先の女王コーネリア・イング・リッシュアンの困惑~わたくしは王宮警備騎士団長の婚約者のロッタ嬢ではなくてよ?~
「あーら、ごめんあそばせ」
侯爵令嬢マルティナ・クヨク・フシンが、空のワイングラスを片手に笑っていた。
先の女王であるコーネリア・イング・リッシュアンは、平凡な茶色の瞳をまん丸にして、血のように濃いワイン色に染まったドレスを見つめた。
国王主催の舞踏会が行われている王都郊外の離宮、ジワイラクノ宮殿の大広間の一角が、妙にしんと静まり返った。
国王が「後は自由に楽しむがよい」と言い残して王宮に帰っていった途端に、マルティナがこの驚くべき暴挙に出たのだ。
コーネリアは前の王であるフォルケ王の妹の娘だった。
フォルケ王が流行り病により崩御したのに伴い、フォルケ王の遺言に従ってたった五歳で即位した。
フォルケ王は王太子時代に各地を巡った時、湖畔地方のヴィーワの村でラウラという美しい娘と恋に落ちた。
後宮が女の嫉妬や陰謀にまみれた場所であることをよく知っていたフォルケ王は、ラウラを王宮に連れ帰ることはなかった。
フォルケ王の後宮の女たちは、他の女に子ができると、我先にと競い合って腹の赤子を殺していっていた。
フォルケ王の後宮とは名ばかりの、質の悪い女人ばかりの魔窟。
フォルケ王が田舎の素朴なやさしい美女を、そんなところに入れたくなかったのも当然だろう。
ラウラはヴィーワの村で、フォルケ王の男児であるベルティル・ベ・ファーレンを産んだ。フォルケ王はヴィーワの村にこっそり教育係を何人も送り、ベルティルを国政を担うに足る者として育て上げた。
コーネリアはベルティルが王宮入りするまでの半年間、ただの繋ぎとして女王を務めた。
この時、王妹であるコーネリアの母が権力を握ろうとしていると勘違いした、フォルケ王の後宮の女たちと、彼女たちの後ろ盾となっている者たちが、コーネリアの母を毒殺した。
この国は誠にどうしようもない者たちであふれていた。
「あら、どうかなさって?」
いかにも貴族然とした金髪碧眼のマルティナは、勝ち誇ったように目を細め、口元を高価な扇で隠した。
このマルティナもまた、この国のどうしようもない者たちの一人だった。
十四歳となったコーネリアは、自分のドレスを見下ろした。お忍びで城下町に行った時、古着屋で見つけたクヌート王時代のドレスだった。非常に状態が良いのに捨て値で売られていたので、大喜びで購入したのだ。
「その古臭いドレスが少しはマシになったのではなくて?」
たしかにコーネリアのドレスは古い。百五十年前の品だ。
(こんなことになるなら、スティグとカールの言葉に従って、王室美術館に収蔵しておけばよかったわ)
コーネリアは忠実だが口うるさい護衛騎士たちの整った顔を思い出していた。
「どういうつもりですか、マルティナ嬢」
コーネリアの隣に立っていたトマス・ラン・デホトが、コーネリアを守るように一歩前に出た。
トマスは子爵家の五男で、家を継げないため騎士団に入り、ただ一筋に好きな武芸に打ち込んできた男だった。
先日、王宮警備騎士団長に昇進したトマスは、『華やかなロッタ』と婚約したばかりだった。
コーネリアはトマスを見習い騎士の頃から知っていた。
コーネリアがトマスを見つけて昇進と婚約のお祝いを言ったら、トマスによる一人のろけ話大会が始まってしまい、どうしようかと思っていたところに、マルティナが来たのだ。
「デホト騎士団長、そんな平民の出の娘を庇うのですか?」
まさかマルティナは、コーネリアをロッタと勘違いしている上に、ロッタのことを平民の出だと思っているのだろうか。
ロッタは由緒正しいこの国の貴族の出だった。王宮で花の研究をしているオーロフ・ルジ・アンヘア男爵の娘であり、何代も前から学者を多く輩出してきたアンヘア一族の者だ。
そのロッタは急な腹痛により、この舞踏会に参加していなかった。
「平民の出……?」
平民に多い平凡な茶色の髪と瞳のコーネリアは、ワインで汚れたクヌート王時代のドレスを握りしめた。
(たしかに捨て値の金貨百枚だったけれど、平民に金貨百枚は出せなくてよ)
まともな衣裳店のオールドドレス用ショーケースに入れられていたならば、金貨五百枚はするドレスだった。
コーネリアが給仕に扮しているスティグとカールを素早く見てみると、ドレスの歴史的価値を知る二人は、今にも吐きそうな顔色をしていた。
「ロッタ嬢、お詫びしますわ」
マルティナは侍女から渡された金貨一枚をコーネリアにさし出した。
「ロッタ……」
トマスが婚約者の名を呼んだ。
コーネリアがトマスに目をやると、トマスは顔色をなくしていた。
自分の婚約者と間違われた先の女王がワインをかけられた、と把握したのだろう。
「大丈夫ですわ」
コーネリアは、ロッタの身を案じているだろうトマスに笑いかけた。
(悪いのはすべてマルティナであり、罪がロッタに及ぶことはないわ)
コーネリアの意図が伝わったのだろう、トマスはコーネリアにぎこちなく笑い返した。
「ちょっと、ロッタ嬢! まさかその貧相なドレスが、金貨一枚では足りないとでも!?」
マルティナはコーネリアに金貨を投げつけ、金貨はドレスを汚しているワインに当たって床を転がっていった。
「お金持ちの家のロッタ嬢は、金貨などご不要だったかしら!?」
「お金持ち……?」
アンヘア一族がお金持ちというのが、コーネリアにはまったくピンとこなかった。
アンヘア男爵も王宮の研究者だから、国からそれなりの金銭が支払われているだろう。だが、コーネリアには、あの欲のないアンヘア男爵が、お金持ちなどと言われるほどの金額を持っているとは思えなかった。
「どういう意味ですか、マルティナ嬢」
トマスが金貨を拾ってきた。トマスも騎士団長になるほどの男だ。マルティナがしたことの証の品をきちんと確保していた。
「ロッタ嬢のアンヘア男爵家では、男爵位を買ったらお金が尽きて、そんな貧相なドレスしか買えなかったようですわよ?」
マルティナは畳んだ扇の先で、コーネリアのドレスを指し示した。
「そのような侮辱は許しがたい!」
トマスは声を荒げた。
マルティナによる侮辱とはなんだろうか。
『ロッタが平民の出で、実家が男爵位を買った』と勘違いしていることだろうか。
クヌート王時代のシンプルで落ち着いた上品なドレスを、貧相などと貶していることか。
コーネリアに金貨を投げつけたことか。
コーネリアをロッタと勘違いしていることか。
たくさんありすぎて、コーネリアにはどれのことかわからなかった。
「元は花屋だったと聞きましたわよ」
どうやらマルティナは、侮辱とは『男爵位を買ったらお金が尽きたこと』と理解したようだった。
「花屋ですって……?」
アンヘア男爵は花の研究者だが、花屋だったことは一度もない。
どうやら『華やかなロッタ』を『花屋のロッタ』と間違えているようだった。
花に詳しく、手先の器用なロッタは、新しい髪の結い方を次々と考案していることから、『華やかなロッタ』と呼ばれていた。
トマスとロッタの出会いも、この髪を結うことがきっかけだった。
ロッタが娼館に頼まれて娼婦たちの髪を結いに行った帰りに、別な娼館の者に連れ去られそうになったところをトマスが助けたのだ。
「今はもう男爵令嬢だと言いたいの?」
「いえ……」
ロッタならば、今も昔もずっと男爵令嬢だった。
(このマルティナ嬢も、王立学院でお見かけしたことがあるから、頭は良いはずなのに……。なにもかも間違えている……)
コーネリアはマルティナの情報収集能力の低さに困惑していた。
マルティナの言っていることは、すべてにおいて『近いけどなんか違う』だった。
「そうよねぇ、金で買った爵位で貴族を気取るだなんて、恥知らずも良いところですわ」
トマスは先祖がホーコン王時代に男爵位を購入した。
ホーコン王は武芸に優れ、港町ゴランドの民がイカの化け物であるクラーケンに苦しめられていることを知ると、自ら討伐に向かった。
そのホーコン王によるクラーケン討伐に参加した当時のデホト男爵は、一番にクラーケンに斬りつけた功によりホーコン王から子爵位を賜った。
それから百年たつが、デホト家はホーコン王から賜った子爵位を戴き、それ以上の爵位を求めない忠義と高潔さで知られていた。
「そうかも……知れませんね……」
トマスは激しく震えていた。
コーネリアはトマスに近寄り、そっと腕に触れた。
「トマス……」
コーネリアはトマスとは長い付き合いだった。
デホト家のこの歴史こそが、トマスの誇りだった。民のために戦おうとするホーコン王の下に、男爵位を購入してまで馳せ参じたことを含めて。
――ガシャン!
ガラスの割れる音がした。
割れたワイングラスを持ったマルティナもまた、激しく震えていた。
「トマス様、そんな卑しい女のどこがいいの!?」
コーネリアは慌てて左右を見た。卑しい女とは誰なのか、一瞬わからなかったのだ。
トマスもまた、まわりを見まわしていた。
この騒動を見物していた人々は、そんな二人の奇妙な動きを不思議そうに見ていた。
「それは……、わたくしのこと……、ですわよね?」
コーネリアは念のため、マルティナに確認した。
王族を侮辱したとなると、生き残ることが危うい重罪である。
「あなたよ! 他に誰がいるというの!?」
「それは間違いありませんか?」
「はぁ!? 間違ってなんかないわよ! トマス様と婚約しているからって調子にのらないで! さっきからトマス様と見つめあったり、名前を呼びあったり! 好きあっているとでも言いたいの!?」
コーネリアはトマスを見上げた。トマスはふらついて、今にも倒れそうな有様になっていた。
「あの……俺……、俺は……」
「トマス、大丈夫ですわ」
トマスはコーネリアの言葉に小さくうなずいた。
マルティナの巻き添えになって罪に問われることはない、ということが伝わったのだろう。
「健気なふりをしてトマス様の気を引こうとしないで!」
マルティナは侍女に扇を渡し、割れたワイングラスをかまえると、コーネリアに向かって突っ込んできた。
マルティナのふるまいは、もはや完全に貴族の令嬢から逸脱していた。
トマスが大きな手でマルティナの頬を平手打ちし、マルティナは絨毯に倒れこんだ。
「マルティナ嬢、そこまでです」
コーネリアが片手を上げると、スティグとカールがマルティナの両腕をつかんで立たせた。
「な……ん……れ……!?」
マルティナは両目から大量の涙を流しつつ、スティグとカールを見た。
先の女王に常に付き従ってきた、二人の麗しの護衛騎士は、今はただの給仕の姿をしていた。
コーネリアはトマスと共に、マルティナに近寄った。
「マルティナ嬢、この方はロッタ嬢ではない」
トマスはマルティナに小声で教えた。
「ら……れ……?」
マルティナは歯でも折れたのか、叩かれて動揺しているからか、激しく唇を震わせていた。
「先の女王コーネリア・イング・リッシュアン陛下であられる!」
「みなの者、控えよ!」
スティグとカールが叫ぶと、大広間にいる貴族たちが、コーネリアに向かってひざまずいた。
「う……そ……」
「本当よ。ああ、困ったわ。クヌート王時代のドレスが台無し」
コーネリアはマルティナに向かって、ワイン色に染まったドレスのスカートをつまんで見せた。
「申し訳ありません、コーネリア陛下」
トマスは絞り出すように言ってから、マルティナを叩いた自分の手を見た。おそらく、騎士として、女性を叩いたことを悔いているのだろう。
「トマス、助かりましたよ」
コーネリアが声をかけると、トマスもまたコーネリアに向かってひざまずいた。
「我が忠誠は、国王陛下と先の女王陛下のもの」
トマスは首を垂れた。
「らっ……て……、ロ……ッタ。茶色……髪……瞳……」
「わたくしと同じね」
コーネリアは華やかにほほ笑んだ。
マルティナの目が大きく見開かれた。
たった半年間だけ女王の座についていた、当時五歳の女の子。
平凡な色彩に彩られた彼女の成長した姿は、ほとんど知られていなかった。
「こんな勘違いによる侮辱と、そんな武器とも言えないもので襲われた程度では、死罪は重過ぎるわね」
マルティナの呼吸が激しくなった。激しすぎて、まともに息が吸えていないように見えた。
もはやマルティナには、コーネリアに向かって、許しを乞うことすらできそうになかった。
この大広間のどこかには、マルティナの両親もいるはずだったが、マルティナのために許しを乞いに出てくることはなかった。
フシン侯爵夫妻はコーネリアの不興を買う可能性がある中で、なんとかこの愚かな娘を助けようとすることよりも、他の子供たちを守るために静観することを選んだようだった。
「あなたは服を汚してしまったわね」
マルティナはなにを思ったのか、喉の奥から「ヒィー……!」という情けない声を出した。
「わたくしの先代、フォルケ王の後宮の皆様が、洗濯女がいなくて困っているそうなの。あなたの侯爵令嬢としての身分を剥奪し、平民とします。山岳地方リヤマセトにある『尊き女のための修道院』にて、一生を洗濯女として過ごすことを命じます」
コーネリアが告げると、スティグとカールが『うわぁ……』みたいな顔をした。
「殺すよりひどい……」
「この世の地獄に送るのか……」
スティグとカールがつぶやくと、マルティナは「うぁ……あぁ……っ!」とかすれた声で絶叫した。
大きく開かれたマルティナの口からは、血の混じった唾液がダラダラと垂れていた。叩かれた時に舌かどこかを切ったのだろう。
マルティナは本物の血と唾液でドレスを汚しながら気を失った。
「皆の者、騒がせたわね。楽にしてちょうだい。わたくしたちはこれで失礼するわ」
コーネリアはひざまずいている者たちに告げると、スティグとカールに抱えられたマルティナを連れて大広間を後にした。
その場にいた者たちは、ずっとロッタだと思っていた平凡な茶色の髪と瞳を持つ美しい娘の姿を、必死で思い出そうとした。
だが、金髪碧眼の美しい令嬢が、割れたワイングラスで他の令嬢に襲いかかったり、口から血を流しながら気を失う姿は、あまりにも衝撃的すぎた。
彼らは誰一人として、先の女王コーネリア・イング・リッシュアンの姿を、まともに思い出すことができなかった。