無神経で口の悪い医者とおしゃべりで反抗的な患者の三か月に一度の診療日
「あーあ。またなんで太るかなあ」
さっき計測したばかりの血圧と体重が印字された紙を手に、担当医の「眼鏡ムーミン」はわざとらしくため息をついてみせた。
さあ、試合開始だ。傷ついた方が負け、相手を呆れさせた方が勝ち。そうとでも考えないとこんな担当医と一生なんて付き合えない。
わたしは負けじと言い返した。
「それはですね、診察の間隔が三か月あるからだと思います」
「間隔が何だって言うんですか」
「わたしだって先生に怒られたくないですからね。診察日までには、前回よりは体重減らそうと思うんですよ。糖尿病に大事なのは運動と糖質制限と体重を減らすこと。わかってます。少なくとも毎日2キロは歩いてます。栄養指導の先生のお言葉に従ってちゃんと和食中心にしてますし、間食もしてませんし、飲むのはお茶か水。なのに、夫と同じ量を食べるだけですくすく太るんです」
「で?」不愛想な眼鏡ムーミンの顔に、早くしゃべり終われと書いてある。
「で、これ以上食事量減らしたらストレスになるから、次の診察日の前20日あたりからぐんと量を落として一気に体重落とせばいいと思っちゃう。
だから、20日前あたりから本気のダイエットに入るんですよ。その時点で、前の診察日から大体2キロは太ってます」
眼鏡の奥の目がギラリと光った。
「ちゃんと気を付けた食事をしてるのに、毎回増えてるんですか」
「でも食べてるのは夫と同じ量ですよ。彼は太りません。私は水飲んでも太るんです。で、本気のダイエット期間は食べる量そのものを全部半分以下にするんです。夜はむね肉と野菜スープ。歩くのを3キロにする。これで2週間で2キロは落ちます」
「それをずっと続けてりゃいいじゃないですか」
「だって糖尿病は一生ものでしょう、こんな我慢の生活続けられませんよ。短期間だからできるんです。でもですね、今回は最後の3日間ぐらいで反動が来て、いつも通りかそれ以上食べちゃいました。飢餓状態に詰め込むといつもより増えますよね。
結局また500グラムぐらい増えて、センセイに、前回より500グラム増えたと怒られる。せめてその3日間、我慢できれていれば……」
「そういうことじゃないでしょう」言葉を重ねてムーミンが身を乗り出した。
「ぼくの前でだけ一時的に体重落としてどうするんですか。あなたの言い訳はもう結構ですよ。極端な短期ダイエットじゃなくて、ソフトダイエットをできる範囲で持続させればいいだけです。あなたは僕に怒られないために体重調整をしてるんですか」
「だってセンセイ怖いですから」
「お孫がいてもおかしくない年でそういうこといいますか」
よけいなお世話だ。わたしはムーミンの顔を正面から睨みながら言った。
「精神年齢は10あたりで止まってますから」
わざとらしく肩をすくめた後、ムーミンは続けた。
「あのね、ここで血液検査してHba1cや血糖値をコントロールするためにお薬出してるのも、栄養指導してるのも、これ以上のレベルにならないよう、あなたの体中の血管を健康に保つためにしてることなの。僕が怖いとかじゃなくて、あなた自身のためにあなたが自覚を持って努力しなくちゃ何にもなりません」
「はい、わかってます。今はHba1c6.2だけど、8を越えればインシュリン、ひどくなると失明して手足切断待ったなしですよね」
「少し黙っててくれないかな」我慢ならんという様子でセンセイは眼鏡を押し上げた。
(ここで説明。Hba1cとは、赤血球が血液中でどれだけの糖と結合しているかを示す値です。即自的な血糖値と違い、過去2~3ヶ月の値が出ます)
「あなたの言い様は開き直りにしか聞こえない。僕らは喧嘩をしてるんじゃないですよね。あなたは患者で僕は医者だ。だから言うべきことを言ってる。治す気がないならもう、来なくていいですよ」
わたしは背筋を伸ばしてムーミンが眼鏡を拭くのを見ていた。今度の戦いは優勢かもしれない。なにしろ自分は、この歯に衣着せない横柄な担当医が大っ嫌いなのだ。マイルールでは、怒った方が負け。
ここに来始めてもう、一年あまりになる。採血、採尿、身長と体重測定。そののち、最初の診察で言われた言葉が、こうだった。
「その身長で体重がこれ。んー、見たところ隠れ肥満ですね。あのね、ちょっとウエスト測るから、立ってパンツ下にずらして」
「は?」
「さっさとやってくださいね。岡本さーん、メジャー持ってきて」
わたしより明らかに太ましい看護師が容赦なく、一番出っ張った部分を測る。すかさず担当医が言う。
「はい、そこでわざと息はいてお腹引っ込めない」
バレてた。岡本さんがくすっと笑いながら、残酷な数字を告げる。ヒェッ、いつの間にそんなレベルに。
「はい、立派なメタボです。カルテに書いとくからね。肥満傾向、メ・タ・ボ。よく覚えといてくださいね」
どストレートで無神経な医者だ。意気消沈しながらパンツをあげると
「いつもどれぐらい運動してます?」血液検査表を見ながら低音で聞いてくる。
「ええと……特には……昨日は、歩いて10分のスーパーまで行って、ちょっと遠回りして帰って」
「人の話聞かないタイプ?」
「はい?」
「いつもどのぐらい、って聞いてるの。平均して一日何キロ歩いてます?」
「それは……日によって違うので、いきなり平均しろと言われても。じゃあちょっとサバ読んで、1.5キロにしときます」
「しときますじゃないでしょう」いきなり声が大きくなる。
「全てがそんないい加減だからだらしなく太るんだよ。最低でも2キロは歩かないと。あとエスカレーターは使わない、階段見つけたら登る」
「それは、そうできたら、一番いいでしょうけど……なかなか実際にやるとなると……まだまだ暑いですし……」
「これ一生のお付き合いになるんだからね。糖尿病に完治はありませんから、やるしかないんだよ。特に、あなたみたいに腹回りに脂肪のドーナツはめてるタイプは」
立て続けに嫌味爆弾が投下された。わたしはグッと持ちこたえながら、こいつは敵だ、と心の嫌な奴ノートに名前をがりがり書き込んだ。日比野雄一。
「あの、空腹時血糖値120、Hba1c6.5ってそんなに深刻な数字なんでしょうか」
「あなたの場合、人間ドックで糖代謝異常がはっきり出てるからね。予備軍というよりもう、糖尿病と言っていいです」
「ってことは、これからずうっと、ここでセンセイのお世話になるんですか」
「いやでしょうけど、三か月に一回は血液検査に来ることになるね」
十分いやだ。
何だこのえだのんみたいな意地悪臭いムーミン顔は。似合わない黒縁の古臭い眼鏡は。そっちの腹だって白衣の下で突きだしてるじゃないか。人間ドックなんて受けるんじゃなかった、知らなければ…… いや、最終的には悲劇が待っていただろう。
ともかく第一印象は最悪だった。名札の日比野雄一じゃなくて、これからはクソ眼鏡ムーミンと呼んでやる。そのときわたしはそう決めたのだ。その後、言霊思想により、品がないのでクソは省略することにした。
「まあ、来ないなら来ないであなたの勝手だけどね、途中で来なくなる患者さん珍しくないし。でも家族のためを思うなら……」
過去の思い出で怒りなおしそうになっていた自分を引き戻して、わたしは口を出した。
「センセイ、なんだかんだで、ここに来た時よりわたし、体重7キロ落ちてるんですよ。いえ、落としたんですよ」
「まあ、知ってますよ。そこはね」
「ちょっとずつだけど、結局自分で何とかしなくちゃって自覚して、頑張ったんです。でも一度も褒めてくれたことないですよね」
「自覚して? 僕が怖かったからじゃなかったかな」
「センセイのお手柄ってことですか?」
「お手柄と言えるのは、Hba1cが5.7ぐらいまで下がってからですよ。まあ僕のお陰で、現在6.2まで下がって安定した数値で止まってますけどね。僕のお陰で」
どこまでもイケずな奴だ。ムーミンはパソコンの画面に視線を移して続けた。
「では、お薬はいつも通り出しときます。血糖値スパイクを避ける薬と、高脂血症の薬。直前の追い込みダイエットやめて日常的に節食、でもたんぱく質と繊維質は朝からとること。甘い飲み物厳禁。緑黄色野菜は常に食事の一番最初に食べること。お米のごはんは少量ずつでも食べたほうがいい。炭水化物絶ちはだめ。お水はよく飲むこと。出来るだけ歩くこと。毎回言ってるから右から左かな」
わたしは買ったばかりのナイキの黒いシューズをついと突き出して言った。
「ちょっと涼しくなってきましたから、これからは気合で歩こうと思ってます。そのためにこのウォーキングシューズを買いました」
「おっ」
ムーミンは真顔で靴を覗き込んだ。
「それはいいことだ。カルテに書いときましょう。ウォーキングシューズを買った、と」
驚いた。本当に書き込んでる。こんなところもあるんだ。
「では、秋と上手に付き合ってください。その靴で」
「秋と、ですか」
「今年は紅葉が綺麗に染まるといいですね」
最後は珍しく、笑顔だった。
病院の自販機で「自然が磨いた天然水」を買う。ゴトンと落ちてきたボトルの蓋をねじりながら、わたしは胸の中でつぶやいた。
……くそ。今日の勝負、とりあえず引き分けかな。