑みそう言うのは、白いフリルのワンピースを纏う白髪の少女で、恋歌と名乗る妖だった。狐ちゃん、と呼ばれた周防が、若干震えて潤平の陰に隠れている。彼らの間に何があったのだろうか、と潤平は首を傾げる。まあなんにしても、恋歌の言うとおり、京介を救出することができたのは恋歌のおかげだった。
神ヶ原大学で途方に暮れていた潤平たちに声をかけてきたのは、恋歌と、彼女と一緒にいた紗雪御前という妖だった。恋歌と周防が顔見知りだったおかげで、周防を連れた潤平を呼び止めてくれたのだ。
話を聞けば、元々紗雪御前の方が、京介が魔術師中央会に捕縛されたという噂を聞きつけ、恋歌を伴って京介を探しに乗り出したのだという。しかし、中央会のアジトがどこにあるのか解らなかった。そんな時に、周防を見つけ、情報を共有した。神ヶ原大学の地下にアジトがある、というところまで解れば、妖力の強い紗雪御前と恋歌なら結界術の痕跡を、その場所に集中してサーチをかけ、見つけることができるという話だった。そしてその言葉の通り、首尾よく魔術の痕跡を見破り、結界を強引に突破してアジトに侵入、京介を掻っ攫ってきた、という次第である。
「それにしても、神ヶ原大学の地下に拠点があるだなんて……そんな機密情報を、よくお調べになれましたね」
紗雪が感心したように言うので、潤平は胸を張って言う。
「ボイスレコーダーの勝利だ。ひいては科学の勝利、そして我が妹の大勝利」
「ふふん、ただの人間にしてはなかなかやるみたいね」
恋歌が感心したように言う。どうやら妖に一目置かれてしまったらしい美波は、恐縮したように曖昧に微笑む。
「それで……命に別条はないっていうのは、ほんとなんだよな」
「ええ。彼を助ける時、彼にかけられていた魔術は解析しました。おそらくは痛覚を倍増させる術ですわ。つまり、小さな傷でも激痛に感じてしまうのです。その術のせいで酷く弱ってはいますが、傷自体は浅いようです」
その傷の手当てをしてくれたのは紗雪だ。なかなか手慣れているようだった。
「さて、京介さんの回復をゆったりと待って差し上げたいのはやまやまなのですが、あまり悠長にもしていられませんわ」
「この旧校舎は今、私の結界術で、中に私たちがいることを悟られないようにしてる。勿論、結界術を使っているってことすら外からでは気づきにくいようになってる。けど、魔術師中央会が本気で探しに来たら、いつまで誤魔化せるか解んない」
「そういうわけですので、追っ手が来る前に、こちらは万全の態勢を整えて、今何が起きているのか、これからどうすればいいのかを整理しておく必要があると思いますの」
「つっても、京の字はこの調子だ、すぐに動けるように、ってわけにもいかめえ?」
周防がぴょんと京介の枕元に飛び移り、気遣わしげな視線を向ける。
「ふふ、そこでわたくしの出番ですわ」
と、紗雪がやたらと自信満々な顔で、懐から小瓶を取り出した。中には透明な液体が満ちている。
「これは妖怪の間ではそこそこ有名な回復薬ですわ。これを飲めば、ある程度は体力を回復できるでしょう」
「へえ、そんなすごい薬があるのか」
「とても貴重な薬でしてよ。こんなこともあろうかと、調達しておきましたわ。さしあたって問題になりますのは、誰がこれを京介さんに口移しで飲ませるかということですが」
さらりと落とされた爆弾発言に、紗雪以外がもれなくむせた。
「く、口移し!? なぜ口移し限定!?」
潤平が当然のツッコミを入れると、紗雪はそんなことも解らないのかと言いたげな呆れ顔で説明する。
「当然でございましょう。京介さんは衰弱しきっていて、とても自分で飲めるような状態ではありませんもの。誰かが優しく首の後ろに手を差し入れてそっと抱き起し、禁断の恋さながらに熱い接吻を交わして、ついでに舌も入れていただけるととてもよいと思いますわ。……そのほうが面白いですし」
「おぃぃ、今最後ボソッと変なこと言ったぞ! 絶対それが本音だろ!」
「心外ですわ、わたくし、決して面白がってなど……」
絶対面白がってるだけだ。
「それで、どうなさいます? 誰もやらないというのでしたら、不肖、この紗雪めが務めさせていただきますわ。まあ、当然と言えば当然の流れですわね。わたくしと京介さんは裸のお付き合いをしましたし」
がたんっ、と美波が椅子を蹴倒して立ち上がった。聞き捨てならなかったらしい。顔を赤くしながら、美波は紗雪を睨んだ。
「さ、紗雪さん、失礼ですがあなたは少々ふしだらです。ここは同じ高校生である私がやったほうが、健全ではないかと思います」
「おい、美波、何を張り合おうとしているんだ」
「えー、二人が参戦するなら私も立候補しようかしら」
と、恋歌は明らかに話を混ぜ返す目的のためだけに挙手する。
「いやいや、ここは狐の俺に任せてもらった方が絵面がいいんじゃねえかい?」
止めてくれるならまだしも、周防までそんなことを言いだした。まともな思考回路の持ち主はいないのか、と潤平は天井を仰ぐ。そして、はたと気づく。もうここには、まともなのは自分しかいないのだ、と。
その瞬間、潤平は紗雪の手から小瓶をひったくった。
「あら」
「お前らみたいな不純な動機のある奴らには任せられん! ここはきょーすけのマブダチである俺がやる!」
「兄さん、その薬を私に渡してください。薬を飲ませるという大義名分の下に京介さんの唇を奪うのは私です」
「本性現しすぎだぞ、美波! おにーちゃんはそんなこと許しません!」
「潤平さん、申し訳ありませんが、ちょっとわたくしもその気になってまいりましたので、その薬は返していただけます?」
「私も面白そうだからやりたいんだけどー」
「おう、京の字のダチになったのは俺様の方が先だってことを忘れんなよ」
なんだかとても不毛な争いが始まってしまった。
こうなったら早い者勝ち、と潤平は素早く京介の傍らに跪く。なんかちょっとどきどきしてきたぞ、と潤平は自分の胸を押さえる。
「兄さん、抜け駆けは赦しませんよ!」
美波が容赦なく殺気をぶつけてくる。が、今回ばかりは妹の頼みはきけない。
「きょーすけ、お前の純潔は俺が守る!」
どちらかというと汚そうとしているような気もするが、そこはそれ。
いざ、と覚悟を決めて京介の頤を持ち上げる。
その時、
「ああっ! わたくしとしたことがー!」
紗雪がわざとらしい悲鳴を上げた。何事かと振り返ると、紗雪はにっこりと胡散臭い笑みを浮かべて言う。
「そういえばその薬は、経口で摂取するものではなく、注射剤でしたわ」
「…………」
紗雪以外がもれなく凍りついた。一拍置いて、紗雪を睨みつける。
謀りやがったな、この悪女――潤平は疲労を感じてぐったりと項垂れた。
薬を打つと、京介の苦しげだった呼吸が落ち着いたようだった。そして、潤平たちも落ち着いてきた。紗雪に担がれ恥ずかしい言動に走ったことなど、もう忘れよう。
「んで、この後どうするよ」
漠然とした問いを発すると、紗雪が先程までとは打って変わって真面目な調子で応じる。
「中央会が京介さんに嫌疑をかけているのは、王生樹雨の偽証のせいなのですから、取るべき手段は明らかですわ」
「王生をとっちめちゃえばいいわけよねー」
紗雪の言葉の先を呼んで恋歌が好戦的に言う。
すると美波が、
「私もおおむねその方向でよいと思います。ですが、芙蓉さんの真意が解らない状態で動くわけにはいかないでしょう」
「なぜ、王生が主人だと嘘をついたのかってことだよな」
潤平は京介の方を見遣り、考える。ここ最近、京介と芙蓉との間におかしなことはなかったはずだ。つまり、芙蓉が京介に愛想を尽かしてしまったとか、そういう話ではないだろう。芙蓉が王生に脅迫されているのでは、という可能性も、おそらくはないだろうということで、美波と確認し合った。他に考えられる理由は何だろう。
「まあ確かに、敵が王生樹雨だけならどうということはありませんけれど、芙蓉さんが敵なのか味方なのか、というのはかなり重要な問題ですわね。彼女が敵に回るということは、一気に敵が十人ほど増えるのと同義ですし」
その様を想像したらしく、紗雪はげんなりとした調子で嘆いた。
「というか、もう芙蓉姫は敵でしかないですよ、紗雪ねえさま」
「どういう意味だよ、恋歌」
紗雪の代わりに潤平が訊き返すと、恋歌は肩を竦める。
「だって、そうでしょ? 芙蓉姫自身がどう思ってるか、なんてこの際関係ないじゃない。ほんとに京介に嫌気がさして敵に回ったのか、拠所ない事情があって向こうについてったけど心の中では味方のつもりなのか、今更意味ないでしょ。だって、芙蓉姫の契約紋は実際問題、王生樹雨の手にあるんだから」
「あ……」
「芙蓉姫が望もうが望むまいが、王生が命じれば芙蓉姫はそれに逆らえない。王生が京介を潰すつもりなら、芙蓉姫も京介を潰しにかかる。契約ってのはそういうふうにできてるの」
「で、でもよ、姐御は京介の命令に逆らうことができてた。聞いた話じゃ、千鳥八尋に契約紋を奪われた時もそうだったって話だ。だったら、王生の命令にだって……」
「そんなイレギュラーに期待できるわけないでしょ」
そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
「詳しい事情は、京介に直接訊くしかないでしょうけど、これだけははっきり言える。芙蓉姫は敵なの」
ばっさり恋歌に断じられ、潤平は頭を抱える。
王生樹雨は当然敵。芙蓉姫も困ったことに敵。中央会も敵。いつもは頼りになる歌子たちまで敵。
敵ばっかり。四面楚歌で八方塞。おまけに京介は満身創痍。
思わず乾いた笑いが漏れる。
「ははっ……ヤバすぎて笑えてくる」
実際は、笑ってる場合ではないのだが。




