パトリシアの物語 4
セオドア氏一瞬しか出てきませんでした。
前半クリスティアンの話、後半がパトリシアの話になります。
パトリシアが消えた。
外部とは接触しないように、慎重に匿っていたつもりだった。クリスティアンが行けない時はイクセルに行かせたりしていたが、どうしても抜けられない仕事で郊外の屋敷に通えなかった数日の間に、パトリシアが居なくなったのだ。
ケティの話によると、ケティの実家の男爵家の親が危篤だと連絡があったため、里帰りをしている間だけ急遽雇ったメイドがいると言う。家令の親戚の娘だからと、警戒心を抱いていなかったのは迂闊だったと、ケティは涙ながらに語った。
屋敷を維持するために置いている家令は、クリスティアンが幼い頃から世話をしてくれていた信頼できる人物で、その家令の紹介でやってきた臨時メイドは、パトリシアが失踪した日に姿を消した。
クリスティアンは家令を問い詰めた。ケティを遠ざけている間にパトリシアをどこにやったのだ?と。
「旦那様は田舎の子爵家を潰すのに、何の躊躇もございません。さらには、お腹に坊ちゃんのお子様がいるとわかれば、パトリシア様を処分される可能性すらございます。旦那様はそういう方なのです」
「だから、父から守っていたんだ!」
「それをパトリシア様が望んでいるとお思いですか?外部との接触を禁じているこの状態は、まるで監禁と同じでございます。
ただ閉じ込められて囲われているだけのパトリシア様が、実家の事情を知った時にどのような行動に出られるか、坊ちゃんにも想像がつきましょう」
「どうやってパトリシアはその事情とやらを知った?連絡手段は無い筈だ」
「旦那様には不可能な事などございません」
「もう良いっ!父上に会ってくる」
そのまま王都の公爵邸に向かおうとするクリスティアンを、家令は止めなかった。今更慌てても全て無駄なこと。
まだ次期でしかないクリスティアンが父親のダンスタブル公爵に勝てる見込みはない。王城の百戦錬磨のライバル貴族達を制し、冷血漢の怪物と恐れられている人物である。寧ろ実の息子であっても、その心を傷つける事を躊躇わない公爵に追い込まれるだろう。
家令はため息をついて、パトリシアは無事に逃れきれただろうかと思った。
一方父親と対峙し問い詰めたクリスティアンは、ケイン子爵家から金を無心する手紙が届いた事を聞かされた。性質の悪い下賤な者どもと付き合っているから、そんな事になるのだと父公爵に一喝された上、娘の事を真に思うなら別れる事こそが愛情であると言われた。
「お前もその娘も不幸になるだけなら、せめて娘を生かして帰してやるのが情けというものだろう?」
父の言葉にパトリシアの命すら父の掌の上で弄ばれていると悟ったクリスティアンは、己の敗北を認めた。
これ以上父を怒らせたら、本当にパトリシアを失ってしまう。一旦は納得し諦めて、その実はこっそりと父に知られぬ様に彼女を探すと決心した。
その後、クリスティアンはケイン子爵家を訪れたが、既にダンスタブル公爵の怖さを知っていた子爵は、一切知らない、娘とは縁を切ったからもう関係のない人間だと、怯えながらクリスティアンを拒絶した。
勿論、パトリシア失踪のきっかけを作ったアンナ・デュバリも訪ねたが、妊娠中で切迫早産の危機があるという理由で、慇懃に面会を断られた。夫のジョルジュは何も知らなかったが、パトリシアが絡んでいるというだけで、妻の精神状態が悪くなる、という事だけはわかっていた。
その後、ケイン子爵家は、嫡男ヒューバートに代替わりしたものの、相変わらず領地経営は下手でみるみる間に没落し、子爵家一家は爵位返上して平民となった。
彼らの行方を辿る事が出来なくなった頃、クリスティアンはパトリシアが生存して、マイヤー男爵と結婚している事を知ったが今更の話である。
ただ、パトリシアの今が幸せである事を祈るしかなかった。
そして、マイヤー家にはひとり娘がいて、その娘が見事な金髪に緑の瞳であると知り、自分の子かも知れないとクリスティアンは葛藤したが、結果的にパトリシアを捨てた自分にはそれを問いただす権利は無いのだと諦めた。
クリスティアンは父の企む縁談を全て断り、パトリシア以上に愛せる女性が現れる筈もないと、頑なに独身を貫いた。
そして18年後、クリスティアンは愛する女性との間にもうけた娘と再会する事になるのだが、それは別の話である。
*
馬車の中で気持ちが滅入っていたのは、揺れるからなのか、それとも妊婦であるからなのか、パトリシアはわからなかった。
クリスティアンの屋敷から馬車に揺られ向かったのは、マイヤー男爵の領地だった。実家には戻るつもりはない。
父は愚かにもダンスタブル公爵に借金を申し込んだと聞かされ、自分が戻ればお腹の子を盾に取って公爵を脅すかもしれないと考えたら、実家に戻るのは愚行だ。
王都から帰ってきたヒューバートは、美人局に騙され多額の借金を背負わされたようだ。その借金を何とかせねばと、父は考えたのだろうが、やり方を間違えた。
ヒューバートを陥れたのは公爵様だと言うのに……
パトリシアの胸中は複雑で、馬車の中でずっと自分を責め続けていた。自分がクリスティアンと関わらなければ、ダンスタブル公爵の怒りに触れるような事は無かっただろう。
あの時恋に溺れて、クリスティアンの手を取りケイン子爵家を出た自分を責めた。食欲など全くなくて、急いでも3日程かかる道中で食事もほとんど摂らないパトリシアを、家令の親戚だというメイドが叱責した。
「貴女が後悔したり苦しんだりしたりするのは勝手だけど、お腹の子に罪はないわ。食事を摂らない事は、お腹の子を緩やかに殺しているのも同然よ」
はっとしてメイド――今や彼女はメイドではなく、ダンスタブル公爵側の人間だとわかっている――を見たパトリシアは、血色の悪い顔で呟く。
「ごめんなさい。わかっていても食べられないの。吐き気がして。揺れるのも気持ち悪いの」
「そう。悪阻かしら。とにかくもう少しで、マイヤー男爵領に着くわ。パトリシア様が望んだ行き先よ、この後どうなるかは保証は出来ないけれど、本当にいいのね?
パトリシア様さえ良ければ、誰も知らない場所で子どもを産んで、働けるまで世話をする事が出来るのだけど」
「お気持ちだけで充分よ。マイヤー男爵は、どうしても困れば自分を頼れと仰ってくれたの。ケイン子爵家との確執もあるから、叩き出されるかもしれないけれど、とにかくまずは謝りたいの。
その後?わからないわ。従姉妹のアンナを頼ってみようかしら」
「悪い事は言わない。アンナ・デュバリ伯爵夫人を頼るのだけはやめた方がいい。マイヤー男爵家で相手にされなかったら、わたしが貴女を少しでも安全な場所へ連れて行くわ」
パトリシアは、名も知らぬ娘を驚いた様に見た。
「わたしなんかに、どうしてそこまで親切にしてくれるの?公爵様にとって、わたしとお腹の子が死んだ方が都合が良いのではないの?」
なんだそんな事、と娘は笑う。
「わたしは本当に家令の親戚なのよ。家令、、いえ伯父はパトリシア様とクリスティアン様の子どもを死なせたくないの。貴女を助けるというより、クリスティアン様の子どもを助けたいのだと思うわ。だから、パトリシア様は食べられる時は食べて、小さな命を守らないといけないのよ。しっかりしてよ、母親なんですからね」
パトリシアは頭を下げて涙を堪えていた。諦めてはいけない、そう、わたしは母親なのだから。
気持ちを切り替えて、アンナの手紙を取り出した。
アンナの言い分がどこまで信用出来るかわからないが、今はただセオドア・マイヤーに会って、父の無礼を詫び、なんとか許して貰えるようひたすら謝るしかない。憎まれているかもしれないが、頼れる相手はセオドアしか居なかった。
やがて馬車がマイヤー男爵の屋敷へと到着し、パトリシアはひとりで玄関へと向かった。メイドの娘からは袋に入ったお金を持たされていた。暫くはマイヤー家に置いてもらえるとしても、今後の事を考えるとお金は必要だからと無理やり荷物の中に入れられた。受け取れないと断ると、伯父からのお餞別だから受け取ってと、パトリシアの手提げに突っ込まれたのだ。
それから娘はフード付きのマントを取り出して、パトリシアの肩からかけた。まだ目立たないとはいえ、妊婦なのだから、むやみに姿を見せない方が良い、と言うのだ。そして、追い払われたら馬車に戻ってくるようにと念押しをした。
ゆっくりと慎重に、パトリシアはマイヤー家の屋敷へ向かう。門番はいない。玄関でノッカーを叩くと執事が出てきて、胡散臭い格好をした人間を一瞥するとすぐに出て行くように促した。
マイヤー家の執事は、フードを深く被った女がパトリシア・ケインだと名乗ると、迷いつつもやはり取次は断ろうとしたところ、そこへ運良く現れたセオドア本人によって無事に屋敷内へと入る事ができたようだ。
それを確認した家令の親戚だと名乗る娘は、玄関に現れたセオドアの表情から、悪いようにはされないだろうと直感、来た道を馬車で戻る事にした。
好きな男と暮らす、それだけの事が引き起こした苦い顛末に、パトリシアとお腹の子が少しでも幸せになりますようにと、娘は祈った。
お読みいただきありがとうございます。
家令の親戚の娘(実は工作員ですが)は、パトリシアに同情的でした。
攫って閉じ込める、高貴な人のやり方が気に入らないのかも。
次回やっとセオドア視点になります。