現実へ、あるいは、修復
化粧室の個室に、再び、重い沈黙が戻った。吐しゃ物の酸っぱい匂いと、冷たい水の気配だけが、狭い空間に漂っている。陳望は、洗面台の縁に両手をつき、肩を揺らしながら荒い息を続けていた。鏡に映る自分の顔は、さっきよりもさらにぐったりとし、目の周りは、疲労か、あるいはこらえきれなかった何かで、うっすらと赤くなっていた。頬には、水しぶきがまだ光っている。彼は、崩れ落ちた廃墟のような自分を、虚空を見つめるようにただ眺めていた。
数分、あるいは数十秒だけ、彼は何も考えず、ただそこにいた。神経の鋭い悲鳴と、記憶の古傷の疼きが、少しずつ、潮が引くように鎮まっていくのを、じっと待った。
やがて、彼はゆっくりと動き始めた。冷水の蛇口をひねり、勢いよく出る水に、もう一度顔を近づけた。今度は、洗顔のように、掌に水をくみ、顔全体に、強く、何度も叩きつける。冷たさが、皮膚の奥まで染み込み、混乱した思考を、無理やり引き締めていく。彼は顔を上げ、濡れたままの顔で鏡を見つめ、そして、傍らの紙タオルを一枚、ゆっくりと引き出した。
紙タオルで、額から頬、顎へと、水滴を丁寧に拭い取っていく。動きはゆっくりで、機械的だった。肌がこすられ、少し熱を持つ。鏡の中の男の顔が、少しずつ、はっきりとしてきた。赤みは引いていなかったが、少なくとも、崩壊の跡だけは、水と共に洗い流されつつあった。
次に、彼は髪に手をやった。指で梳かし、水で濡れて崩れたスタイルを、できるだけ元に戻そうとする。ぴんと張った七三分けのラインは完全には復活しなかったが、少なくとも、乱れすぎてはいない、きちんとしたビジネスマンのそれにはなった。
そして、彼の手が、ネクタイの結び目に触れた。水に少し濡れ、締め付けがきつく感じられる。彼は、無意識に、結び目を緩め、ほどき、そしてもう一度、締め直し始めた。
その指先の動き──親指と人差し指で布地を掴み、交差させ、一方を輪に通し、ゆっくりと引き締める──それが、突然、ついさっき、鏡の中でよみがえったあの「別の感触」と、鮮烈に重なった。
(…彼女の指が、優しく、しかし確実に、結び目を整える。玄関の、やや暗い照明の下で。彼女の息が、ほのかに香る。指先が、喉元の皮膚に、ほんの一瞬、触れる。その感触は…冷たかった。今、思い出しても、冷たかった。)
鏡の中の自分の手は、確かに動いている。しかし、その動きは、あの記憶の中の、智子の指先の動きとは、本質的に違っていた。彼女の動きには、ためらいがあり、揺らぎがあり、言い表せない情感が込められていた。ぎこちなささえ感じられた。一方、今、鏡に映る彼自身の指の動きは、研ぎ澄まされた機能性だけに特化していた。角度、力加減、締める速度。すべてが、無駄がなく、正確無比で、そして、冷たい。ネクタイを「正しい状態」に戻すという目的以外、何の感情も込められていない。それは、修理作業だった。自分という「製品」の、外装の一部を、規定通りに組み直す、単調な作業。
結び目が、喉元に、適度な圧迫感をもたらして締まった。彼は、首を軽く左右に動かし、違和感がないかを確認した。鏡の中の男も、同じ動きをした。彼は、ネクタイの先端を、ベスト(もし着ていれば)の下にきちんと収め、シャツの襟を整えた。
次は、表情だ。
彼は、鏡の中の自分と、真正面から向き合った。目には、まだ疲労の影と、かすかな血の気のない色が残っている。口元は、力なく緩んだまま。彼は、ゆっくりと、意図的に、口角を引き上げ始めた。最初は不自然な、引きつった笑みだった。しかし、彼はそれを維持した。頬の筋肉に意識を集中させ、目じりにも、わずかに力を入れる。目を見開き、焦点を定める。虚空を見ていたぼんやりとした視線を、一点に、鋭く、しかし攻撃的ではない「意志」を持った光に変えていく。
深呼吸をする。胸を張る。肩の力を、意識的に入れ、そしてゆっくりと抜く。背筋が、一本の線のように伸びる。
鏡の中の男が、少しずつ、変わっていく。疲れと虚脱の跡は、完全には消えない。しかし、それらはもはや、主役ではない。それらは、「激務をこなしてきた優秀なビジネスマンにふさわしい、適度な疲労の色」として解釈可能な、許容範囲の「味」に変化していく。赤い目尻は、コンタクトの不快さか、あるいはほんの少しの花粉症のせいにできる。全体的に青白い顔色は、オフィスの蛍光灯の下なら、あまり目立たない。
彼は、笑顔の角度を微調整した。歯を見せすぎず、しかし充分に友好的で、信頼できる印象を与えるもの。目は、疲れを滲ませつつも、その奥に知性と意志の光を宿す。それは、困難を乗り越える力を持った人物の、適度に人間味のある表情だ。
「…よし。」
彼は、声には出さず、唇をわずかに動かして、そう呟いた。それは、自分自身への合図だった。
陳望という男の、さっきまでの崩壊と混乱は、この化粧室という密室の中に、水に流された。今、ここに立っているのは、「チェンさん」だ。面接で完璧な振る舞いを見せ、将来を嘱望される国際派のビジネスパーソン。ほんの数分前、洗面台にもたれて震えていた男は、どこにもいない。あるいは、あの男は、この「チェンさん」という完璧な鎧の、ほんの小さな、管理可能なひび割れとして、内側にきっちりと封じ込められた。
裂け目は、精心に糊付けされ、塗りつぶされ、見えなくなった。少なくとも、表面上は。
彼は、もう一度、深く息を吸い込み、吐き出した。肺の中の、吐しゃ物と冷たい水の残滓のような気配が、きれいな(あるいはきれいなふりをした)空気に入れ替わる。
彼は、洗面台の周りに飛び散った水しぶきを、紙タオルでさっと拭き取った。自分がここにいた痕跡を、可能な限り消す。ゴミ箱に、濡れた紙タオルを捨てる。最後に、袖口と襟元のわずかな濡れを、ハンカチで押さえる。
準備は整った。
彼は、鏡の中の自分──髪は整い、スーツに皺はなく、ネクタイはきちんと結ばれ、表情は適度に疲れていながらも前向きな、三十代前半の有能な青年──を、最後にもう一度見つめた。その目は、もはや何の感情も映さない、静かで深い潭のようだった。すべての波風は、表面下に沈められた。
彼は、個室のドアの鍵を開けた。カチャという小さな音。
化粧室のメインエリアを、ためらうことなく歩き抜ける。大きな鏡の前を通り過ぎる時、彼の姿は、さっきとは別人のように映った。背筋はしゃんと伸び、足取りは軽快で確か。会社の廊下を歩く、多くの野心に満ちた若手エリートと、何ら変わりない。
重いドアを押し開ける。外の、会社の廊下の、明るすぎる蛍光灯の光と、遠くから聞こえる電話の音や、かすかな話し声が、一気に彼を包み込んだ。現実のざわめきが戻ってきた。
彼は、一瞬も足を止めず、エレベーターロビーへと、安定した、自然な歩調で歩き出した。顔には、さっき練習した、適度な疲労感と集中力を併せ持つ表情が浮かんでいる。スマートフォンをポケルから取り出し、画面をちらりと確認する仕草も、何の不自然さもない。
廊下の向こうから同僚らしき人物が歩いてくる。陳望は、ごく自然に、軽く会釈し、口元に最小限の笑みを浮かべてすれ違った。
あの個室の中で、冷たい陶器に額を押し当て、無様に震え、記憶の疼きに胃を掴まれた男の影は、彼の足元にさえ、もう落ちていなかった。すべてが、元通りだ。いや、少なくとも、見た目は、すべてが元通りになった。
「チェンさん」は、次の打ち合わせへ、次のタスクへ、次の「完璧な演技」へと、静かに、確実に、歩み去っていく。彼の背中には、色あせた小さなプーさんも、何の思い出も、もうぶら下がっていない。あるのは、ぴんと張ったスーツの上着の、完璧なシルエットだけだ。




