表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東京・下町漂流記 2026——中国人留学生、孤独の共鳴  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/12

化粧室で、崩れる

重厚な会議室のドアが静かに閉じると、廊下の、過剰なほどに明るく、そして無機質に清潔な空気が、陳望を包み込んだ。壁は真っ白、床は磨き上げられた大理石で、彼の革靴の音だけが、規則正しく、少し響きすぎるほどに廊下に反響する。彼は、背筋を伸ばし、顎を引き、適度な速度で歩き続けた。エレベーターホールに向かう途中、秘書席の若い女性に、自然な笑顔と軽い会釈で「お世話になりました」と声をかける。彼女もまた、完璧な接客笑顔でそれに応える。すべてが、予定調和の、何の乱れもない儀式の一部だった。

しかし、彼の体の内側では、別のプロセスが進行していた。アンダーシャツの背中に、じんわりと、冷たい汗がにじんでいる。握りしめていた手のひらも湿っていた。耳の奥で、高周波の、かすかな、しかし執拗な耳鳴りが始まっている。それは、一時間近くに及ぶ極度の集中と、感情の完全な制御の後に訪れる、神経系の悲鳴のようなものだ。成功への安堵ではなく、むしろ、張り詰めた弦が急に緩んだ時の、虚脱に近い、不快な振動。

エレベーターの表示板が、一階へと下り始める。彼の目的地は、一階ではなかった。彼は、無意識のうちに、廊下の突き当たり、目立たない場所にあるサインに目をやった。男女のシルエット。化粧室だ。

エレベーターが一階に到着し、ドアが開く。外は、ロビーの賑やかな人通りだ。彼は、一瞬もためらわず、エレベーターを出ると、さりげなく、しかし確実に、化粧室の方向へと足を向けた。その歩みは、依然として「チェンさん」らしい、余裕のあるものだった。背中は少しも乱れていない。

化粧室のドアを押す。中は、外の喧噪から遮断された、不自然なほどの静寂に満ちていた。白いタイル張りの壁、眩しいほどの蛍光灯、微かに漂う消毒液と高級ハンドソープの混ざった匂い。誰もいない。彼は、最も奥の、個室のトイレへと真っ直ぐに向かった。

ドアを開け、中に入る。鍵をかける。金属製の小さなラッチが、カチッという、小さく、しかしこの空間では異様に響く音を立ててかみ合った。

その音が、ある種の合図となった。

陳望の、今まで維持していた、完璧な「外側」が、その音とともに、文字通り崩れ落ちた。顔の筋肉が、一度に、すべての緊張を解き放たれた。口元の、計算された微笑みは消え、代わりに、力なく垂れ下がった。眉間に刻まれていた集中の皺が、深い疲労の溝へと変わる。目は、虚空を見つめ、その奥には、面接では決して見せなかった、得体の知れない、荒涼とした感情のざわめきが渦巻いていた。それは、達成感でも虚脱感でもなく、その両方が入り混じり、更に何か別の、古く、鈍い痛みを帯びたものが蠢いているような、複雑で言葉にできないものだった。

彼は、背中をドアに預け、ゆっくりと滑り落ちるようにしゃがみ込もうとした。しかし、その動きの途中で、体の内部から、突如として強い吐き気が押し寄せてきた。胃が、締め上げられるように痙攣する。

「うっ…」

彼は、慌てて体を翻し、個室内の小さな洗面台に両手をついた。冷たい白色の陶器が、汗ばんだ掌に強烈な冷たさを伝える。彼は顔を上げ、鏡の中の自分──髪は少し乱れ、頬は不自然に紅潮し、目だけが異様に疲れきって窪んでいる男──を見つめた。その顔は、さっき会議室にいた「チェンさん」のそれとは、似てすらいなかった。

吐き気が再び襲う。彼は、洗面台の方に身をかがめた。喉の奥が焼けるように熱く、胃液が逆流してくる。何も食べていないから、出てくるのは黄色く透明な酸っぱい液体だけだ。それでも、体は、まるで何か毒物を排出しようとするかのように、激しく、苦しそうに攣動を繰り返した。彼は、洗面台の縁を力いっぱいに握りしめ、指の関節が白くなり、震えていた。額を冷たい陶器の側面に押し付け、目を固く閉じた。肩が、吐しゃくの衝撃と、ある種の感情的痙攣によって、小刻みに震えていた。

これは、成功への嫌悪ではなかった。少なくとも、それだけではない。これは、長い間、極限まで張り詰め、完璧な形を維持してきたある「もの」──彼の意志、演技、社会的人格全て──が、許されたほんの一瞬の隙に、一気に緩み、暴走し、体という容器を内側から激しく揺さぶった結果だった。それは、精神的な消耗が、生理的な反動として最もプリミティブな形で噴出する瞬間だった。

発作のような吐き気は、やがて去っていった。彼は、ぐったりと洗面台にもたれかかり、荒い息を繰り返した。全身の力が抜け、足元がふらつく。冷水のレバーをひねった。水が勢いよく出て、白い陶器の底を叩く音が響く。

彼は、震える手で、冷たい水をすくい、何度も顔に叩きつけた。水しぶきが跳ね、シャツの襟元を濡らす。その冷たさが、灼けつくような皮膚と混乱した頭脳に、一時的な鎮静をもたらす。彼は顔を上げ、再び鏡に向かった。

水滴が、額、頬、顎を伝って落ちる。髪の毛が幾筋か額に張り付いている。顔色は相変わらず悪く、目の下にはうっすらと隈ができている。水に濡れて、彼の顔は、どこか無防備で、そして尋常ではない疲労を曝け出していた。

鏡の中の男は、間違いなく彼自身だった。しかし、その目、その口元の緩み方、そこに漂う虚ろな気配…それは、彼が長年、必死に隠し、抑え込もうとしてきた何か、別の「陳望」の影に、突然、覆われたかのように思えた。

ふと、視線がぼやける。水滴のせいか、疲労のせいか。鏡の表面が、ゆらりと波打つ。その歪んだ像の中、自分自身の顔の輪郭が、かすかに、別の記憶の断片と重なり合う。

(…智子…)

名前が、痛みを伴って、脳裏をかすめた。

それは、閃光のように鮮明ではなかった。むしろ、遠くで聞こえる、かすかな鐘の音のような、あるいは、冷たい水の感触を通して、突然よみがえる、別の、もっと柔らかく、そして遙かに痛い「冷たさ」のようなものだった。

鏡の中の、水に濡れた自分の首筋。その皮膚に、突然、記憶の中の、ある「感触」がよみがえる。それは、指先の、ほんのりと涼しい、そして信じられないほど繊細な感触だ。

(彼女の指が…ネクタイの結び目を整える。サロンの暖かい灯り。彼女の息づかいが近い。指先が、首筋の皮膚に、ほんの一瞬、触れる。冷たい…そんなに冷たい指だったっけ…)

それは、一瞬の、断片的な感覚のフラッシュバックに過ぎなかった。映像というより、触覚と、そこに付随する微かな温もり(あるいは冷たさ)と、胸を締め付けるような甘く痛い感情の混合物だ。

「あ…」

陳望は、思わず、喉の奥で、かすかなうめき声を漏らした。鏡に映った自分の首筋に、無意識に手を当てた。今、そこにあるのは、冷たい水の湿り気だけだ。しかし、記憶の中のあの「冷たさ」は、水よりもずっと深く、ずっと鋭く、彼の現在の空虚の中心を、ぽっかりと穿つようにして蘇ってきた。

彼は、目をしっかりと見開いた。鏡の中の自分を、今度は凝視するように見つめた。水が滴り落ちる。彼の表情は、崩壊の直後の虚脱から、少しずつ、別のもの──混乱、痛み、そして何かを必死に思い出そうとする、あるいは思い出したくないと抵抗するような、複雑な表情へと移り変わっていく。

吐き気は去った。しかし、別の種類の「悪寒」が、彼の背骨を、ゆっくりと、しかし確実に這い上がり始めていた。それは、過去の、整理されず、封印されていたはずの感情の破片が、成功という強力なストレスの後に、隙を突いて溢れ出してきたものだった。

彼は、ゆっくりと深呼吸をした。冷たい空気が肺に入り、少しだけ頭が冷静になる。しかし、鏡の中の自分の目の奥には、さっきまでの「チェンさん」の、あの制御された輝きはもうなかった。代わりにあるのは、深い疲労と、かすかに揺らめく、整理のつかない哀しみの色だった。

彼は、タオルで顔と手を拭い、髪をさっと整えた。水に濡れたシャツの襟は、今すぐにはどうにもならない。彼は、もう一度、深く息を吸い込み、吐き出した。

化粧室の個室から出る時、彼の歩みは、入ってきた時よりも、ほんの少しだけ重かった。背筋はまだ伸びているが、そこには、巨大な、見えない重りを背負って立っているような、かすかなたるみがあった。彼は、洗面所の大きな鏡の前で、もう一度自分を確認した。水気を拭き取り、髪を整え、ネクタイをまっすぐにした。表情は、努力の跡が見えるほどに、無表情に、平らに戻していった。

「チェンさん」という仮面が、再び、ゆっくりと、しかし完全にはぴったりと合わないまま、顔の上に載せられていく。裂け目からは、まだ、ほんのわずかな、疲れと、よみがえり始めた古い痛みの色が、漏れ出しているようだった。

彼は、化粧室のドアを押し開け、再び会社のロビーへ、そして外の眩しい昼下がりの光へと歩き出した。次の予定へ。成功した就活生としての、次のパフォーマンスへ。しかし、彼の体の内側では、冷たい水と、ある冷たい指先の記憶が、微かに、しかし消えることなく、疼き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ