その4
次の朝、下駄箱の一面に『日高』の二文字がいくつも油性ペンで書き殴られていた。そのほか、生徒会への批判も熱心にばらまかれていた。一見荒らされたようでムッとしたが、昨日、日高くんが言った悪あがきとはこのことなのだろう。その一文字一文字から彼の純然たる訴えを感じ、むしろ誇らしかった。視界を広げるとこの書き殴りは空間という空間で展開されていた。中には筆で力強く刻んだものもあった。
日高くんは自分の存在が権力に消し去られることを恐れたに違いない。そして、一人でも多くの人間に自分がいた証拠を残そうと考えた結果がこの行為なのだろう。いかに気の狂ったとしか思えない光景としてしか生徒に映らなくとも、生徒会への疑念の芽を植え付けるには十分だと考えたのだ。
僕が教室へ入り、授業の準備をしていると、「離せ!」と叫ぶ騒音が廊下を走りぬけていった。とうとう日高くんは捕まってしまったらしい。僕がひとり加勢したところで徒労に終わる。そこでやむなく教室の窓から乗り出すようにして廊下を見た。自分のほか野次馬は……いなかった。
捕まった日高くんが僕らの教室を通る。日高くんは先程から変わらずわめきつつも、その眼だけは過ぎ去る教室の内側を伺っていた。おそらく自分に釘付けになっているか確認していたのだろう。しかし、依然として僕以外は誰一人として見ていなかった。
おかしい……遠目にすら見ている人はいないなんて……。彼の顔色はそうした結果を反映して、みるみるうちに萎れてしまった。
誰もが無関心を貫き、他愛のない会話をする者、予習に励む者、ボーっとする者というように分かれていた。一見、共通点のない彼らの動きは、この時に限っては日高くんを無視するという集団行動と化し、見事にやってみせたのだ。これは、日高くんの意地が、生徒会に完膚なきまで叩きのめされた瞬間だった。
反生徒会勢力はここに敗北した。終わったのだ。日高くんの話し相手でしかなかったはずの僕は、普段の二倍の重力がのしかかったように勢いよく倒れこんだ。僕は生徒会に反抗するという選択肢を失ってしまった。あのとき止めていれば……と悔恨が沸き上がった。
こうなってしまった以上、気持ちを切り替え、生徒会に従う道を直進することだけが僕の生き延びる方法となる。
しかし、心身はたやすく受け入れようとしなかった。当然といえば当然だ、日高くんをはじめ、あの数学の先生や一部の上級生らは存在しなかったと信じなければならないのだ。ああして見た、聞いたことを記憶から抹消することなど、簡単にできるわけがない。となると、必然的に自分に信じ込ませることになるが、それにしたって、心身が拒絶反応を示す。実際、試しに言い聞かせてみたら、胸が苦しくなり、喉がつまる感覚に陥った。喉の表面は、不器用な口呼吸のために、急激に水分を乾燥した空気に奪われ、ざらっとした不愉快な砂漠と化した。
この道も僕には合わないかもしれない。
遠ざかる日高くんをまだ見ることができたが、怪しまれる可能性を減らすべく、窓を離れた。野次馬はこうしていなくなった。このあと日高くんは存在していなかったことにされた。……