「これからも応援してます」と言おうと思ったら誘拐された
「…え?当たってる?」
夜闇に包まれて暗い暗いオフィスの中、ただ一つ光るスマートフォンを眺めて呟いた。
驚きのあまり、ゴトッという音と共に落としたそれを慌てて拾って、その画面をまじまじと眺めた。
「やっぱり間違ってない…!当たってる!」
スマホに浮かぶのは『お申し込みいただいたチケットに当選致しました』の文字。
誰もいないのをいいことに、僕はその場でピョンピョンと跳ね回った。
あぁなんて幸せなのだろう。ずっとずっと大好きだったシャロンくんに会える。僕はくたびれたシャツに似合わぬ笑顔を浮かべて、家路を急いだ。
◇◇◇
僕こと新森 由羽希は、中小企業の営業部に勤める冴えない社会人。入社から二年経ったが仕事効率がすこぶる悪い僕は、いつも退社が遅い。今日は特に遅くて、やっと帰れると思ったときにはオフィスに僕一人しか残っていなかった。おかげで喜びの舞を誰にも見られずに済んだけど。
僕が飛び跳ねるほど喜んだ〝当選〟というのは、僕の大大大好きな最推しの握手会への参加券の当選のことだ。つまり推しに会えるのだ。
僕の推しのシャロンくんは、今をときめく国民的アイドルグループ LUMINAのメンバーである。甘いフェイスと抜群のスタイルはもちろんのこと、澄んだ歌声が魅力の彼は、グループのメインボーカルとして活躍している。あと、シャロンって名前は芸名だ。顔立ちからして純日本人、本名は公開していない。
僕はシャロンくんが練習生だった頃からのファンだ。高三の頃、なかなか成績が伸びないことに苦しんでいた俺は、たまたま見た動画で歌っていたシャロンくんの歌声に心を奪われた。それが僕の初恋。
それを何年も引きずっているのは少し痛々しいかなと思うが、好きな気持ちはどう足掻いても消えなかった。
そうして、僕の生活の中心はシャロンくんになった。
今日も会社から出てすぐイヤホンを着けてLUMINAの曲を聞き、電車の吊り革を掴みながらSNSをチェックして、帰宅した頃には日付が変わりそうになっていた。
帰宅早々僕が行ったのは、部屋の中央にある祭壇へのご挨拶。神様とかが祀られてるんじゃなくて、祭壇の最上部にはシャロンくん(のアクスタ)が佇んでいる。シャロンくんのメンバーカラーであるホワイトで満たされたそれの目の前に正座して、頂上のシャロンくんを見つめる。
「シャロンくん…僕、今度あなたに会いに行けることになりました!」
いつもは心の中でその日あったこととかの報告をするのだが、今日はあまりの大事にハキハキと声を出して報告してしまった。
なんて言ったって、シャロンくんは絶対にファンとの直接交流をしないことで有名なのだ。それが二ヶ月前、突然握手会をすると知らされた。無理矢理やらされてるのかな?とか心配したりもしたが、僕はしっかりと応募の手続きをした。ファンとしては、この機会を逃すわけにはいかない。
握手会の日時は、一ヶ月後。今の僕の冴えない見た目でシャロンくんに相見えるなんてあってはらない。それまでにしなければならないことを頭の中でまとめて、僕はバタバタと家の中を走り回った。
◇◇◇
この一ヶ月、色々やった。美容室に行って、人生初のサロンにも行って、僕の準備は完璧。そして今日、ついに運命の日を迎えた。
直毛マッシュの髪の毛は頑張って巻いたし、慣れないメンズメイクも今日は出来がいい気がする。
そんな最高のコンディションで、僕はシャロンくんのいる部屋の扉の横に座っている。
そわそわと入室時間を待っていると、部屋からスタッフさんが出てきた。
「では準備が出来ましたので、入室していただきます。対面時間は二分です。時間になったらお知らせしますので、時間一杯お楽しみください」
ついに来た…! ドキドキと高鳴る鼓動の音が大きくなる。笑顔の奥に何故か哀れみが見えるスタッフさんに見送られ、僕はシャロンくんの待つ部屋に足を踏み入れた。
入室した途端、僕は別世界に来たのかと錯覚するほどの感覚を覚えた。
まず、扉を開けると甘いバニラ系の香りがした。目の前にいるシャロンくんは、綺麗なブロンドの髪をセンター分けにして緩くセットしているのが抜群にかっこいい。そのシャロンくんが、綺麗なアーモンド型の目を細めて笑顔で僕を見つめている。
「君が由羽希くんかな?こんにちは」
大好きな声と笑顔で話しかけられた感動からか、クラっと倒れそうになってしまう。するとシャロンくんが素早く僕のそばに来て、抱き留める形で支えてくれた。
「大丈夫かい?そこ座ろうか」
「は、はい!大丈夫です!座ります!」
シャロンくんが僕を見てる、心配してくれてる。そして触れている。全てが夢のようで、普段よりさらに挙動不審になる。
僕がちゃんと椅子に座るのを見て、シャロンくんも向かいの椅子に座った。
僕は彼に伝えたかったことを頭の引き出しから引っ張り出して、必死に伝えた。
シャロンくんは優しく頷きながら話を聞いてくれて、一秒経つごとに彼への大好きが募っていく。
「それで、えっと、本当に大好きなんです…!」
「ふふ、ありがとう。俺もゆうくんみたいな子に応援してもらえて嬉しいよ」
応援してる、なんて言葉じゃ足りないほど大好き。だからもうじき終わるこの時間が名残惜しくて仕方ないけど、伝えたいことを直接言えただけ僕は幸せ者だ。
「…はいっ!ずっとずっと応援してます!」
僕がそう言ったところで、ずっとふわふわしていた意識が急速に覚束なくなって、ここで寝るなんて駄目だと思いながらも、抗えない眠気に為す術なく沈んで行った。
◇◇◇
『___かよ』
『…うん』
『ついにやっちゃったねぇ…』
なにか聞こえる。くぐもった誰かの話し声。
(あれ、僕なんで寝てたんだっけ…)
寝起きの体は異常な程に重くて、起きようと思っても起きれない。
(そうだ、シャロンくんの握手会で…)
そう思い出した途端に焦った意識は覚醒して、上半身をバッと起こした。
見渡してみると、ここはベッドとクローゼットがあるだけの寝室みたいなところ。声の主は扉の向こうにいるらしい。
『お前こんなことやって、最悪通報されるぞ…』
『ゆうくんが嫌だって言ったら、すぐ帰す』
『どうだか…』
二人分の声には、聞きなれたものが一つあった。
「シャロンくん…?」
僕が声を発すると扉の向こうは一瞬音が消えて、次にバタバタと走ってくる音が聞こえた。
「ゆうくん、起きたんだね!」
ガチャッと扉が開く音と共に、ホッとしたような表情のシャロンくんが現れた。
僕は全くこの状況が理解出来ず、困惑を隠せないままシャロンくんに尋ねた。
「シャロンくん、ここは…?」
「あぁ、僕の家の寝室だよ。ゆうくん寝ちゃったから、会場には長々といられないし連れてきちゃった」
「…え!?!?」
ますます混乱した。僕はとんでもないところに来てしまったらしい。というか、いちファンを家に連れ込むなんて危機感が無さすぎるだろう。
「じょ、冗談ですよね?シャロンくんがこんなこと…」
「冗談じゃないよ?あぁ安心して、ゆうくんにしかこんなことしないから」
「いや、そういうことじゃないというか…」
僕が、ここにいるのが問題なのだ。リアコガチファンだぞ、なんて堂々と言えるわけないんだけど。
「あとね、ゆうくん。俺の名前教えてあげるから、本名で呼んでほしいな」
「しゃ、シャロンくんの本名…?」
「広哉っていうんだ、俺の名前。そう呼んでくれる?」
「ひ、広哉くん…」
「ふふ、ありがとう」
(いやなんか流れるように呼んでしまった…!)
起きてから得た情報全てが特級物すぎて、卒倒しそうだ。シャロンくんの顔と声が良すぎて、何だかんだ従ってしまうのも良くない。
「あ、あの!しゃ、広哉くんは、なんで僕をここに?」
これが最も聞きたいことだ。僕をさらっても身代金などは期待できないし、正直何のために連れてこられたのか検討もつかない。
「ゆうくんのことが、好きだからだよ」
ふふ、と幸せそうに笑いながら広哉くんが言った。
(スキ?)
空き、透き、すき…好き?
文脈に合う『すき』を探してみると、行き着くのは好意のそれ。困惑とか疑念とか色んな感情が僕を襲ったけど、一番大きかったのは疑問だった。
「え、な、なんで?」
「なんで、か。えっとね、俺ずぅっとゆうくんのこと見てたんだ…ライブに来てくれたときも、配信に来てくれたときも。毎度毎度本当に可愛くて…好きだなぁって思った」
見られてたのか…見られてたのか???
驚きすぎて、思考の世界で二度も同じことを繰り返してしまった。
「デビューライブのとき、俺個人のファンってそんなにいなかったでしょ。これから推そうって思って貰えるように頑張ろうって思って挑んでたんだ。そしたらさ、たった一人俺の方を真っ直ぐ見つめながら、涙を流してるゆうくんがいて…それがあまりに綺麗で、衝撃だった」
そうだった。LUMINAは、もともと有名なグループで活動してたメンバーがいたおかげで、デビュー前から注目が大きかった。その人気に事務所も張り切っていて、デビュー記念のライブがあったんだ。
当然ながら、当時のファンはその人気メンバー推しの子ばかりだったけど、僕はシャロンくんに会いたい一心でライブのチケットをもぎ取った。
そしてそのライブで、僕は初めて生のシャロンくんを見た。感動して大泣きしてしまって、横のお姉さんに引かれてたっけ。
まさかシャロンくんがそれを見て、僕のことを覚えていてくれたなんて。僕がシャロンくんを好きだった期間のほとんどが、片思いじゃなくて両思いだったらしい。
でも、それとこれとは別だ。
「シャロンくんは、アイドルで…僕はファンです。こんな風に特別扱いしてもらうなんてだめだよ…」
本当はすっごく嬉しい。嬉しいけど、大好きだからこそダメだ。僕とおなじような気持ちのファンが沢山いるのを知ってるから。
「じゃあ俺アイドルやめる」
「…え?」
「好き同士なのにアイドルだからダメなんでしょ?じゃあアイドル辞めるから、ずっとここにいてほしい」
何を言ってるんだこの人。アイドルを、シャロンくんを辞める?
「ぼ、僕は、そんなの嬉しくない…!」
「じゃあどうすればいい?やっとゆうくんに会えたのに、これでさよならなんて嫌だ」
「そ、れは…」
「お願いゆうくん…俺のこと受け入れて?」
切実さの滲む瞳で見つめられる。
(広哉くん、そんなに僕のこと…)
どうすれば、なんてそんなの分からない。
僕はアイドルのシャロンくんが好きで、でも今目の前にいる広哉くんも愛しいと思ってしまっている。
それで広哉くんを受け入れるのは簡単だけど、僕の存在は今後必ずシャロンくんの足枷になるだろう。ファンとしてそれは許せない。
アイドルじゃない貴方を目の前にして、僕はどうするのが正しいのだろう。
考えて考えて、口を開いた。
「僕は_______」
◇◇◇
洗面台で顔を洗って、鏡の中の自分を見つめる。
残った水が顔を冷やして寒いのに、そこから動くことなく静かに自分と見つめ合った。
(結局、帰ってきちゃったな…)
『僕は…アイドルのシャロンくんが好きです』
それは数時間前の僕の言葉。
ドクドクと嫌な鼓動を感じながら、僕はできる限り真っ直ぐシャロンくんの目を見てそう言った。
シャロンくんはすごく悲しそうな顔をして
『そっか』
そう、一言だけ告げた。
(僕が…僕があんな顔させたんだ)
悲しくて仕方なかったけど、他にどうすればいいのか分からなくて。
シャロンくんが帰りに用意してくれた車に乗って、運転してくれるマネージャーさんの目も憚らずに泣いた。
ぼろぼろ流れてくる涙を必死に拭いながら、マネージャーさんに『やっぱり戻ってください』って言おうかなとかいうことも考えた。
こんなに大好きなのに、って。
でも何度考えても最後には同じ答えに行き着くから、僕にはこれが正しかったんだと思う。
これからは、ライブに行くのも手紙書くのもやめよう。家でひっそり眺めるだけにして、シャロンくんが僕のことなんてすぐ忘れられるように。
寂しいと叫ぶ心を無理やり押し潰して、赤く腫れた目を痛いくらいにタオルで擦った。
そうしてずっと眺めていた鏡をしまって、逃げるように洗面台を離れた。
◇◇◇
あれから数日。
シャロンくんがあんなに近くにいたのが夢だったんじゃないかってくらい、僕の生活はいつも通りだった。
朝早く起きて出勤して、遅くまで仕事をして家に帰る。変わったことといえば、毎日の祭壇への挨拶をしなくなったことだけ。
今日あったことをシャロンくんに報告していると、あのときシャロンくんと居る決断をしていたら『今日も頑張ったね』とか言って貰えたのかな、とか考えてしまうからだ。我ながら女々しい。
今日はあの当選発表の日と同じように、僕が一番最後までオフィスに残っていた。
あの日とは違って嬉しいことは一つもなく、重い体を引きずってのそのそと歩いていたときだった。
「あ!そこの君!由羽希くんだよね?」
「え?」
突然名前を呼ばれて、声の方を見た。するとサングラスにマスクというとても怪しい格好の人が、車の窓からこちらに手を振っていた。
(なんだこの人怪しすぎるだろ…ん?あれ、でもそういえばこの声どこかで…)
警戒心とうっすらとした既視感(既聞感?)の間で揺れる。
その間に車はスルリと車線をはずれて、歩道の脇に停車した。交通量も歩行者数もなかなかに多い場所だったから、警戒しつつ車に近づいてみる。
「んん…?え、あ!もしかしてハルくん!?」
「あは、せいかーい!さすがシャロンのファンだね」
ハルくんはシャロンくんの所属するLUMINAのリーダーだ。こんなところで自分に声をかける人がまさかそんな有名人だとは思わず、すぐ気づけなかった。
しかしこんな大通りで目立つ行動をしてしまったら、気づく人もいるのでは?
キョロキョロと周りを見渡してみると、案の定視線が集まりつつあって、僕は急いで車に駆け寄った。
「何してるんですかこんなとこで…!!てかなんで僕の名前を?」
「シャロンから聞いたよ。てかそんなのいいから、とりあえず乗って!」
「乗…?」
「はやくはやく!!」
焦りに焦った僕は、言われるがままに乗車。そして車はまたスルリと車線に戻って走り出してしまった。
「え、これどこ行ってるんですか!?僕もう何が何だか…!」
パニック状態で柄にもなく大声で叫んだ。するとそんな僕を宥めるように、運転手が声をかけてくれた。
「由羽希くん、落ち着いてください。この車は今うちの事務所御用達のお店に向かってます」
「あ、マネージャーさん…!」
握手会の日も僕を家まで送ってくれたマネージャーさんだった。僕を連れ込んだ犯人であるハルくんは何を考えているのか、ただ楽しそうに笑っている。
「由羽希くんはリアクションが面白いねぇ。シャロンはこういうとこが好きなのかな?」
「ハル、貴方はもう少しちゃんと説明しなさい。あれではほぼ誘拐ですよ」
「シャロンがしたことの方が立派な誘拐でしょーよ」
ハルくんとマネージャーさんの会話を眺めるように聞き、最後にハルくんが言った言葉にドキリとした。
「それとこれとは別ですよ」
「はいはい、ちゃんと説明するから!…由羽希くん、今日一緒に来てもらったのは他でもない、シャロンの話なんだけど」
畏まったハルくんが隣に座った僕の方を向いて話しかけた。
金輪際近づくな、とか?それとももう推すのもやめて欲しい、とかかな…
そんなことを考えてビクビクとしていると、ハルくんが急に頭を下げた。
「もう一度だけ、あいつにチャンスをやってくれないか」
「…え?」
考えていたどれとも違う言葉に、思考が止まった。
僕が固まっていると、マネージャーさんが呆れたようにため息を吐いてハルくんを咎める。
「はぁ…それは説明じゃなくて本題じゃないですか。ちょうど目的のお店に着いたので、それ以上は中で話しましょう」
促されるままに車を降りる。
ハルくんはマネージャーさんの言葉に不満を垂れて、僕はさっきの言葉の衝撃が抜けきらなくて、対照的な態度でお店に入った。
マネージャーさんが店員さんと二、三言交わして、個室に通される。
個室はなんだか敷居の高そうな庭付きの和室で、ドラマでよく見る赤茶の足の低い机に、ふかふかそうな座布団が置いてある。
僕の目の前に机を挟んでハルくんとマネージャーさん、という形で向かい合って座った。
僕はすぐさまさっきの言葉の意味を聞こうとしたけど、ハルくんはまずはご飯食べよう、と言ってスラスラと注文を済ませてしまった。
料理がくるまでも彼は別の話に花を咲かせてしまって、やっと話を切り出せたときには食事が終わっていた。
「あの…車で仰った事、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。もう一度だけ、シャロンとのことを考えてやって欲しいんだ」
「それって…」
メンバーも事務所も公認ということか。なんで僕なんかにそんな…
「シャロンな、メンバーに由羽希君の話するのが好きなんだ」
「え?」
「ははっ、びっくりしただろ?デビューからずっとなんだよ。俺の天使だー、って」
(て、天使…!?)
ぐわっと顔が赤くなる。シャロンくんからそんな風に言われていて、それをメンバーに知られてるなんて。二重で恥ずかしい思いをして、顔を伏せた。
「だからさ、俺らからしたら由羽希くんはファンっていうより、シャロンの好きな子って認識が強くて…由羽希くんがファンとしてどう思うか、この間は配慮しきれてなかった。申し訳ない」
そう言ってハルくんは頭を下げた。
「そんな、謝らないでください…!」
「いいえ由羽希くん。私たちにも責任はあるんです。握手会のこともその後のことも、少々シャロンの独断な部分もありましたが、私たちがそれに加担した結果、あなたを泣かせてしまいました。」
本当にすみません、と言って二人はもう一度頭を下げた。
激レアなはずのチケットが当たって、念願の握手会中に何故か眠くなって、家に連れて行かれた。色々おかしいなと思っていたし、告白された時点でおおよその見当はついていた。
今の話を聞くと、シャロンくんの家で起きたときの話し声も二人だったのかもしれない。
「僕、全然怒ってないし悲しんでもないです…!僕が泣いたのは、自分がそういう決断をしたせいで…シャロンくんに会わせて貰えたことを後悔なんてしてません」
「…本当に、聞いていた通りの子だね」
顔を上げたハルくんは、すごく優しい顔をしてそう言った。
「聞いていた…?」
「シャロンからね。君との話は何度も聞かされてる」
「…なんかすみません」
「ははは!なんで由羽希くんが謝るんだよ。いいんだ、君の話をするときのシャロン、すげぇ楽しそうだから」
楽しそう、か。初めて目の前に立ったときのシャロンくんの笑顔を思い出す。
何度思い出しても胸が苦しくなって、泣きそうな気持ちになる。
「仕事はうまくやってるようですが、最近はずっと空元気なんです。今のシャロンには、自分が自分でいられる瞬間がない」
「いつもはやく由羽希くんに会いたいって言ってたんだ。仕事柄それが叶うまでこんなにかかってしまったけど、長い間ずっと君が広哉の原動力だったんだよ」
だからどうか考えて欲しい、そう言われて僕は何も言えなくて。
僕はずっと、好きだから一緒にいたい気持ちとシャロンくんの重荷になりたくない気持ちを天秤にかけて、後者が重いと思ったから然るべき行動をしたつもりでいた。
でも本当に考えるべきだったのは、シャロンくんの、広哉くんの気持ちだったのかもしれない。
やっぱり僕は、広哉くんのことを考えると恋しくて泣きたい気持ちになる。きっとそれは広哉くんも同じ。
「僕、ほんとは広哉くんに会いたいんです。会っても、いいのかなぁ…?」
僕が震える声でそう告げると、二人は顔を見合せて笑った。
「よし、じゃあ今から行こっか!」
「…え、今から?」
こんなくたびれた姿で行けませんと焦る僕だったが、二人に背中を押されながら店を出て、車に乗ってしまった。
無慈悲に走り出す車の中で、僕は諦めのあとに芽生えた僅かな期待を胸に、流れゆく景色を眺めたのだった。
◇◇◇
前回来た時は眠っていて、帰りも振り返れなくてちゃんと見れなかった扉。
僕は広哉くんの住む部屋の前まで来ていた。
「じゃあ俺たちはここまで。車の中にいるから、なんかあったらおいで」
「は、はい!ありがとうございました…!」
ここまで連れてきてくれたお二人に頭を下げる。去っていくその背中を見届けたあと、僕はもう一度扉に向き合って、チャイムを鳴らした。
中からわずかに電子音が聞こえて、パタパタと人が歩く音が近づいてくる。
やがて、鍵を開ける音がしたあと扉が動いた。
「はーい、って…ゆうくん…?」
「こ、こんばんは…」
なんで、と呟く広哉くんの表情は驚きで染まっていた。
怒ってるかも、もう僕のことなんて好きじゃないかも…とか色々なことを考えてしまって、言葉が出ない。二人の間を静寂が流れる。
「げ、幻覚…?」
「へ?ち、違いますよ?!本物です!」
頬をつねりながら言う広哉くんの言葉を慌てて否定し、その綺麗な肌を傷つけるのを止めた。
「じゃあ戻ってきてくれたの?」
「…はい。少しお話させてくれますか?」
「う、うん!上がって」
ちゃんと話さなきゃ。これから一緒にいるために、僕がしてきた覚悟を。
そう考えながら家に入った僕を見ている広哉くんの目がどんな色をしていたか、この時の僕には気づくことが出来なかった。
◇◇◇
ソファに座らせてもらった僕は、隣に座る広哉くんに早速切りだした。
「僕、この数日間たくさん考えたんです」
「…なにを?」
「あれでよかったのかなって。何度考えても、広哉くんと一緒にいるという決断は出来なかった」
「そっか…」
広哉くんが俯いたのが分かった。僕はそのまま続ける。
「でも今日、ハルくんが僕のとこに来たんです。僕、一番大事な広哉くんの気持ち考えてなかったって気付きました」
広哉くんは黙ってそれを聞いていた。やっぱりもう遅かったかな、と思って少し涙が滲む。
「本当は、広哉くんと一緒にいたいっ…大好きなんです」
「俺も好きだ…!」
泣きながら情けない告白をした僕を、広哉くんはぎゅっと抱きしめてくれた。
「苦しかった…やっと会えたのにって。戻ってきてくれて嬉しい」
「振り回して、ごめんなさい」
「いいんだ、帰ってきてくれたから…もう離せないけどいいよね?」
「うん、離さないでください…」
すごく恥ずかしいセリフ。でも本当にそう思ったから、仕方ない。
くっついちゃいそうなほど強く抱き締めあって、広哉くんの匂いや温かさを感じる。
長く長く抱きしめあった後は、熱い瞳と目が合って頬を撫でられた。
(あ、これ…)
見たことある。雑誌で見たやつだ。an○nか何かにシャロンくんの記事が載るからって買ったやつ。
たしか…キスの、話をしてた。
(僕、キスするんだ…)
近づいてくる顔がかっこよすぎて、思考が蕩ける。
やがて唇に柔らかいものが触れて、ふにふにと食まれた。僕は広哉くんの唇に全てを任せて、されるがままになる。
(なんか、慣れてる)
そう思うとなんだか悔しくなった。
そういえば、さっき思い出した雑誌。僕が見たということは、みんなあの色っぽいシャロンくんを知ってるんだ。
僕は幸せなはずのキスの中で、モヤモヤしたものを感じた。
「…ゆうくん、なんで怒ってるの?」
「…怒ってません」
「うそ、眉間にシワよってる。嫌だった?」
「ちがっ!…なんか、慣れてるから」
嫌だったなんて勘違いされたくなくて正直に言うと、広哉くんは一瞬ぽかんとして、すごく嬉しそうに笑った。
「やきもち?」
「…そうです」
「あ~なんでそんな可愛いの」
僅かな反抗心でそっぽを向いたのに、広哉くんは嬉しそうに僕を膝に乗せて、可愛いと言った。
もう可愛いなんて言われる年齢ではないのに。
顔中に何度もキスを落とされて、モヤモヤしていたのが馬鹿らしくなってくる。
「大丈夫、ちゃんと俺も初めてだから」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
すごく嬉しくて、今度は自分からキスしてみた。
すると広哉くんは、突然僕を抱えて立ち上がった。
「もう無理、かわいすぎ」
「え、え?」
「煽ったのゆうくんだからね?」
スタスタと歩き出した広哉くんは、廊下の一番奥の部屋の扉を開けた。
「あ、ここ…」
初めてここに来た日に寝てた場所だ。部屋中広哉くんの匂いがする。
「今日からここがゆうくんの部屋だよ。というか、俺らの部屋」
「え?!」
僕は優しくベッドに降ろされて、その衝撃発言に驚いた。
「ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
すり、と僕の頬を撫でるが熱い。
またあの目だ。
僕はこくりと頷いた。
「ふふ、良かった。たくさん愛し合おうね…?」
「は、はぃ…」
思考が蕩ける感覚が気持ちいい。全部広哉くんに預けたくなる、この感覚。
さっきより深いキスをして、唇から溶け合いそうな熱を共有する。僕は広哉くんの首に手を回して、もっとしたいと訴えた。
「ゆうくん…可愛い」
「ん、ふぁ…」
必死に舌を絡めているせいで声が漏れる。息が苦しくなって、広哉くんの背中を叩いた。
すると唇が離れて、広哉くんの手が服の裾から入ってきた。
「え!?そ、そこは」
「んー?ふふ、たくさんシようね?」
「え、ちょっ、ぁっ」
そこまでの心構えは出来てない!
確かにえっちな雰囲気だとは思ってたけど…!
慌てる僕を見つめる瞳には、ほの暗い色が浮かんでいて。
僕が受け入れると決めた人は、とんでもない人だと悟った。
「ゆうくん、大好きだよ…♡」




