夜のストーカー
〜ストーカー【stalker】
特定の個人に異常なほど関心を持ち、しつこく跡を追い続ける人。
1990年代後半から社会問題化。〜
広辞苑より
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僕はストーカーだ。ストーカーっていうのは女の子に付き纏って、
相手がそれを気持ち悪いとか怖いとか、とにかく迷惑だと思っているのに、
そんな相手のことはお構いなしで一方的な感情を押し付けるような奴のことを言う。
辞書にも載っている由緒正しい名称だ。
遡ること半年前、僕はストーカーになった。相手は同じクラスの同級生だった。
僕は彼女のことが好きだった。はじめての恋だった。
色恋沙汰なんて自分には縁のないものだと思っていたけれど、
14歳と3ヶ月目のあの日――僕は恋と出逢った。
いや、もっと早く芽吹いてはいたのだ。自覚したのがあの日だったというだけで。
不思議なもので、人は我が身に起こった劇的な経験を運命と思い込んでしまうものらしい。
例に漏れず、僕もその恋を運命的なものだと思い込んだ。
結果は――勘違いだったのだが。
恋が成就した人間がストーカーになるわけがない。
いや、破局してからストーカーになるなんて話はよく聞くけれど、
僕の恋は一度も花咲くことなく終わったのだ。散る花も無かった。
僕は彼女とクラスメイトであること以上の接点を持とうと必死だった。
何かと理由をつけて話しかけたり、逆に彼女が友達と話している内容には常に耳を澄まし、
連絡先を知るためのきっかけ作りをしては、玉砕を繰り広げていた。
そんな態度の一つ一つが段々と不信感に変わっていったのだろう。
なんの不備もなく目的を達成できる程、僕は器用な人間ではなかったのだ。
上手くいかない焦りは焦りを呼び、今度こそはというチャレンジ精神と
モチベーションは幾つもの空回りを生んだ。
そして、決定的な日が訪れた。
「レイド君――気持ち悪い」
彼女は心底嫌そうな顔でそう言った。
思わず口から出てしまったというような言葉だった。
本当はもう少しオブラートに包もうと思っていたのに、
あまりのことに本音が漏れ出してしまった――そんな感じだった。
昼休みの教室だった。
周りのクラスメイトの数人が僕らを見ていた。
僕は唖然としていた。何も言葉が出てこなかった。
「気持ち悪い」の言葉が鋭いナイフみたいに胸に突き刺さっていたからだ。
僕の中で「気持ち悪い」もののイメージが瞬時に駆け抜けた。すごく気持ち悪かった。
そんな「気持ち悪い」ものたちの中に自分も含まれるのだという事実が衝撃となって襲って来た。
それから学校に行かなくなった。もともと学校なんて好きではなかったのだ。
友達がいなかったわけではないし、酷いいじめを受けていたわけでもない。
そりゃ友達と言ったって休みの日に頻繁に会うほどではなかったし、
いじめって程じゃないけど揶揄われるくらいのことはあった。
でもそんなことは大したことじゃない。
大したことじゃ――なかったはずだ。
それから僕は家に引き篭もって、自分の部屋の天井を見つめていることが増えた。
スマホは近くの河に捨てた。なんとなくもう要らないなと思ったのだ。
クラスメイトの連絡先や、流行っているソシャゲのデータが入っていたスマホだったけれど、
どうせもう連絡することはないし、中学生じゃろくに課金も出来ないから、いっそ捨ててしまった。
父親にはカンカンに怒られた。物を粗末に扱ったからだ。
でもそんなこと知ったこっちゃない。
もう全てがどうでもいい。
どうでもよかった。
僕の唯一の外出は夜の散歩になった。
たまには外の空気を吸いたくもなるし、
登校拒否はともかく――それは、どうしようもなく事実なので――
文字通りの引きこもりにはなるには抵抗があった。
昼と比べて夜の空気が美味しいなんてことはない。空気は空気だ。
けど、なんだか質が違う気がした。
あてもなく歩く。
この散歩はいわば儀式のようなもので、軽い運動も兼ねている。
ただ歩くだけでは、食っちゃ寝の自堕落な生活を送っている罪悪感を払うには少し足りないけれど。
ルートはその日によって違う。
同じようなエリアをグルグル回ることもあれば、
ひたすら真っ直ぐ歩き続けることもある。
人とすれ違うことは稀だった。
ひょっとしたら本能的に人のいない道を選んでいるのかもしれない。
知らない人間なんて風景と同じようなものなのに。
春も終わり、もうすぐ季節が変わる。
まだ蒸し暑いほどではなかったが、生温かい夜の空気が付き纏った。
しばらく歩いていると、JR中央線の踏み切りに差し掛かった。
赤いライトが点滅し遮断機が今にも下りようとしている。
ここで引き返してもよかったが、何かに道を遮られるというのがなんだか不満で、
よし渡ってやろうと思った。
周囲に人気はない。
電車も回送電車かもしれない。
腕時計を見ると、時刻は深夜2時になっていた。
「やあ少年、いっしょに遊ぼう」
線路を挟んで向こう側。
対角線の位置にその娘はいた。
黄色と黒の遮断機は降りている。
赤いライトは点滅している。
その向こう側に赤と黒の少女はいた。
ごうっという音を立てて中央線の銀色の車体が滑り込んで来る。
高速で流れ行く銀の河。風が前髪を凪いだ。
赤いライトが消える。
遮断機が上がる。
対角線に少女はいない。
「夜は危険がいっぱいだからね」
振り返る。そこにその少女はいた。
真っ黒なセーラー服に胸の赤いスカーフ。
血の気のない蒼白い肌。暗闇に溶け込んで行くような長くて黒い髪。
いや、妖怪か幽霊かよ?
咄嗟に思ったことはそれだった。
※※※※※※
「夜は危険がいっぱいだからね」
あらためて近くでよく見てみると、少女はわりと可愛らしい顔立ちをしていた。
肌の色や目の下の隈がやたら不健康そうな雰囲気を醸し出しているが、
それなりに整った造形をしている。
「そんなにじろじろ人の顔を見るなよぉ。汝はアレかな、エッチな不審者かな?」
「いくらなんでも失礼ですよ」
それが少女と僕とのはじめての会話だった。
敬語なのは彼女が年上か年下か判断が付かなかったからだ。
少女は僕よりもずっと背が小さく、顔もどこか幼い。
ひょっとしたら姉のセーラー服を着込んだ小学生ということもあり得るくらいに。
でも見た目がどうであれ、世の中実は年上なんてこともあるし、
なにより初対面の相手にタメ口を聞くほど僕は図々しい奴ではないのだ。
「でもこんな深夜に目的もなく歩いている人は不審な人ではあるよ」
ふひっ、と笑いながら言う。
「目的がないなんてどうしてわかるんですか。……それに、それならそっちもでしょう」
不審者どころか妖怪かと思ったくらいだ――。
「私は遊び相手を探していたんだよ」
むしろ本物の不審者はそういうイケナイ目的を持っている人なんじゃないだろうか。
右耳に幾つも付けたまち針みたいなピアスが光った。校則が厳しいうちの学校にはいないタイプだ。
「夜遊びの、ですか?」
「うーん、まあ、そういう悪そうなことならなんでもいいんだ」
そんな風に言ってにちゃあと笑う。
ひと目で面倒そうな人だと分かる笑い方だ。
もうちょっとまともな笑い方なら可愛く見えるだろうに。
「いろんなものをメチャクチャにしたいんだ」
物騒なことを言う。まあ気持ちは分からないでもない。
なんていうか、思春期ってそういうものだから。
「汝、名前はなんて言うの?」
「え? いや、教えませんけど」
初対面の正体不明なピアス女に個人情報を教えるとか怖い。
いや、名前くらいなら悪用のしようがないかもしれないけど、
あらぬ噂を流されたりとか呪われたりくらいはあるかもしれない。
僕の即答に彼女はきょとんとした顔をしている。
『まさか教えてもらえないとは、これっぽっちも思わなかった』みたいな顔だ。
「ああ、そうかそれは確かにそうだ」
ポンッと手の平を叩きながら、うんうん頷いている。
「永麗奈・ヴァン・ブラッドモア」
右耳のピアスを指先で触りながら、彼女は言った。
「それが私の名前。先に名乗るのが礼儀だものね」
ふひっでも、にちゃあでもなく、可憐に微笑った。
「いつか教科書に載るかもしれない名前さ」
親指をグッと立てて宣う。
とりあえず絶対に載らないだろうな、と思った。
※※※※※※
「レイド――レイド君かぁ。なんかソシャゲの協力プレイみたいな名前だね」
はいはい、それなりによく言われます。
彼女――永麗奈が名乗るものだから、さすがにこちらも名乗らざるを得なくなってしまった。
橘レイド――なんの面白味もない僕の名前だ。
「しかし、まさか外国人だったとは。いやハーフですか?」
「なんでいまだに敬語なんだぁ? まあ、ハーフと言えばハーフかなぁ」
いまだにって……さっき知り合ったばっかりなんですけど。
ところで永麗奈は確かに日本人ばなれした雰囲気がある。鼻も高い。
身体に別の血が流れている感じだ。
「ちなみに私はたぶん汝より年上だよ。あ、でも敬語とかナシナシ。タメ口でいいからねぇ」
「はぁ、まあ、少しずつ」
本人がいいと言っていても、年上にタメ口はどうも慣れない。
「ところで何処まで着いて来るんで――着いて来んの?」
けっきょくあの後すぐに散歩という名の徘徊を再開したのだけど、永麗奈はずっと着いて来るのだった。
「遊ぼうって言ったじゃん」
言ってたけどさぁ。
「はいそうですね、遊びましょう!なんて返事してないと思うけど」
「ふひっまあまあ、悪いお姉さんに捕まったと思って」
あっけらかんとしている。どうも離れてくれそうにない。
「遊ぶと言ったって、僕は遊び方なんて知らないし、そんなお金もない」
繁華街の方に行けば深夜でもやっているカラオケとかあるかもしれないけど、
そんなところに行ったらたぶん補導される。永麗奈に至ってはセーラー服だ。
いや、それでなくても行くつもりなんてないけど。
「遊び方なら私が教えてあげるよ」
気軽そうに言って胸を張る。えっへんって感じだ。
繁華街には近付けない、お金もないで、どんな遊びが出来ると言うのだろう?
「繁華街へ行こう」
「いや、それはさすがに……」
だから、それじゃ補導されるってば。
いや、運が良ければされないのか……?
でもされた時のリスクが高い。少なくとも僕にとっては。
「言ったでしょ? 私は世間的にイケナイことがしたいんだよ」
「言ってたなぁ……」
補導されるような遊びじゃなきゃ意味ないってことか。でも危ないことはしたくない。
「汝は嫌かな?」
キラキラした瞳で問いかけてくる。……隈がなければ綺麗な瞳なのにな。
「まあ、ちょっと近づいて様子を見てみるくらいなら」
思春期は少しくらいイケナイことをしてみたくなるものなのだ。
そんなわけで、僕たちは繁華街に向かって歩き出した。
道中、永麗奈は終始機嫌が良さそうだった。
なんというか――遠足に出掛ける直前の小学生、もしくは大好物を前にした小学生、
あるいはクリスマスの朝プレゼントに気が付いた小学生、
つまりとにかくテンション高くなった小学生みたいだった。
スキップしながら歩いたり、意味もなく両腕を左右に広げたり、
気分良さそうに大声ではないが小声とも言えない声量で歌を唄ったりしている。
「あったまテカテーカ♪ さえてピカピーカ♫」
なぜ、ドラえもん? しかも古い方。
深夜に近所迷惑だと思うが、注意するほど大声でもないのでわざわざ指摘するのは微妙だ。
水を差すのも不粋な気がしてしまう。
「ところで僕はお金ほとんどないよ」
「ナイナーイ!私もナイ!でも大丈夫、無問題。お金のかからない遊びをするから」
「お金のかからない遊びって?」
危ない遊びは本当に嫌なんだけど。
少し前を歩いていた永麗奈が振り返る。
スッとまっすぐに僕を指差してくる。
……いや、指差しているのはもっと背後か?
にちゃあと笑う。瞳を輝かせながら。
そして言った。
「鬼ごっことか?」
いや、小学生じゃないんだからさぁ。