3. 暖かい場所
「さあ、こっちですよ」
王の命令で玉座の間に入ってきたのは、黒いワンピースに白いエプロンをした女性達だった。ワンピースとエプロンのどちらにも可愛らしいフリルが施されている。20代くらいの3人の女性だった。
その内の1人が、へたり込んでいた少女……フェリティアの手を取って立たせ、そのままフェリティアは手を引かれながら城の中を歩いていた。
「もう、お城中が大騒ぎしているんですよ。千年前からの封印が解かれるなんて言うから、街から逃げ出そうとしてる人までいたんです。それなのに、こんなに可愛らしい方だったなんて、皆びっくりしていて。そうよね?」
フェリティアの手を引く女性は、他の女性と顔を見合わせた。他の女性達も、「本当よね」なんて言って笑い合っている。
「……いとし子ってなに?」
「精霊に愛されてる人……という意味ですわ。世界から祝福を賜った証拠だと、今は言われているんです。……本当に羨ましいですわ」
そう、ニコニコと微笑ましそうに言うが、フェリティアには羨ましがられる意味がわからず首を傾げた。
更に質問を続けようと思えば、3人は話を進めてしまった。
「そういえば、お客様は例の噂の子とも年齢が近いみたいですわね」
「あの聖女様とお噂されている子ですわよね」
「あんなに幼いのに、精霊眼を使えるんでしょう?神殿生まれだから、そのような方も生まれるのかしら」
「それだけ神殿は神々と近い場所ってことかしら」
そんなふうにうふふ、と笑い合いお喋りを続けている。フェリティアはすっかり置いてけぼりにされてしまって、ほんの少し頬を膨らませた。
フェリティアは城に来てから知らない単語ばかりを聞いている。それは、自分が千年前に生まれた人間だからか、それとも記憶喪失のせいなのか、フェリティアにはよくわからなかった。
「着きましたわ。お客様には、まずお風呂に入ってもらはなくては」
「とっても泥だらけですもの。ここに来るまでに、騎士様達と色々あったのでしょう……」
通された部屋は広く、大きな鏡やテーブル、椅子や籠が置いてある部屋だった。
フェリティアは自分の姿をすっぽり映せる鏡を見つけて駆け寄ると、そっと覗き込んで鏡の自分と手を合わせた。
フェリティアが自分の外見を見るのは初めてだった。
フェリティアの髪はゆるりとうねった金髪で、柔らかく明るい色をしており、腰の下ほどまでに伸びている。騎士とのやりとりがあったせいか、ところどころ砂がついて汚れてしまっていた。
フェリティアが惹かれたのは、自分の髪ではなく瞳だった。
澄んだ青空とは、また種類の違う色。明るくはっきりとした水色に、少しだけエメラルドグリーンを混ぜたような、美しい色だった。
鏡にグッと近づき瞳を覗き込んでみれば、洞窟の外にあったあの綺麗な湖と、そっくりの色だと思った。
(……きれい……)
「まあ、鏡を熱心に覗き込んでどうしたのでしょうか」
「お客様は記憶を無くされているみたいだから、もしかして、ご自分の姿も忘れてしまったんでしょうか……」
頬に手を当て顔を見合わせて話す2人を背後に、もう1人の女性が興味深そうに鏡を覗き込んだ。
「お客様、何か気になることでもありましたか?」
「……目の色が、きれい……」
振り返って、目元に手を当てながらそう言えば、顔を見合わせた女性達がコロコロと笑い出した。
「ええ、本当に。とっても綺麗ですわ」
「まあ、本当に鏡を見たことなかったのですね。とっても綺麗なお色をしていらっしゃいますわ」
「本当に。あの湖みたいですわ」
そう言って、口々にフェリティアの言葉に同意する。
それがなんだか嬉しくて、ついつい鏡にぺたりと額を当てて覗き込んでしまう。
「では、お風呂に入りましょう」
「お客様、こちらに来てくださいませ」
「両手を上に上げてくださいな」
手を引かれて鏡から離されてしまったので、言われるがままに手を上げると、3人はそのままフェリティアの服を脱がそうとした……が。
「あら?この服脱がせませんわ」
「こっちの留め具のせいかしら。外してしまいましょう」
「昔の服はこうなっているのですね。歴史の教科書を読んでいるようですわ」
ガチャガチャと肩についていた装飾を外し、服をあれこれ脱がし始めた。
両手を上げるように言われ、今度こそ両手を上に上げると、更に下着も脱がされ裸にされる。そのまま手を引かれ隣の部屋へと連れてこられた。
モワモワとした湯気が立ち上る部屋には、暖かそうな湯船がいくつもある。湯船の中心には誰かの石像が立てられていて、その石像が持つ壺から、お湯がとめど無くお風呂へ流れていく。
「すっごくひろい……」
フェリティアは広大な風呂場に圧倒されていた。フェリティアは、お風呂というものがもっと小さいものだと認識していたというのに、何故そう認識していたのかわからない。その小さいお風呂場が、どこで誰と入ったどんなところなのかも、思い出せなかった。
このお風呂の湯気のようなモヤが、頭の中に埋め尽くされ、フェリティアが思い出そうとしていたものを覆い隠す。それは、お風呂場にいるせいなのだろうか。
手を引かれたフェリティアは、壁にかけられた鏡の前にある椅子に座らされる。
女性のうちの1人がフェリティアの髪を後ろ流し、タライで組んだお湯で髪をすすいでいく。他の2人はフェリティアの手足のマッサージを始めた。
フェリティアを洗う女性が、物の入ったタライから何か一つ大きめの瓶を取り出し、中の薄いピンク色の液体を手に出す。
そのまま手の中で液体を伸ばすと、フェリティアの頭につけ始めた。
「目に染みてしまいますから、目をつぶってくださいませ」
髪に何かを塗られる感触を感じながらフェリティアがそっと目を閉じると、優しいくもしっかりとした指の感触が伝わってきた。それが手足のマッサージと加わると、体の疲れのせいもあって、フェリティアは急激な眠りに襲われ、こっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。
「まだ少し時間がかかりますから、眠ってしまっても構いませんよ」
その言葉が耳に入るや否や、フェリティアはゆっくりと眠りに落ちていった。
*
「……湯船入らないの?」
結局、体を洗った後ぐっすり眠ってしまったフェリティアは、ゆっくり湯船に浸かることはできなかった。
湯船を指差しながらそう聞けば、頭の水滴をタオルでそっと拭かれる。
体も大きなタオルで拭かれれば、真っ白の綺麗な下着を着せられた。
「申し訳ありません。お客様が眠ってしまわないか心配だったものですから……」
3人のうちの1人が苦笑いでそう言った。
「湯船に浸かるのは、また夜に致しませんか?お客様は何も食べていないご様子ですし、お食事に致しましょう?」
そう言われてフェリティアがお腹にそっと両手を添えると、くぅ、と小さくお腹の音が鳴った。
お腹が空いたことを自覚したフェリティアは、こくりと頷いて素直に従った。
「では、お着替えをしましょう」
早く着替えてしましましょう、と1人が言うと、フェリティアはクローゼットの前に置かれた椅子まで手を引かれて座らされた。
「まあ……。いくら急いでいたからって、すぐに用意できたのが平民の服だなんて……」
そっと頬に手を添え、1人がため息を吐いた。
「仕方がないわ。お城には女の子がいないんだし……」
「あら、平民の服にしては上等な服ばかりだわ。ドレスは用意に時間がかかるもの」
「そうねえ……」
3人はクローゼットの中を除き、服を出し入れしながらあれこれ言い合っている。フェリティアは椅子の上で足をぶらぶらさせながら、その様子を眺めていた。
「やっぱり水色じゃないかしら。こっちなんてどうかしら?」
「こっちの青緑の方がわたくしは綺麗で好きですわ」
「髪の色に合わせるのもいいと思うんだけど……」
わいわいと3人が言い合っていると、部屋の外からもう1人同じような格好をした女性が足早に入ってくる。
「……そろそろお食事の用意が……あっ、お着替えがまだだったのですね。申し訳ありません。お食事の用意ができましたので、冷めないうちにお越しくださいませ」
フェリティアが下着一枚なのを見て、そっと目を背けてくれた女性は、また足早に去っていった。この3人よりもずっと若い人だった。
「まあ大変……」
「無難に行きましょう。取り敢えず今日は水色のワンピースにしましょう」
「そうですわね、急ぎましょ」
あれよあれよと服をフェリティアに着せた後、またフェリティアの手を引いてどこかへ連れていく。
「……ねえねえ、そういえば、私がさっき着てた服ってどうしたの?」
「あの服ですか?だいぶ汚れていたのでお洗濯に回しましたけれど……」
「お洗濯、終わったら返してくれる?」
どういう理由であそこで眠っていたのかはわからないが、あの服はそれを知る大事な手がかりになるのだ。フェリティアにとっては大事な服だ。
「それでは、お部屋が決まったら置いておきますわ」
こくり、と頷いた。
それにしても、この城はフェリティアが想像していた以上の広さだった。
あそこは滅多に使わないお風呂場らしく、お客様用には質素だが、使用人には少し豪華な場所だ。使い勝手が悪いためあまり使っていないらしい。
昔からお城には余分に部屋があるらしいが、使われない部屋の方が多いようだ。
右に左にと廊下を曲がり、いくつか扉を開けて、階段を何回か登ったところにある部屋に、フェリティアは通された。
「お腹が空きましたよね。ご飯が出来ていますわ」
にこりと微笑まれ通されたのは、煌びやかな部屋だった。
長いテーブルに白い布がかけられていて、椅子が側面にいくつも置いてある。テーブルの前と後ろには椅子が一つだけ用意されていて、フェリティアにとって手前側の席に、食事が用意されていた。食事を見て、フェリティアはまたお腹が鳴らしてしまった。
手を引かれテーブルまで連れてきてこられると、布を手にかけてキッチリとした高そうな服を着た男性が、椅子を引いた。
椅子に座りテーブルの両側を見ると、フェリティアを連れてきた女性達と同じような、黒い服に白い前掛けをした女性達がずらりと並んでいた。
側には、騎士も数人いるようだった。
(……ちょっと落ち着かない)
こんなに大勢に囲まれてご飯を食べるだなんて、全く落ち着かない。
しかし、それとは反対にフェリティアのお腹はずっと悲鳴をあげている。
椅子に座ってそっと料理を見れば、ふわふわとしたパンが2つお皿にのっていて、黄金に透き通ったスープが大きめのお皿に、具沢山に盛り付けられていた。
ごくり、と唾を飲み込む。
「お客様は目覚めたばかりということで……軽いお食事から召し上がった方が良いかと、シェフが簡単に召し上がれるものを作りました。スープの具は柔らかく煮込まれているので、食べやすいと思いますよ」
側にいた女性がにこりと微笑んで言う。
「……そうなんだ」
(……そこまで考えてご飯を作ってくれるなんて)
その作ってくれたシェフという人に後でお礼を言いに行こう、とフェリティアは心に決める。
それはともかく、フェリティアのお腹はとても限界だったため、お皿の横に置かれたスプーンをガッと手に握り込んでスプーンで掬って飲み始めた。
スプーンの中で、黄金の汁が揺れている。
「……おいしい!」
野菜の甘みと、程よい塩味が口いっぱいに広がって、喉を伝っていく。程よい暖かさがフェリティアの心まであっためて、ほぐして安心させてくれる。一口大に切られた野菜が食べやすくて、口の中でじゅわりと溶けていく。
本当に、フェリティアのことをよく気遣って作ってくれたみたいだ。
「……飲み方が……」
「スプーンの使い方も……」
周りに立つ人の中の数人が、おそらくフェリティアに向かって何か言っている。だけれど、そんなことを気にする余裕もなく、フェリティアは一心不乱に飲み続けた。
パンを一つ手に取ると、まだほかほかのパンのふんわりとした感触が手に伝わる。一口サイズにちぎって食べてみると、柔らかい食感の後にふんわりとした甘さを感じた。
(……パンって、もっと硬いものじゃなかったっけ)
パンをどこで誰と食べた記憶はない。
しかし、フェリティアはパンを食べたことがある。そのパンは、きっともっと硬かったはずなのに。
ずっと寝たきりだったのだろうフェリティアでは、硬いパンはきっと食べづらかったかもしれない。
もしかしたら、千年経ってパンの作り方が変わってふわふわのパンが作れるようになっただけかもしれないけれど、もしこれが特別な作り方が必要なパンなのならば、これもフェリティアへの気遣いなのではないか、と思う。
フェリティアは、一つため息をこぼした。
(……今日、本当に色んなことがあったな)
まだ、フェリティアの心は混乱している。
目が覚めたばかりで、知らない場所で知らない人達に捕まって、偉そうな人ばかりでどうなるかもわからなくて、怖かったのだ。痛い思いもした。
(……グランザムだっけ。あの偉そうな騎士、嫌い)
腕を掴まれ、馬車に放り込まれた。
自分がどうなるのかわからず、恐怖して、フェリティアは何もかもを諦めてしまいかけた。
こんな状況に希望などなくて、これから明るく生きていくことなどできないのだと、本能で悟った。
このまま何もわからないなら、それでもいいと、死んでもいいと思った。
……しかし、それは違った。
初めて会ったばかりだというのに、普通は怪しんで当然のフェリティアを、王は助けた。助けてくれた。
手錠を解き、フェリティアは悪い人間ではないと。お客様として扱えと、そう言ってくれた。
お城の人間ですら優しくしてくれた。
お風呂に入れ、服も新しくし、食事を用意してくれた。
暖かくて、それでいて優しかった。
(……わたし、助かったんだ……)
フェリティアは今、心の底から安心したのだ。
「……お、お客様……?どうなさいましたか?」
一番近くにいた女性の焦った声にフェリティアを見た周りの人達が慌て始めたのを感じて、フェリティアは思わず周りを見渡した。
「お客様、どうして泣いていらっしゃるのですか……?」
「……え?」
そっと、頬に触れた。フェリティアの頬は濡れていた。
「あ、れ……なんで……?うっ、ひっく、なんで……」
拭っても拭っても、自覚した途端余計に涙が溢れてくる。手で一生懸命擦っても、どうしても涙は流れていってしまう。
「一体、どうしたのですか?もしや、食事になにか……」
「もしかして、さっきの声聞こえていたのでは……」
女性が後ろをちらりと見ると、フェリティアに陰口を言っていた数人の人が口元に手を当てて焦り始めた。周りの者達が、彼らに睨みを効かし始める。
「大変申し訳ありません。あの者たちが粗相を……」
「ちが、ちがう、の……」
嗚咽を漏らさないように、フェリティアは頑張って否定する。
(そうじゃ、そうじゃない……)
騎士達は泣きじゃくるフェリティアを訝しげに見つめ、警戒し始める。
「わたし、わたしね。今日、いっぱい色んなことあって」
一生懸命、嗚咽を抑え今の自身のの気持ちを精一杯話そうとする。
(……違う、違うの。誰が悪いとかじゃなくて)
「何にも、わ、わからなくて……ひっく、怖くて、どうなるのか、不安で……」
周りの人間のハッとした息遣いが聞こえた。口元に手を当て目を丸くしている。
フェリティアが泣いているのを見て、同じように涙ぐんでいる人もいるようだった。
「でも……でも、ぐすっ、出して、もらったご飯……あったかくて、お、おいしかったから……」
涙が抑えられない。しゃくりあげることも、早くなってしまう呼吸も、どうしても抑えられなかった。
誰かの鼻を啜る声が聞こえた気がした。
眉を下げて悲しそうな顔で、ほとんどの人がフェリティアを見つめていた。
「安心、したら……ひっく、涙、出ちゃった、だけなの……。だれ、が、悪いとかじゃ、ぐすっ、なくて……」
フェリティアはそのまま、しゃくりあげながら泣き続けた。
最初に大丈夫かと心配してきてくれた女性が、フェリティアにハンカチを差し出してくれる。それを受け取って涙を拭いている間、他の人達は何も言わずにいたが、それは悪い沈黙ではなかった。
*
しばらくして涙が収まると、改めて大丈夫かと問われる。
少し恥ずかしくて小さくこくりと頷くと、にこりと笑みを返された。
「……スープ、温め直しますので少しお待ちください」
これにも小さく頷くと、そっとスープを持って出ていってしまった。
しばらくして出てきたスープは、先程よりも美味しかったように思う。
全て飲み終わるころ、フェリティアのいる食堂に少し大きめの音を立てて入室する人がいた。
「例のお客様、いるかしら」
そう言って入ってきたのは、先程フェリティアの手錠を解いてくれた賢者の従者だった。周りの人達が目を丸くして彼女の方を見つめる。
頭とお尻から生えた黒猫の耳と尻尾を忙しなく動かし、キリリとした目付きで堂々と入室してきた彼女の瞳は、綺麗な淡い紫色の瞳だった。
振り返ったフェリティアと目が合った彼女は、ツカツカと歩いてきて食事の済んだ皿を見つめた。
「……食事は済んだようね。賢者様がお呼びよ、早く来なさい」
特に感情のこもっていない冷めた目をフェリティアに向けると、サッと踵を返した。そのまま部屋を出て行こうと扉まで歩いって行ったかと思うと、くるりとまた振り返る。
「……何をしてるの?食べ終わったんでしょう、早く来なさい」
訝しげな目をして、何故着いてこないのかわからないといった表情でこちらを見つめ返してくる。
(そんなに急に言われても着いてこれないよ!)
慌てて椅子から降りると、後に続こうと小走りする。
「えっと、ご飯美味しかったってシェフ?に伝えておいてね」
振り返って早口でそう告げて手を振ると、他の人達も慌てたように頷いた。
バタバタとしながら、早足で歩く彼女を走って追いかけた。