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第2話 昔に読んだ時と、今また読む時と、別物に感じる作品がある


久しぶりに読んだ『ガラスの仮面』は、今の自分に気付きを与えてくれた。


作家は、脚本家であり、女優、俳優でもあるのだと。


物語を創って書いて、作品の中には自分の創った役がある。


それを一人で演じなければ、ならない。

千の仮面どころではない。

生涯書き続けるというならば、どれほどの仮面が必要になるだろう。


一人のキャラは、一人の女優だ。又は、俳優だ。


 書籍を売り出す作家でない限り、誰かのフォローは入らない。

 舞台にあがるのは自分しかいない。

 たとえ大失敗しても、演じるのは、作者だけだ。同じ出演者に助けては貰えない。 


 自分一人で何役も、こなさなければならない。代役は、いないのだ。

 キャラの気持ちを創る、キャラの行動を創る。

 役を創らなければならない。


 そして、その役になりきらなくては、ならない。

 喋る熊を書いている時は、自分は熊で、熊の役を演じている。

 最高の熊を演じなければ、誰にも見て貰えない。

 それだけではない、自分で自分が嫌になる。


 熊と海賊が、同じページにいるならば、自分は熊で、海賊だ。

 猿が加われば、猿役も同時に演じる。


 いや、同じページにいなくとも、役を創った時点で、その全ての役が、仮面を被った自分である。

 同じ声は使えない。同じ表情は見せられない。同じ動きはできない。

 同一人物でない限り、一冊の中に、千の役がある。

 それを、たった一人で、こなす為に、言葉があるのだ。

 ペンを持って、またはキーボードを叩いて、役を演じている。 

 


 脚本家は、女優、俳優に託す為のシナリオを書いている。

 売れる作家は、読者に評価される為に書いている。

 書きたいものを書けない作家もいるかもしれないが、売り物にするには、読者あっての本だから仕方ないとは思う。


 書籍化されて、一旦、市場に出回ると、売る売れるというのが主体になるのだろう。

 カクヨムと小説家になろうに登録する前、ネットの漫画サイトで、無料分の中にカクヨム、又は小説家になろうから出版したのを見つける事が多々あった。

 それがきっかけで、面白そうと思って原作を読んだ時、正直びっくりした作品も幾つかあった。


 (あれっ?漫画が、原作と違う?全く忠実じゃないように思えるけど、気のせいかな?)

 というふうに首を傾げてしまう事が何度かあった。


 好きな事を好きなように書ける作家と脚本家が、どのくらいいるのか知らないが、売れるストーリーやシナリオを書くのは大変な苦労だと、それだけは分かる。

 その点は、漫画家も同じかもしれない。

 大学の頃、ある人に、こう言われた事がある。


「作家になりたい気持ちは分かるけど、売れなければ大変よ。私の友人に作家がいて、売れなくなった子がいるの。官能小説を書くか、漫画の原作を書くか、どちらかに決めるように言われて、漫画の原作を選んだのよ。でも、苦労してる。売れなければ、そういうふうになるの。作家は、大変よ」と。


 書き続けるより、売れ続ける方が、よほど難しいのだろう。

 カクヨムでも、小説家になろうでも、自由に書ける無料の場所があるのは有難い話だ。

 誰かに読んで貰えて、評価まで貰えるというのだから有難いシステムだが、どんな時も一番大事なのは、自分の心にあると思う。


 漫画好きだからこそ思うのだが、しょっちゅう自分が恥ずかしくなる。

 漫画は、小説の一ページより短い。

 それなのに、たった一ページ捲っただけで面白いのだ。

 小説の一ページより遥かに少ないのに、読み手を惹きつける。


 それに比べて、自分の作品はどうだろう……書いていて、たまらなく恥ずかしくなる事がある。

 もう、書くのを止めようと思う事もあるが、結局は、書く事と向き合ってしまう。

 休みの日などは一日中、椅子に座ってパソコンを打ち続けられるほど書くのが好きだ。

 日常生活に支障をきたさないように、今日やる事リストを横に置いていないと、食事すら忘れてしまう。


 けれど、書いても書いても、読み直した時、納得がいかない。そんな時が多い。


 一旦、カクヨムで打ったら、それをワードに移して印刷する。

 紙の文字を読んで、最終チェック編集修正をしたら、カクヨムの分を直して、これで良し!と思って投稿する。

 その後、コピペした分を小説家になろうに貼り付けて、プレビューでチェックして、これで良し!と自信を持って投稿する。それで、少しして読み直した時、自分の下手さに落ち込むのだ。


 演じる言葉は、ペン、又は、キーボードから生まれる。

 いや、演技は、心で生まれている。

 『ガラスの仮面』を読んで思った。

 自分で創った役を演じきれていないのだと気付いた。


 十代の頃に読んだ時は、主人公マヤの事を、(変な子、何か怖い、普通ここまで熱中する?)と気味悪く思ったが、今読んでみると、マヤの気持ちが良く分かる。

(自分、一緒やん。普通ちゃうわ)と。自分に呆れたが、仕方ない。


 書くのが好きなのだから、最高の役を演じられるように書き続けようと思った。

 マヤと似ているが、明確に違うのは、「創る・書く」という役こそが、作者の主体である。


 チューリップ姫を創ったら、(私は、チューリップ姫よ)となりきらなければ、舞台は始まらない。

 ひまわり王子を創ったら、(僕は、ひまわり王子だ)と思えなければ、舞台は進まない。


 下手だからといって、落ち込む暇はない。

 演じる役者がいなければ、舞台の幕が上がらないのだから。


 自分が創り出した舞台で、千の役を一人で演じる。それが作家だ。

『ガラスの仮面』を読んで気付かされた事である。

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