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その2

 それから数日たったある日のことだった。次が体育ということで、グラウンドへ向かっていた。靴を履き替え、外へ出るときに一人の生徒を見た。もちろん遅刻である。彼は平然として上履きに履き替えかと思えばそそくさと階段へ向かっていった。


 下駄箱に戻ってみると、その彼の靴が上も下もなかった。片方なら分かるが、両方というのは奇妙であった。僕以外にも気づいている人はいたようで近くにいたあるグループはそのことを話題にしていた。


「あいつがいないのは変だ。いつもひどく寝坊をしてくる奴だが、来てからはちゃんと授業を受けている風を装っているぞ。これは鹿山の仕業じゃないかしら」


「いくらなんでも飛躍しすぎだぞ。重病にかかったっていう可能性とかも捨てきれないだろう」


「善は急げ、だ。もしもに備えて俺らまで飛び火が来ないようにしておかないとな」


「善か。どちらが本物の善だろうな」


「善に本物も偽物もあるかよ。ひとえに当人次第だとしかいえない。俺の価値観からして間違いなく正しいことだって、お前には片腹痛いことに過ぎないかもしれない」


「じゃあお前の中では鹿山を悪だというのか」


「今の時点ではそうなるな。でも、立場を裏返すかもしれない。俺は鹿山の専門家じゃないからな」

 

 彼らの姿を見たのは、今日に至るまでこれが最後である。

 

 またある日にはあの洞吹きの先輩に廊下でばったり出会った。暗雲が立ち込める午後の一時だった。僕はしかとすることに決めていたので、間を壊して素知らぬ顔ですれ違おうとした。横目に映ったのは自慢げに語る姿がかつてあったとは思えない、か細く凋落した面。サイズが合っていないものを着ているかのように着崩れている制服。俯いているためか僕に気づいていないようで、糸に引っ張られるようにして無機質に歩を進めていた。僕はあまりの変貌に何を思ったのか、


「先輩、大丈夫ですか」


と声をかけていた。


「お前か。俺に用でもあるのか」


「いえ、天罰をうけたかのような顔をしているものですから……」


「天罰?ああ、確かに天罰はあった。免罪符をばらまいて、困れば都合のいいように神を盾にしていたからな。とうとう神がお怒りになった、ってとこだな」


「それは今も続いているのですか」


「そうでもなかったら俺は今頃お前を玩具にしている。せいぜい長生きするんだな」


「長く生きて何になるというのです?」


 言葉は返って来なかった。


 変化は自身の学級も例外ではなかった。

 

 事が動き出したのは朝の数学の時間である。この学校の数学では、授業前に指定された問題の解答を担当の生徒が黒板に書き、それに対して教師が解説を行うという形で進められていた。この先生はやや癖があり、数学への情熱は結構なものだが、計算に疎かった。正誤の確認に彼自ら計算に乗り出すとひとりでに躓き、幾度となく試行錯誤を繰り返す。やっと検算ができたかと思うと授業終了五分前というのが日常茶飯事だった。大方の生徒はこの一連の流れに呆れていた。一部の生徒はあらかじめ内職すると決め込んでいた。それでも事なきを得ているのはこの先生が体の細い、気弱な姿をしていたからに違いない。今振り返ってみてもただの一度として威厳を感じたことはなかった。


 さて、今日はその呆れを通り越してしまったのか様子がいつもと違った。授業の開始を告げる音が鳴り響くが、板面に映し出されていたのは悉皆暗緑である。


 これでは授業にならない、当然ながら先生には業腹な仕打ちだったようで、


「どういうつもりだ。これでは授業ができないだろうが」


 と見境のないように怒鳴り散らした。それでも生徒たちは何も思わなかったのか、はたまた聞いていなかったのか、平然として己が作業を続けていた。自身の訴えが空しく霧散したことを悟った先生は、さらなる恐喝に訴えようとしながら、やはり言葉のどれもが軽い印象がぬぐえないと自覚していたのか、二の足を踏んでいた。


 すると逆に生徒の方から生意気さを十二分に孕んで、


「先生、授業をしないならとっとと解散にしちゃいましょう」


 と提案した。この一言で堪忍袋の緒が切れたのか、先生にしては力強く言葉を発した。


「君たちがそういう態度なら、私も態度を変えなければならない」


 意外な行動に驚いた生徒もいたがほんの一握りで、残りは待ってましたとばかりにすぐさま口答えを始めた。


「やっとですか、いくら何でも遅すぎですよ。私たちはねえこの無意味な授業に飽き飽きしていたんです。必要のない余談にばかり時間を費やして、肝心の説明はあっさりどころか味のないガムを想像してしまうほど薄い。はっきり言って受けなくて済むならみんなここにはいなかったことでしょう。自学自習している方がよっぽど効果的に感じますからね。では、具体的に態度を変化について聞かせていただきましょうか」


「け、計算はあらかじめ予習してくる。無理ない時間配分を意識する。方向性としてはこれでいいだろう。私なりにこれまでも努力していることは分るな?」


「いいえ、それでは大して変わらないでしょう。もっともあなたが何を言おうがどうだっていいのですが。私たちはみんな教育を受ける権利があります。中には勉強なんぞくそくらえと思いつつも、自分の将来を案じて通っている人だっているんです。だからこそ先生には私たちに刺激を与える存在となってもらいたかった。ですが、ご覧の有様です。黒板がすべてを物語っています。つまり、あなたの授業は不要との意思表示です。どうぞ我々の有意義な時間を潰さないでください」


「俺は強く同意する」「私も」「異議なし!」などという同調の声が直後に響いた。僕はその間口を閉ざし続けていた。


 発せられる生徒の冷酷さに押され、とにかく大音声でもあげてその場を制してしまおうという先生の再攻撃は鳴りを潜めてしまった。こうなると先生はいたたまれなくなり、言葉をそれ以上紡がなかった。場はこうして不気味にも静まりかえった。


 その生徒は自分の行為に何ら誤りを感じていないようで悠然と自学を続けていた。普段の様子からは先生への不満をこうしてぶつける姿など信じられないので、僕は恐怖を感じた。口にする勇気はなかったので、心の中で彼に訴えた。君たちの言いたいことは確かに一理あるかもしれないが、それはあまりに直情的ではないか。先生は自分の話したいことばかりを熱心に話していたことにしたって、それは人間なら当然の帰結だろう。別に興味のない、自分の敬遠する事柄に注力しろという方が無理な話だ。僕らがあの姿から学ぶべきは、不器用ながらも純情なその熱意ではないか。時間を超越し、空間すら歪ませてしまうほどの独壇場。あれは十分学ぶに値すると思う。得るものなどというものは、自身の受けとめ方次第で無数に生まれる。そう思えれば、このような反逆が単なる自己満足にすぎないと分かるだろう。……


 この後何もなく授業は終わってしまった。終わるとともに先程の長が、


「先生の処分については、生徒会長に話しておきますので覚悟しておいてください」


 と言い放った。先生の方は突如として現れた生徒会長の言葉に困惑の表情を浮かべたが、理解が追い付かなかったのか何も告げず、教室を後にした。……こうはいうものの、僕もその言葉が出現はよくわからなかった。常識的に考えて、生徒会長にそんな権限はあるはずがない。何かの聞き間違えに違いないはずだった。


 その後の授業はというと、悲惨そのものだった。数学の時のような集団的な反乱を起こし、無理やり先生を追い込んでいた。相手が動じない場合は、正義の名のもとと称して武力行使に出た。そうした一連の流れの締めには必ず「生徒会長」が登場した。例外的に許されたのは、授業というよりは無法地帯を築き上げる教科の先生ばかりであった。結局のところ、クラスメートたちのしていることは、何かにつけて屁理屈をこね、都合のいい場を作り出す環境破壊であった。

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