式神さんは働かない(1)
下駄箱の扉を開けると、朝見た時には入っていなかったものがあるのが解った。すたれたシューズの上にのっかっている、白い封筒。これはもしや――ちょっとした予感を抱きながら、不破京介は封筒を指先でつまみあげた。
封筒をひっくり返し、矯めつ眇めつ眺めてみる。差出人の名前はない。糊で封をされていて、ハートマークのシールなんぞは貼っていない、シンプルなものだ。
帰ろうと思って上靴を脱いでいた京介だが、手紙が来たからには予定変更だ。靴を履きなおして、さてどこでこの手紙を開封しようか、と考える。
その時、背後に殺気を感じた。全身に緊張が走る。危険を感じて身を横にずらす。と、ガッ、と凶悪な音を立てて、後ろから飛んできたカッターナイフが靴箱に突き刺さった。あらかじめ避けていなかったら、危なかった。そこそこ頑丈なはずの靴箱に、当たり前のように刺さったそれを見て戦慄しながら、京介は振り返る。下手人は逃げも隠れもせず、堂々と姿をさらしていた。
「ふっ……今のを避けるか。さすがは俺の仇敵」
そう言って不敵に微笑むのは、両手に彫刻刀やら鋭く尖った鉛筆やらを装備したワイシャツ姿の少年だった。相手はよく見知った顔だった、というかクラスメイトだった。
「やっぱりお前か、潤平。その、度の過ぎた嫌がらせは、今日何度目だ?」
少年――窪谷潤平はいつでも凶器を放てるように構えたまま答える。
「三度目だ。そしてお前が屈服するまで続くぜ、きょーすけ」
「今の、俺が避けてなかったら、お前は退学どころじゃ済まなかったぞ」
「安心しろ、俺が狙ってたのはそのラブレターだ。お前にそいつを開ける権利はない。さあ、そいつを渡しな。俺が代わりに焼却炉にぶち込んできてやる」
京介はそっと肩を竦める。そして、無駄だろうなとは思いつつ、説得を試みる。
「潤平……何度も言うが、美波ちゃんには悪いと思ってる」
「黙れきょーすけ! そんな言葉で、美波の心の傷は消えないんだ!」
やはり聞く耳を持たないようだ。京介は溜息をつく。
何がいけなかったのだろうか、と京介は考える。つい二年前までは、京介と潤平は仲のいい友人同士だった。おそらく級友たちの中で、潤平とつるんでいる時間が一番長かったはずだ。しかし、友情とは脆いものだ。
何がいけなかったのか――それはたぶん、潤平が超がつくほどのシスコンだったのが悪かったのに違いない。
潤平の二歳年下の妹・美波。潤平とよく一緒にいる京介を見かけることの多かった彼女は、やがて京介に恋をして告白。しかし京介はそれをフって、美波は泣く泣く諦めた。そこで潤平がキレた。曰く「俺の可愛い妹を泣かせるとは何事か」というわけだ。以来、潤平はことあるごとに京介に襲撃を仕掛ける復讐の鬼と化したわけである。
「潤平、あのことはそろそろ時効ということで手を打たないか」
「きょーすけ、お前は知らないようだな。法改正で公訴時効は撤廃されたんだ」
「いつから恋愛沙汰は刑事事件になったんだ?」
「美波の心の傷は二年くらいじゃ消えないんだよ」
「とかなんとかいって、既に一つ年上の男と新たな恋をスタートさせてるじゃないか」
「あんな男、おにーちゃんは許しません。あいつもお前の次に消す予定だ」
「めんどくせえなこのシスコン!」
どうやら潤平は、退く気はないようだ。京介は手にしていた手紙をズボンのポケットに突っ込む。読みもしないうちに手紙を潤平に引き裂かれるわけにはいかない。しかし、その動作が癇に障ったらしく、潤平はぎろりと鋭く睨みつけてくる。
「きょーすけ、美波のことはフっておきながら、直接告白する勇気もなく下駄箱に手紙を入れるなんていう一昔前の手法に縋るような女に尻尾振ろうってんじゃないだろうな」
言いながら、潤平は両手の凶器を次々と擲つ。身を屈めてそれを避けると、背後で下駄箱が可哀相な音を立てる。
このシスコンは、妹のことになると周りが見えなくなる。ここは京介たちが通う県立神ヶ原第一高校の昇降口。生徒の下校ピークの時間帯を外しているとはいえ、いつ誰が通りかかってもおかしくない場所だ。そんなところで乱闘騒ぎを起こすなど正気の沙汰とは思えない。もし誰かに見つかれば、潤平はただの下駄箱破壊魔である。
「食らえ、カッター乱れ打ち!」
などと叫び、よくもまあそんなに揃えたなぁ、と感心したくなるほど大量のカッターナイフを放り投げようとする潤平に、京介は一言、
「やかましいッ!」
持っていた通学用の鞄を放り投げる。置き勉常習犯で試験前くらいしかテキスト類を持ち帰らない潤平と違って、毎日律儀に辞書だの資料集だのを持ち帰っている京介の鞄は、鈍器になる程度には重い。それを顔面で受けた潤平は、
「ぐべっ」
謎の奇声を発して後ろに仰け反り、勢い余って後ろの下駄箱に頭をぶつけて自滅した。下駄箱に逆襲された潤平は、その場に崩れ落ちて沈黙する。過激な攻撃を仕掛けてくる割には脇も詰めも甘いことで定評のある窪谷潤平、今日も今日とて復讐に失敗し、騒ぐだけ騒いで気絶した。
京介はそっと周りを窺う。時間にして二分ほど。幸い、誰にも目撃されずに悶着は終了した。下駄箱に刺さったカッターを引き抜いて、潤平の鞄の中に隠す。倒れた彼を保健室に連れて行ってやるほどお人よしではないが、誰かが通りかかって彼を見た時のために、潤平の凶行がばれないようにしてやるくらいの心の余裕はあった。こんなつまらないことでシスコンクラスメイトが生徒指導部に睨まれるのも寝覚めが悪い。過激で粘着質な男だが、一応クラスメイトで、腐れ縁の男だ。
襲撃を乗り越え落ち着いたところで、京介は潤平を置き去りに廊下を歩いていく。少し考えてから、本館一階の小会議室に身を滑り込ませる。どこの部活も使っていないし、これから会議が開かれる予定もなさそうだ。ここなら、誰にも邪魔をされずに手紙を読むことができるだろう。
先ほど少々慌てて乱暴にポケットに入れたせいで、封筒は僅かに皺が寄ってしまっていた。しかし、読むのに支障はなさそうだ。端を破って、丁寧に折られた便箋を取り出す。
実のところ、こうした手紙を受け取るのは初めてではない。しかし、こうして受け取った手紙を広げる瞬間は、やはり慣れないものだ。鼓動が僅かに早くなるのを感じる。
小さく息を吐き、心の準備を終える。便箋を広げ、そこに認められた文章に視線を落とす。
そこに書かれていた文章は、大方京介の予想通りのものだった。思わず溜息をつく。
『神ヶ原第一高校の旧校舎には化け物が巣食っています。退治してください――』
案の定、依頼状だった。
ないだろうな、と頭では思いつつ、ラブレターである可能性を否定しきれずそわそわし、しかし結局ただの仕事の依頼であることを確認して落胆する。ここまでがテンプレートで、日常茶飯事である。
神ヶ原市には昔から妖が多く棲んでいた。人の目には映らない者、人とは違う異形の姿をした者、人に紛れて暮らす者など様々だ。人に害なす妖もいるし、逆に妖に害なす人もいる。普通の人間はほとんど妖怪の存在に気づかないが、それでも問題事は絶えない。妖怪と人間の間でトラブルが起きた時、人知れずそれを解決し、妖と人との間を仲介する役目を代々担っていたのが、不破家の人間である。
現在の不破家の当主は、不破竜胆という女性で、京介の祖母にあたる。還暦過ぎとは思えない、若々しく元気が有り余っている女性だ。しかし、少々、というかかなり怠慢で物臭な性格をしている彼女は、「私ももう歳だから」と「次期当主はお前だ」という二つの言葉を武器に、本来彼女がやるべき仕事をすべて京介に丸投げする。竜胆の元に送られるべき仕事の依頼がなぜか京介の下駄箱に現れるのも、彼女の仕業である。
九月某日、とっとと帰宅しようと思った矢先に、おそらく竜胆から盥回しにされてきたのだろう仕事の依頼が降ってきた。しかもその内容は、自分が通う高校の旧校舎に絡んでいるらしい。となれば、無視するわけにもいかない。
京介は手紙を読み進める。
『――旧校舎に肝試しに入った友人が戻ってきません。他にも同じように、旧校舎に行ったきり行方知れずになった人がいると聞きます。あの旧校舎には、人を食らう妖怪が棲んでいるという噂もあります。どうか、妖怪を退治して、みんなを取り戻してください』
その手紙の下には、訴えを裏付けるように新聞記事の切り抜きが貼りつけてある。
『三十一日、神ヶ原市に住む高校一年生・行峯透くん(16)が行方不明となった。透くんは午後六時ごろ、友達と遊びに行くといって家を出た後、連絡が取れなくなった。警察は事故、事件の両方の面から捜査を進めている――』
夏休み最終日に行方不明となった少年。この日、旧校舎に肝試しに行って、そのまま行方不明になったのだ、と手紙の差出人は言いたいらしい。
「旧校舎、か……」
現在使われている新校舎からグラウンドを挟んだ向こう側にある旧校舎は、三十年ほど前まで使われていた木造三階建ての建物だ。老朽化が進んだため現在では使われておらず、立ち入りも禁止されているのだが、古びて薄暗い感じが「雰囲気がある」と評判で、肝試しに訪れる輩が絶えないらしい。あちこちガタのきている建物で、床やら天井やらが落ちてもおかしくないレベルのボロ校舎なのだが、今のところ取り壊しの予定がない。というのも、何年か前に取り壊そうとして旧校舎の調査に入った業者が「幽霊を見た」などといって発狂し、その他にもいろいろ怪奇現象が起きたようで、旧校舎は呪われている、という噂が立ってしまったからだ。おかげで旧校舎取り壊しに関係者が及び腰になり、無期限の延期となった。
それらの怪奇現象は、実は旧校舎に棲む妖どもが、「俺たちの住処を壊すな!」とひそかに反乱を起こしたのが原因であるということを京介は知っている。暗くてじめじめしていて静かな暗闇を好む妖が、あの場所には多く棲みついていたのだ。たまに肝試しに訪れる人間を驚かすことだけを楽しみに生きる、少々悪戯好きな連中というだけで実害があるわけではないので、京介は目を瞑っていた。
……のだが、もしも手紙の差出人が語るように、旧校舎の妖怪が人を闇の中に呑みこんでいるようなら話は違う。
真偽を確かめる必要がありそうだ。
万が一、旧校舎に巣食う妖が人間に牙を剥くことになれば、戦うことになるかもしれない。となると、こちらも戦力を揃えておく必要があるだろう。
代々、妖と人間の仲介役であった不破の人間は、妖と戦うことも珍しくなかった。だが、人間の力だけでは限界がある。妖は、人間よりも優れた能力を持っていることが多いのだ。それらと戦うため、不破家の者は妖を味方につけてきた。
妖を調伏する、あるいは妖と契約を結ぶことで、式神としてきた。
京介は徐に右手を持ち上げる。その手の甲には、花びらを模した紋様が刻まれている。それは、式神との契約の証、契約紋だ。
「来い、芙蓉姫」
名前を呼ぶと、契約紋が光を放つ。ふわりと風が巻き起こり螺旋を描く。淡い光が眼前に溢れる。その光を弾きながら、風の中心にやがて人影が現れる。
長い黒髪、紫苑の瞳。挑戦的な鋭い視線が京介を射抜く。ブーツの踵を鳴らして地に舞い降りた女は、名を芙蓉姫という。京介が従える式神である。
召喚した式神に向かって、京介は告げた。
「――旧校舎に乗り込む。行くぞ、芙蓉」