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我らが将を救出せよ(1)

 デスクに向かい、数学の問題集を広げてシャーペンを走らせるも、なかなか捗らない。どうも調子が出ないな、と潤平は溜息交じりに伸びをする。ふと顔を上げると、午後八時すぎ。勉強を始めて一時間ほどが経っているが、ページはようやく二ページ目に入ったくらいで、いかに潤平がちんたらやっているかは推して知れよう。

 先ほどから潤平が躓いているのは数列の問題である。二年生の履修範囲であるため、成績優秀な美波でも解らない問題だ。ちなみに両親に訊いてみる、というのは問題外であり、父母共に、中学の時に因数分解の問題の相談をした時でさえ、「いったい勉強したのが何年前のことだと思っているんだ」と開き直ったのだ。

「あー、わっかんねえ! これ、いったいどーすりゃいいんだって。――なあ、教えてくれよ」

 ついにギブアップした潤平は、教えを求めて振り返る。

 振り返った先には、誰もいない。当然だ、ここは潤平の部屋であり、潤平以外には誰もいない。潤平は一人で勉強しているのだから。

「……」

 潤平はがりがりと頭を掻き、首を傾げる。美波同様、自分も根を詰めすぎて疲れているのかもしれない、と思う。いったい今、誰に訊こうとしたのだろう。ここには一人しかいないし、勉強するときはいつも一人だったのに。

「……そう、だっけか?」

 自分で思いながら、しかし自分で疑問に感じる。

 問題集の前のページをぱらぱらと捲る。問題集の各ページには、それを解いた日付が書いてある。それによれば、一日で十ページも進んだ日がある。自分だけの力で、誰にも教えられずにそこまで捗ったとは俄には信じがたい。

 誰かいたような気がする。困ったときに、やれやれと呆れながらも、最後まで見捨てずにちゃんと教えてくれる相手が、隣にいたような気がする。

 気がする、のだが。

 その時のことを思い出そうとしても、記憶に靄がかかって、曖昧である。つい数日前のことなのに、ちっとも鮮明には思い出せない。自分はこんなに記憶力が悪かったか? ……悪かったから、こんなに勉強ができないのか。

「はあ……なんかもういいや、全然集中できねえ」

 センター試験まで四か月の受験生の発言とは思えないことを言って、潤平はその日の学習を切り上げた。

 問題集を閉じて放り出し、ベッドに飛び込む。

 天井を仰ぎ、潤平はぼんやりと考える。

「いつもどうやって過ごしてたんだっけ……解んなくなっちまったな……」

 なんとなく変な気分だ。絶対におかしい、と断言できるわけではないのだが、なんとなく、漠然と、奇妙に感じる。喉に小骨が刺さったみたいに、いまいち気分がすっきりしない。

 明日になれば、調子が出るだろうか。

 潤平はすっきりとしない気持ちを一旦頭の隅に追いやり、深く考えることは明日に丸投げした。


★★★


 つい出そうになった欠伸を噛み殺し、潤平は三年五組の教室に向かう。目に浮かんだ涙を指先で拭い、肩をぐるぐる回す。どうも昨日は、夜になってもやもやした気分になり、その後も、考えないようにしようと思いながらも悶々と考えてしまったせいで、寝不足気味である。肩も凝っているような気がして、暇さえあればごきごきと回している。

 確か一限は日本史だ。この時期の日本史の授業は、前半で過去問を解き、後半で採点と解説をする、というやり方になっている。この分では、問題を解く時間に寝落ちして採点の段になって白紙の回答用紙を見て顔面蒼白になるか、あるいは後半に沈没して解説を聞きそびれ後になって後悔するかの二択だろう。潤平の未来は暗い。

「っはよーす!」

 できる限り眠気を覚まそうと、大きな声で挨拶をして教室に入っていく。何人かが挨拶を返してくれた。

 潤平は机の脇に鞄をひっかけ、授業の用意を始める。机の上に問題集と筆記用具を用意して、時計を見ると、始業まではあと十五分ほどある。少ない時間だがないよりマシだ、授業が始まるまで仮眠を取っておこう、と机に突っ伏した。

 その直後、

「窪谷潤平!」

 耳元で名前を叫ばれ、潤平は跳ね起きた。見ると、机の前に柊が仁王立ちしていた。

「お、おう、いいんちょ、おはよう。どーしたんだ」

「さっき、職員室で聞いたんだけど、不破京介が今日も欠席だっていうのよ」

「へえ?」

 潤平は彼の席を振り返る。確かに、空席のままである。

「ねえ、本当にお前、何も聞いていないの?」

「なんで俺が、何か聞いてるはずがあるんだよ」

 そう言いかえすと、柊は僅かに苛立ったような表情を見せた。それから、柊は強引に潤平の腕を引いて立たせ、「ちょっと来るのよ!」と無理矢理引きずってベランダに出た。

「私も考えが足りなかったよ。人目を気にして言えなかったのよね。それで、不破京介はいったいどうしたのよ」

「はぁ?」

 知らないと言っているのにまったく同じことを問われ、思わず頓狂な声を上げる。

「さっきも言ったけど、俺が知るはずないじゃん。どうしたんだよ、いいんちょ」

「どうしたんだ、はこっちの台詞よ。何か知ってるとしたらお前くらいしかいないじゃないのよ」

「いや、俺、あいつとはそんなに親しくないし。他にもっと詳しい奴、いるんじゃねえの?」

「ちょっと、お前、本当にどうしたのよ」

 柊が目を剥く。とても驚かれている、ということは解るが、なぜ彼女がそんなに驚いているのか、潤平には理解できなかった。

「お前ほど不破京介と仲良い奴なんかいるわけないのよ。学級委員である私が言うんだから間違いないのよ。私はクラスメイトの交友関係を全て把握しているのだから」

「いやそれ怖えよ! ……俺が仲良いって? なんか勘違いしてるんじゃ」

「勘違いするわけないだろうよ、あんなことがあったのに!」

「あんなこと?」

「文化祭でのことだよ。あんな一件を目の当たりにしたんだから……私はあの時まで知らなかったが、お前は随分前から知っているような口ぶりだった。やはり、お前以上に不破京介のことを知っている奴はいないよ。私はてっきり、そういう関係で不破京介が学校に来れないんだろうと心配して……学校には当然言えないだろうから、風邪とでも嘘をつくしかないだろうけど、もしそうだとしてもお前にだけは本当のことを話しているんじゃないかと」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんな一件とか、そういう関係とか、何の話だかさっぱり解んねえ」

 柊は訝しげに眉を寄せる。それから、人目を憚るように周りを見回し、近くに本当に誰もいないことを念入りに確認してから、小声で言う。

「だから……不破京介が魔術師だから、なにか面倒事に巻き込まれているんじゃないかと心配しているんだよ。これくらい察しろよ、鈍い奴ね、窪谷潤平」

「……」

 魔術師ってなんだよそれ。

 いいんちょでも冗談言うんだな。

 そう笑い飛ばそうとして、だが、笑えなかった。

 魔術師、なんて、フィクションの中でしか聞かないような、冗談みたいなワード。それを、潤平はなぜか聞き流せなかった。

 ずきり、と頭が痛む。その痛みに気づかないふりをしながら、潤平は慎重に問う。

「文化祭……って、何が、あったっけ」

「……お前、大丈夫か? 妖怪殲滅を目論む謎の魔術師連中が文化祭を襲撃したんだろうよ。不破京介は、あれでだいぶ酷い目に遭ったし、私も巻き込まれて、おかげで非日常を垣間見ることになったよ」

 魔術師。妖怪。その言葉に、過敏に反応して、頭が割れそうに痛んだ。もう無視することができなくなった激痛に頭を抱え蹲ると、柊が心配げな声を上げた。

「ちょ、ちょっと、窪谷潤平! お前やっぱり調子が悪いんじゃないのよ! ほ、保健室、いやむしろ帰った方がいいのよ!」

「いいんちょ……俺……」

 言いかけた時、不意に、制服の内側のポケットから、するりと白い紙片が滑り落ちた。ベランダに落ちたそれは、短冊みたいな紙で、解読不能な文字が連なっている。

 なんだろう、と思って、潤平は手を伸ばす。

 そっと触れる、瞬間、その紙片を掴んでいる白い狐の姿が目に入った。

「うわッ!?」

 何もなかったはずの場所に突然現れたように見えた、謎の白い狐は、当たり前のように二足歩行していて、潤平と目を合わせるとにやりと笑った。

「やーっと、気づいたか、坊主。京の字の呪符をまだ持っていたのが幸いだったなぁ」

 その口調には覚えがある。以前にも会ったことがある気がする。こんな、明らかにおかしい狐と? いつ、どうして? 疑問に触発されて、つい数日前のことを思い出す。

『本当についてくるのか?』

『当然だ。お前は目を離すとどんな無茶すっか解んないからな。俺がしっかり見張ってるからな!』

『はぁ……ついに問題児扱いされた。かつてはお前の方がずっと問題児だったのに』

 やれやれと肩を竦めてから、今から行く旧校舎には妖怪がたくさん棲みついていて、この札を持っていれば潤平にも妖たちの姿が見えるから渡しておくよ――確かそんな風に言われて、呪符を貰った。

 京介から。

「――うわああああああああああああああッ!!!」

 気づいた瞬間、大絶叫。柊がびくっと驚いて目を剥く。

「ちょ、ちょっと、何なのよ、いきなり叫び出して」

 頭痛はもう治まっていた。記憶はとてもクリアだ。全部、何もかも、思い出した。

「いいんちょ!」

 立ち上がるや柊の肩を両手でがっしり掴んで潤平は叫ぶ。

「ありがとう、いいんちょ! さすがは三年五組の神だ! いいんちょマジ神! いいんちょのおかげで助かった!」

「はぁ?」

「あの性悪女、人の記憶勝手に弄くりやがって、次会ったらただじゃおかねえ!」

「窪谷潤平、ちょっと落ち着くのよ」

「いいんちょ、俺は帰る。佐藤センセには生理痛で臥せっているとでも言っておいてくれ!」

「お前は男だろうがよ! 窪谷潤平、おいこらーっ!」

 柊の制止を振り切り、潤平は荷物を整理する時間も惜しく、とるものもとりあえず教室を飛び出した。階段をダッシュで駆け上がり、一年生の教室に飛び込む。まもなく授業が始まる時間のため、生徒たちはほとんどが座席について静かに授業の開始を待っていた。

 その静寂を躊躇いなくぶち破り、潤平は吠える。

「美波! 大事件だ!」

「に、兄さん!?」

 突然教室に乱入してきた兄に、美波は瞠目する。騒がしい先輩の登場に、他の一年生たちも動揺している。美波は恥ずかしそうに顔を赤らめながら教室の入り口まで小走りにやってくる。

「いったいなんの騒ぎです、兄さん」

「京介がピンチだ。ものすごく絶体絶命だ。超ヤバい。ガチでヤバい」

「いきなりなんだというのです」

「ああ、やっぱりお前も忘れてる! いや、でも美波も持ってるだろ、これ!」

 潤平は呪符を美波の目の前に突き付ける。美波は怪訝そうに眉を寄せていたが、やがて何かに気づいたように表情を変える。

「それ……そういえば、私の制服のポケットに入っていたんですけれど、兄さん、これが何かご存じなんですか」

 言いながら、美波はスカートのポケットから呪符を取り出す。潤平が貰ったのと同じものだ。

 と、美波が潤平の肩のあたりを見て唖然とする。

 見ると、いつの間にか白い狐――旧校舎の自称ボス妖怪・周防が、潤平の肩にしがみついていた。

 美波は謎の生物の突然の出現にしばし目を瞬かせていたが、やがて「ああっ!」と声を上げ、慌てて手で口を塞いだ。

「思い出した?」

「出しました」

「一言で言うと?」

「陰険女の陰謀」

「大正解!!」

 お互いに認識を確認したところで、二人はハイタッチを交わす。

「あの、美波ちゃん……?」

 美波の友人らしき少女が躊躇いがちに声をかけてきた。

「もうすぐ授業始まるけど……」

「あ、私、帰ります」

「え?」

「先生には、生理痛で臥せっているとでも言っておいてください」

 兄妹そろって言い訳がぴったり同じでいい加減である。


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