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東京・下町漂流記 2026——中国人留学生、孤独の共鳴  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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「お元気で」と、そして、決壊

蘇晴の姿が街角に消え、その足音が遠ざかっていくのを、敖翔はベンチに座ったまま、全身の神経を研ぎ澄ませて感じ取っていた。十分間。彼は、心の中でゆっくりと数えた。彼女が何かを忘れて引き返してくるかもしれない。何か気になることがあって再び確認に来るかもしれない。長い孤独な監視の日々が、彼にこの慎重さ──いや、ほとんど病的なまでの警戒心を植え付けた。

十分が過ぎ、通りは完全に日常の朝の様相を取り戻した。子供たちの声は校舎に吸い込まれ、代わりに主婦の買い物かごを引いた音や、自転車の通勤音が支配する。

彼は、ようやく動き出した。重い腰を引きずりながらベンチから立ち上がり、左右を確認する。誰も彼に注意を払っていない。彼は、背中のリュックを少し背負い直し、胸に抱えたビニール袋をしっかりと腕に固定すると、ゆっくりと、しかし確実に歩き出した。目的地は、校門のすぐ脇、コンクリートの塀が直角に曲がる少し凹んだ場所だ。ここは、道路からは直接見えず、校門の守衛室の窓からも死角になる、わずか数平方メートルの隠れたスペースだ。

彼はその角に背を向けるようにして立ち、再び周囲を見回した。深呼吸一つ。そして、しゃがみ込んだ。

彼の手が、ジャケットの内ポケルのさらに奥、縫い目がほつれかけた秘密のポケルに滑り込んだ。やがて、小さな、使い古されたチョークの切れ端を取り出した。それは、倉庫で荷物に仮の印をつけるために使われる、ごく普通の白いチョークだ。もうとても短く、彼の太い指でやっと持てる長さしかない。

彼はそのチョークを、人差し指と親指でしっかり、しかし繊細に挟んだ。手は、長年の重労働で関節が太く変形し、至る所に古傷と新しい擦り傷が刻まれている。そのごつごつした、まるで枯れ枝のような指先が、冷たく硬いコンクリートの壁面に触れた。

一瞬、躊躇った。何を書くべきか。毎回、ここに来るたびに、彼は同じ問いと戦う。「おかえり」?違う。彼は帰る家を提供できない。「愛している」?重すぎる。言葉にすること自体が、彼にははばかられる。「ごめんなさい」?それこそ、偽善に聞こえるだろう。

結局、いつも同じ言葉に落ち着く。最も無難で、最も安全で、そしておそらく、彼に許された唯一の、父親としてのささやかな願い。

指先に力を込めた。チョークがコンクリートに擦れる、きしむような、かすかな音。白い粉が、壁のザラザラした表面に付着していく。

「お」 最初の丸を書く。線が震え、歪んでいる。まるで子供の落書きのようだ。

「げ」 はねるところで、力が強すぎてチョークがかすれ、粉が少しはがれた。

「ん」 曲線を描く。彼の額に、無意識のうちに汗の粒が浮かぶ。この単純な文字でさえ、彼にとっては小さな戦いだ。

「き」 縦線。震えが止まらない。

「で」 最後の点。彼は、一呼吸置いてから、ゆっくりと、確実に点を打った。

「おげんきで」

壁に、小さく、歪んだ、しかし確かな意思をもって書かれた五文字が刻まれた。白いチョークの線は、灰色のコンクリートの上で、かすかに光っているように見えた。それは、まるで祈りの言葉、あるいは墓碑銘のようでもあった。

彼は、書き上げた言葉を一瞬眺めた。無表情な顔に、ほんの一瞬だけ、何かがよぎった。それは達成感でも後悔でもなく、ただ、何かを成し遂げた、という虚脱に近い感情だった。

彼は、胸に抱えていた、二重に包まれたビニール袋を、ゆっくりと、その文字の真下、壁際の地面に置いた。袋は、コンクリートの上に、ごく軽い音を立てて着地した。彼は、それが倒れたり、転がったりしないことを確認するため、袋の形をほんの少し整えた。苺のケーキが、無事に、水平を保っているように。

それは、あまりにも小さな、あまりにも貧弱な供物だった。壁に書かれた稚拙な祈りと、その下に置かれた、すぐに廃棄される運命の小さな甘味。それだけで、三年分の空白、数千キロメートルの距離、言葉にできない無数の思いを埋めることなど、到底できない。彼自身、わかっている。それでも、彼にできることは、ただそれだけだった。

彼は、一歩、二歩と後退し、自分の置いた「もの」を遠くから見た。それは、この巨大な都市の、無名の片隅に、彼が確かに存在したことの、かすかな、そして間違いなくすぐに消える証であった。彼は、ほんの一瞬、目を閉じた。そして、振り返り、来た道を引き返そうとした。

その時だった。

道路の向こうから、慌ただしい、しかし彼にはあまりにも耳馴染みのある足音が聞こえてきた。ヒールのカツカツという音が、早足で近づいてくる。

敖翔の背筋が凍りついた。体が、思考より先に反応した。彼は、まるで弾かれるように、校門の反対側、通りを隔てた細い路地へと飛び込んだ。路地の入口には、生け垣と電柱があった。彼はその陰に身を隠し、息を殺し、心臓の鼓動が喉まで上がってくるのを必死に押さえながら、道路の向こうを覗き込んだ。

蘇晴だ。彼女は、先ほどとは逆方向から、明らかに焦りと慌ただしさを感じさせる歩調で、再び校門の方へ向かって歩いてきていた。手には、小さな水筒らしきものを持っている。何かを忘れたのだ。あるいは、ただの不安。あるいは、母親としての、消えることのない虫の知らせ。

彼女の視線が、自然と、校門の周囲を掃く。そして、あの塀の角、彼がちょうど離れたばかりの場所に、ぱっと釘付けになった。

歩みが、ぴたりと止まる。

彼女の体が、一瞬で石のように硬直する。水筒を持つ手の指が、握りしめられ、関節が白くなる。

彼女の顔が、目に見えて、血の気が引いていく。健康的なピンク色は、一瞬で蝋のような青白さに変わる。目が、恐怖と強い衝撃で見開かれる。唇がわずかに開き、何か言葉を発しようとするが、声にならない。それは、単なる不審物を見つけた驚きなどではなかった。それは、見たこともない怪物に出くわしたのでもない。それは、まさに、最も恐れ、最も避けたいもの、過去の悪夢の一片が、現実の白昼の下に、唐突に、無造作に転がり出てきたのを見た時の、純粋な恐怖の表情だった。

彼女の首が、ギコギコと、硬直した機械のように動く。まず、壁に書かれた、あの稚拙な「おげんきで」の文字を、一文字一文字、咀嚼するように見つめる。そして、視線が、その真下にある、無害そうなビニール袋へと落ちる。

次の瞬間、彼女の頭が、鷲のように鋭く上げられた。目が、狂ったように周囲を走査し始める。道路、ベンチ、店のシャッター、歩道橋、遠くを歩く人影…すべてを、一秒もかからずに見渡し、分析し、脅威を探る。その動きは、先ほどの警戒心など比較にならない、捕食動物に狙われた小動物のような、パニックに近い必死の探索だった。

路地の陰に隠れる敖翔は、息を詰まらせ、体をできるだけ電柱の陰に押し付けた。彼の心臓は、肋骨を打ち破らんばかりに暴れていた。駄目だ。見つかった。彼女が、あの袋と文字の意味を理解した。彼女の顔色が、すべてを物語っていた。それは、優しさや懐かしさではなく、純粋な嫌悪と恐怖だった。

彼は、少しずつ、さらに路地の奥へ、暗がりの中へと後退しようとした。しかし、その時だった。彼の、ぎこちなく動いた背中が、リュックの横にぶら下がったあの小さな黄色い乗客を、ほんのわずか、揺らした。

ほんの一瞬。路地の入口、生け垣の隙間から差し込む朝の光が、色あせて汚れたプーさんの黄色い胴体の一部を、一瞬、ちらりと照らした。それは、暗い背景の中に浮かび上がる、一瞬の小さな黄色い斑点に過ぎなかった。

しかし、蘇晴の、研ぎ澄まされた獣のような警戒心は、その一瞬の閃光を見逃さなかった。

彼女の、あちこちを飛び回っていた視線が、ぴたりと、敖翔の隠れる路地の入口へと固定された。彼女の瞳孔が、針の先のように鋭く縮んだ。一瞬の間。彼女の顔の、恐怖に引きつった表情が、突然、何かを確信した瞬間の、氷のような冷たさと、沸騰するような怒りに変わる。それは、漠然とした脅威に対する恐れから、具体的で、名前のある敵に対する憎悪への、瞬時の転換だった。彼女の目が、路地の暗がりを、まるで敖翔の目を見据えるかのように、真っ直ぐに見据えている。彼女は、見えた。あの、忌まわしい黄色いものを。

「あ…!」

声にならないうめき声が、彼女の喉から絞り出された。

そして、彼女は動いた。まるでバネが解かれたように、壁の角へと走り寄った。ビニール袋を見下ろす。彼女の顔に、生理的な嫌悪の表情が走る。それは、毒虫でも触るような、あるいは腐敗したものに触れるような、我慢できないほどの嫌悪だった。

彼女は、腰をかがめ、手を伸ばした。しかし、そっと拾い上げるのではない。彼女の指先が、ビニール袋の結び目を、つまむように、しかし力いっぱいに掴んだ。そして、体をひねり、隣に設置された公共のゴミ箱に向かって、全身の力を込めて、それを投げつけた。

ドン!

ケーキの入ったプラスチックカップが、金属製のゴミ箱の底に、鈍く、しかしけたたましい音を立てて衝突した。その音は、朝の静かな通りに、不自然に鋭く響き渡った。

その衝撃的な音とほぼ同時に、校門の内側から、小さな、慌てた足音が聞こえた。

「ママ!」

小雅が、小さな水筒を手に、慌てて外へ飛び出してきた。彼女は、母親が忘れていった水筒を持って、追いかけてきたのだ。彼女の目は、最初は母親に向けられ、それから、ゴミ箱へと、そして、壁に書かれた白い文字へと移った。彼女の顔に、困惑と、わずかな恐怖の色が浮かんだ。何が起こったのか理解できない。

蘇晴は、振り返った。彼女の顔は、まだ血の気がなく、唇は強く結ばれて、一直線の硬い線を描いていた。彼女の目は、路地の暗がりを一瞥し、それから娘の顔に釘付けになった。その目には、未だ消え去らぬ激しい怒りと、それ以上に強い、ほとんど狂おしいほどの保護本能が燃えていた。理性や説明の余地など、微塵もなかった。

「こっちへ来い!」

彼女の声は、金切り声のように鋭く、普段の優しい口調からは想像もできないものだった。彼女は、小雅の細い手首を、鷲づかみにした。力の加減などなく、骨を折らんばかりの握力で。

「痛い!ママ、どうしたの?!」

小雅は、驚きと痛みに顔をしかめ、不意を突かれてよろめいた。彼女の小さな体が、母親の力任せの引きずりに、まるで人形のようにふらつく。

蘇晴は何も答えなかった。彼女の顔は、真っ白で、まるで仮面のようだった。彼女は、まるで地獄の亡者のような速さで、小雅を、家とは反対方向の路地へと引きずり込んだ。立ち止まったり、振り返ったりすることは一切なかった。その背中は、逃げるというより、何か忌まわしいものから、我が子を強引に連れ去る、断固たる、そして絶望的な切断の意志に満ちていた。二人の姿は、次の瞬間、通り角に消えた。小雅の「ママ!」と呼ぶかすかな声だけが、空気の中に、切なさだけを残して、すぐに消え去った。


路地の暗がり。生け垣の陰。

敖翔は、冷たくざらざらしたコンクリートの壁に背中を預け、そのまま、重力に身を任せるように、ゆっくりと、ずり落ちていった。膝がガクガクと震え、体を支える力を完全に失っていた。彼は、地面に尻餅をつくように座り込んだ。コンクリートの冷たさが、薄いズボンを通して、直接、体の芯へと染み込んでくる。

すべての音が、突然、遠のいていった。ゴミ箱にケーキが叩きつけられたあの鈍い音。小雅の悲鳴のような呼び声。蘇晴の鋭い叱責。すべてが、耳の奥で、歪んだ、低い唸りのように響くだけだった。彼の頭の中は、真っ白だった。思考する力も、感じる力さえも、すべてが、あの一撃で粉々に砕け散ったように思えた。

ただ、胸の奥深くから、鈍い、重たい、何かがゆっくりと崩れ落ちていく感覚だけがあった。

彼は、無意識に、ジャケットのポケルに手を入れた。中から、押しつぶされた安いタバコの箱と、使い古したライターを取り出した。指先が震えている。一本、タバコを取り出そうとして、二本、三本とこぼれ落ち、地面に転がる。彼は、そのうちの一本を拾い上げ、唇にくわえた。ライターをかざす。手の震えで、何度も火がつかない。ようやく、小さな炎がタバコの先に灯った。

彼は、深く、肺の奥底まで吸い込んだ。安いタバコの、刺激的で粗悪な煙が、喉を焦がし、肺を突き刺した。その瞬間、抑えきれなかった激しい咳が、彼の体を襲った。背中を丸め、肩を激しく震わせ、まるで内臓を抉り出すような咳き込みが続く。目から、生理的な涙が溢れ出た。彼は、タバコを握った手で口を押さえ、もう一方の手で地面を掴み、咳の衝撃に耐えようとした。

咳はやがて収まったが、彼の体の震えは止まらなかった。涙は、咳によるものだけではなかった。それらは、無言のまま、彼の頬を、ひげ面を伝って、ぽたぽたと地面に落ちていった。彼は、うつむいたまま、ただただ震え、煙草の先から立ち上る細い煙を、ぼんやりと見つめていた。

朝もやは、まだ完全には晴れていなかった。路地の空気は、冷たく、重たく漂っている。彼の吐く白い息と、タバコの青い煙とが、混ざり合い、ゆっくりと、無気力に空中に広がり、やがてかすんで、消えていった。路地の向こうの通りでは、いつも通り車の音がし、人々の話し声が聞こえる。誰も、この暗い路地の奥で、一人の男が、音もなく崩壊していることなど知る由もない。

彼は、もう一度、深く煙草を吸った。今回は、咳き込むこともなく、ただ、煙を肺いっぱいに満たし、そして、ゆっくりと、すべてを吐き出した。まるで、体中の、かすかな希望さえも、その煙とともに吐き出してしまおうとするかのように。

壁に書かれた「おげんきで」の文字は、通りからは見えない。ゴミ箱の中の、二重に包まれた苺のケーキは、おそらく、やがて他のゴミと一緒に処分される。彼の存在は、ここには何も残さない。たった一つの、ささやかな試みさえも、拒絶され、踏みにじられ、ゴミとして捨てられた。

彼は、ゆっくりと立ち上がった。足元には、吸い殻と、こぼれたタバコが転がっていた。彼は、それを一瞥もせず、背中のリュックを背負い直した。リュックの横で、色あせたプーさんが、静かに、無邪気に揺れていた。

彼は、路地を出た。朝日が、彼の顔をまともに照らす。彼は、目を細めた。表情は、もう何もなかった。深い疲労と、何かが完全に消え去った後の、虚ろな、平らな無の表情。彼は、ゆっくりと、重い足を引きずりながら、物流センターの方へ、一日の労働が再び始まる場所へと、歩き出した。

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