その3
ようやく変動の一日が終わろうとしていた帰り道の時のことである。辺りは暗くなることを思い出し、早くも日は沈んでしまおうとしていた。一軒家や電柱といった障害物を潜り抜けて来たわずかなその光は、衝突した対象に微かに夕焼けの色を分け与えていた。影は猛威を振るい、光と張り合っていた。歩いていると交互に出没する光と闇の明滅に、僕の目は瞳孔の調節に悩まされていた。僕にはこの両者のように争う元気は残っていなかった。そして、誰とも話す気にはなれなかったので孤独を装って歩いていた。
後ろから呼ぶ声がした。立ち止まるのが億劫だったので、顔だけそちらに向けるとクラスメートの一人である日高くんの姿を確認した。彼は僕と同じく教室の隅でおとなしくしているタイプだった。だが僕よりも体は一回り大きく、肉付きが豊満であった。また、そんな肉体とアンバランスに接合された端正な顔をもっていた。その顔は男としても嫉妬してしまいそうな美しさがあるに違いないが、無造作に生え散らかした無精髭によって影を潜めていた。
彼は息切れしていた。焦らず呼吸を整えてから話せばいいものを、その時間すら惜しいのか途切れ途切れの声で話しかけてきた。
「君なら話しても大丈夫だと、信じたいが……どうだろう……鹿山先輩が生徒会長になってこの学校が良くなったと思うかい」
「分からない。この学校で、見違えるほどの変化が起こっていることは確かなのだろうけど。少なくとも僕は上級生に遊ばれることはなくなった。ただ、生徒という生徒が鹿山さんを盾にして横暴を始めるようになったわけだ。これが学校にとっていい傾向だとは言い切れないな」
「確かにそうだな。彼らは突然恋をして盲目になったかのように鹿山先輩を祭り上げるようになった。妙な話だよ、まったく」
「あれは思考を放棄してしまった群衆だろう。強い力に絶対的な正義。そうした存在に無心にすがっていれば自分が脅かされることはないからな。ただし、そんなものは本来ない」
「そう自分に言い聞かせているというわけか。にしても、俺たちはあちら側にはなれないみたいだな」
「鼻から否定しているからか、互いに帰宅部だからか……」
「いずれにせよ俺はあんなものの一員にはなりたくない。同調している風で通しているが、近いうちに叩き壊してやりたい」
「なぜだ」
「どうしてもだ」
日高くんから強い意志が伝わってきた。僕にはないものをもっているのだと思う。僕にしてみれば力の振るう存在には勝てない、避けるが吉だと痛感していた。入学早々の理不尽な経験によるのかもしれない。
「壊すなら、自分の世界の中だけにしておくことを提案しておくよ。これが最も現実的な解決策だと思うから」
それは僕なりのアドバイスだった。察しはついていたが、日高くんは鼻で笑った。
「生憎、現実逃避で済ませるつもりはない。俺に言わせてみれば、いくら世界自体を改変しようと、その中にいる人を変えることにはならない。なら誰もが受け入れられる自分を創造すればいいのか。できたとして果たしてそれは自分なのか?鹿山先輩を反射的に崇拝するようになった奴らと本質的に等しい人間ではないとどうして否定できようか!君は俺と似ていると思ったが、どうやら違うらしい。……残念だ」
「いや、待ってくれ。時代が変われば常識も変わるはずだ。あちらが正しいと公に認められる残酷な未来が来てもおかしくはない。強く拒絶するのは自分の首を絞めるばかりだぞ」
「そんなことは言われなくとも分かっている!だがな、俺は生まれた時の常識を土台に生きて来た。いくら取り繕ったところで俺は俺という生き方しかできないのさ」
「不条理を受け入れようという気はないわけだ」
「いや、受け入れているさ。自分を通す気でいるからな」
そう言い放つと日高くんは走り去っていった。話に夢中で気づかなかったが、既に日は沈みきっていた。
翌日、生徒たちの洗礼を受けた先生は一人として授業をしに来なかった。ではその時間はどうなったのかというと、生徒同士での教えあい学習という形で穴埋めはなされた。どうも前日の行為は勉強の放棄ではなかったらしい。僕は教えてもらえる親しい人が教室にいなかったので一人黙々と時間つぶしに明け暮れていた。例外として昼の数学の時間には日高くんが僕の隣の机に座り、話をふっかけてきたくらいだ。
「一人とは寂しい身分だね」
余計なお世話である。鼻で笑ってそっぽを向こうとした。
「おい、ちゃんと教えあい学習しているように息を合わせてくれよ。変に目立つと『改心』させられる」
「改心?」
周りに配慮してか彼の声が細く、聞き間違えたかと思った。
「生徒会に連行されて、みっちり指導を受けさせられるらしい。具体的な指導内容は分からんが、指導を受けた奴というのが前と後で性格が丸っきり変わってしまったみたいなんだ」
「そんなことがあり得るのか」
「その男のことは知ってるし、実際に話をしたこともある。ここ数日見ないなと思っていて、久しぶりに会ったら別人になっていた」
「生徒会がそんなことをしている瞬間は見たのか」
「見てないが間違いないだろう。奴らは校則の改正にも乗り出していてそこに書いてある。『不適切な振る舞いをする生徒には然るべき指導を行う』とな」
そんなことはこの時まで知らなかった。僕はどこかで下級生が上級生に従うあの理不尽なルールだけが変わるのだろうと独り合点していた。少なくともそんなことは公約に挙げていなかった。
「男は指導されるほどの問題児だったわけか」
「俺にしてみれば優等生なんだがね」
「十分な問題児じゃないか。拘束されるのも納得だ」
「なぜ納得できる?彼は今の生徒会が気に入らなかった。そのことを隠さず凛としていた。だから捕まって、おとなしい人間にされた。こんなことが息を吸うように行われているんだぞ。さらには、君のような中立派やそもそも無関心な生徒をも巻き込むことをしようとしている。これが当たり前だとでもいうのか?出過ぎた真似だとは思わないか?」
「いや、それが標準になりつつあるだけのことかもしれない。いつの時代も変わらない常識があるものか」
僕はこう返したとき、周囲からの視線を感じた。言い返そうとする日高くんを無視し、慌ててペンをノートに走らせた。気分が高揚していた彼が気づくには少し時間が要った。
授業時間終了間近になって日高くんは囁いた。
「続きは今度、別の場所にしよう」
翌日の朝、放送で生徒会から連絡があった。これからは始業のチャイムと共に校歌斉唱を始めよ、とだけ伝えられそのまま伴奏が流れ出した。周りは戸惑っており、日高くんは苛立ちが浮き彫りになっていた。僕も何か生徒会に言ってやりたい気分だったが、校歌を歌い終える頃にはその気も失せていた。
昼休みは相変わらずひとりで過ごしていた。ただぼんやりと空を眺めていた。日差しが強く覆う雲はない。目線を下げると無人の運動場が広がっている。僅かだがトラックを囲むように覆われた草に影がくっきりとした形を帯びて現前している。もし生徒会が光だとすると、光を受けない影をなくそうとしていることとなる。影は常に物体に隠れている。光源の角度がかわるか、物体が全て平らにならぬ限り影はある。逆に生徒会が影だとしたら、どうか。光を対象に当てないようにするには何かで光を遮ればよい。例えば、鍵付きの引き出しの中に入れたものは、鍵が掛かっている限り、暗黒に包まれているはずだ。全方向から光が侵入しない空間は影を超え闇で満ちている。そこは必然的に閉鎖的な空間となる……。
僕はこの時、生徒会は「影」か「闇」だと思った。
午後の数学では相変わらず日高くんと座席を隣り合わせにしたが、互いに生徒会のことは口に出さなかった。代わりに、彼は解き方を教えるために僕のノートに書くふりをして場所と時間を記した。十七時三十分屋上、とあった。今から二時間後のことで、帰宅部の僕はそれまで時間をつぶす必要があった。肌寒さが一層増してきたこの頃、とても屋上で待ち続ける気にはなれなかった。特に追われていることもなかったので、窓から体育会系の部活動が見える場所に移ることにした。
練習に明け暮れる彼らの姿は何かを使命に働いているように映った。そして、動きがどれも反射的に感じられるほど滑らかさがあった。無論、自分のしていることに何ら迷いを抱いていないのだろう。僕もその一員だった、入学直後までは。
僕にとってあの時の最善の選択はあったのだろうか?いくらあがいても僕はここに立っていたのではないか、と思うのだ。つまり、今という現実は必然だったのではないかと。規定事項に抗う方法を知っているわけではないのだから尚更だ。これから起こることも既定のレールに乗っている気がする。日高くんが目指しているのはレールからの脱線であるわけだが、彼はその方法を知っているのだろうか。知っているなら、ぜひ知りたい。必然に従順でない人間に変わることを僕はまだ諦めていなかった。
屋上に日高くんが来た時には、雲を薄くかぶった空は暗みを帯び始めていた。
「どのくらい分かったんだ」
僕は単刀直入に切り出した。
「奴らの監視が想像以上に厳しい。俺は比較的こそこそと行動しているが、おそらく感づかれている。もしかすると、君もマークされているかもな」
「冗談はよしてくれ」と苦笑交じりに言おうとしたが、その意図とは裏腹に上ずった声を発した。日高くんは、思い描いていた反応に満足した顔を見せた。
「まあ、そう怯えるなよ。奴らだって危険因子の中で『改心』の優先順位をつけていそうなものだ。やられるのはまず、俺の方だろう。その後は分らないが……」
「その前に決着はつけられそうか」
すると日高くんは今までにない落胆した表情を見せた。
「……相手が悪すぎた。鹿山先輩のバックに、並大抵ではない権力者がいる」
「お前がそういうからには何か見たのか」
「上級生を抑えつけたのも十分妙な話だが、先生を追い出すなんてのはいくら何でも教育委員会が黙っているはずがないんだ。俺のような生徒の一人が通報していたっておかしくはない。あとその職員が定期的に視察に来ていたから、異変に気付かない方が無理な話だ。でもどうだ、この学校はその異常を平常運転としてやがる。試しに教育委員会に電話してみたらとんでもないこと抜かしたぞ。『S先生(数学を担当していた)ですが、こちらで確認いたしましたところ、そのような先生はいませんでした』だとさ。こっちはいる前提で話していたからな、あっけにとられたよ。自分の記憶に懐疑的になったのはこれがはじめてだ」
「あいつ、いたよな……忘れようがないもんな……」
「俺もその認識だ。この目で見たし、話したこともある。となると、誰かに消されたとしか思えない。あ、」
そこまで彼は言うと一呼吸おいて、
「よくよく考えたら、俺は鹿山一派の息のかかった教育委員会に電話をいれたんだ。うかうかしていられない」
日高くんは言い終えると顔色が急変した。彼の表情は悔恨をにじませ、顔一面に諦観が広がっていた。
僕は忍び寄る恐怖と絶望で心身共に動揺した。息は過呼吸気味となり、全身が震撼した。せめて『改心』だけは免れてほしい。とっさに思いついたことを口にした。
「雲隠れしろ」
「断る。俺は最後まで戦う。逃げたところで状況は変わらない。戦い抜いてみんなの心に闘志の炎を燃やす取っ掛かりくらいにはなってやる」
「やっぱり、だめなのか」
「ああ、俺には認識を変えるだけで納得する生き方はできそうもない。行為で示したい」
日高くんはそう言うと校舎内への扉へ進んだ。彼はドアに手をかけたと同時に、振り返らず言った。
「君はもう帰れ。俺は残って悪あがきをする」