もうひとりの英雄
「あの子、ルクセン家の末娘。名前くらいは知ってるでしょ?」
「マリーだっけ? シャロの次くらいの順位の人だよね?」
「その覚え方は止めなさい」
ルクセン家というのはこの国で代々優れた軍人を輩出してきた家系。
建国史の中にもルクセンの姓を戴いた勇者が幾度も登場する名門中の名門だ。
同じ学校にいたのならサインでももらっとけば良かった。
「だいたい何を考えてるのかは分かるけど、向こうは敵視してるから止めときなよ」
「敵視されるようなことしたっけ?」
シャロはまた「これだから天然ってやつは……」とか呟いていたが親切に教えてくれた。
私が黒騎士の副官に選ばれたことが不満なのだそうだ。
しかも、何らかの働きかけを上層部にしたのではないかという疑惑さえ持っているのだという。
「私に言わせると、自己紹介お疲れ様って感じなんだけどね」
おそらくはそのお嬢様もルクセン家の力で副官の座を狙っていたのではないか?
それすらも叶わずに『三番手』の私に持って行かれたからこその言い分ではないかというのがシャロの意見だった。
そうこうしているうちに出勤の時刻が近づいてくる。
目の前のサラダを口の中にかきこむと軍務局へと急いだ。
『行ってらっしゃい』
「行ってきます」
二日目もまた初日と変わらず挨拶回り。
先任は相変わらずせっかちだったが昨日よりは抑えてくれたので見失わずに済んだ。
「次はルクセン中将だ。失礼の無いようにな」
ルクセン中将は軍のナンバー3に当たる人物で今朝の少女の父親でもある。
しかもあのルクセンなのだ。
英雄エッテンザと共に魔物達を駆逐した勇者ルクセンの子孫。
だから、これは仕方のない事だったのだ。
「エンテッザ准将の副官となりました、アイナ=シューストーです! あ、あの、失礼でなければ、サイン下さ…ひぎゃっ!」
台詞の途中で先任に叩かれました。
そんな分厚いファイルで叩くなんて酷い。
「言った先から失礼なことをするな!」
「まあまあ、いいじゃないか。可愛らしくて」
中将はノートにサインしてくれたばかりか、握手まで。
私、一生の宝物にします!
「申し訳ありません、中将閣下」
一見として好々爺に見えるこの方こそ、この軍務局の大幹部。
ルクセン家の現当主であるザイバッハ=ルクセンであらせられる。
黒騎士が現れるまで軍務の一切を取り仕切っていた人物で、宣戦布告と同時に辺境の人々を王都に避難させて戦場を制限し、戦力を集中させることで十数年間も王都への侵攻を食い止めたと言われている。
中には逃げ遅れて私のように親を亡くした者もいるが特に恨んでいるわけでもない。
実際にそうしなければ戦線が保たなかったのは自明の理。
黒騎士の最近の栄光に隠れた英雄の一人である。
「申し訳ありませんでした! 英雄ルクセンに出会えると思ったらつい浮かれてしまって……」
先任と共に頭を下げると、ほっほっほと笑っている。
「わしのことを今でも英雄などと呼んでくれるとは、実に珍しい」
白く伸ばしたアゴ髭を撫でながら独りごちる。
「最近はエンテッザ准将ばかり持て囃されてな。うちの娘ですら黒騎士黒騎士と毎日のように云うて来る。まったく、年寄りはもう退き時かと思っておったが、わしもまだ捨てたものではないな」
意外と好感触。
いつでも来なさいとまで言ってもらえて実に感無量である。
「中将閣下、それでは任務に戻ります」
「また遊びに来ま…ふぐっ!」
敬礼をしながら先任に襟を掴まれて退出する。
次の目的地に向かって歩きながら先任にさんざん説教されて思う。
そういえば、娘さんのこと聞き忘れたなー、と。
また今度会った時でいいやと思いながら「お前、実は話聞いてないだろ」と説教されつつ、その日もまた挨拶回りだけで終了したのであった。