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文芸「一瞬」ショートムービーシリーズ ――どこかの誰かが見た風景

神の犯した絶対的なミスと、彼と、わたしの話。

作者: 出 万璃玲

 


「神は馬鹿だ」

 彼が帰ってきた。

 玄関の戸を開けるなり声を荒らげ、バタンと大袈裟な音を立てて戸を閉めて、ぜいぜい息を切らして。


 一体どこから走ってきたの? 駅から? それとももっと前? 電車に乗る前から?

 ああ靴脱ぎ散らかして。ちゃんと揃えなさいよ。どんなに片付けが苦手でも、脱いだ靴だけはきちんと揃えるところが良いと思っていたのに。(まあ大抵の場合手でなく足先でちょんちょんと揃えていることは、この際不問としましょう。)


 どすんどすん。太っているわけでも、筋肉質なわけでもない。中肉中背。いやどちらかといえば少し痩せ気味なくらいかも。それなのになぜ、そんな足音で近づいてくるのか。全体重を意識的に(かかと)にでも集中させない限り、その体型でそんな音はしないと思う。

 平日夜の九時。しがない賃貸マンション。木造アパートでなくて良かったというべきか。それでも近所迷惑というものを考えろ。


 どすん。そのままの勢いで床に(ひざ)をついて。ベッドにごろんと横になっていたわたしの(はら)に、彼は顔を(うず)めた。彼の右手に握られたナイロンのブリーフケースは彼と共に床に着地。そのあと、その手を離れてバタンと横に倒れた。


 どすんどすん、どすん。その延長で来られたら一体どうしようかと戦慄したけれど、わたしに触れるその一瞬、彼はスローモーションになった。

 ゆるゆると、彼の顔面はわたしの腹肉(はらにく)にめり込んでいく。その後頭部が上下に揺れる、わたしの呼吸と共に。旋毛(つむじ)のあたり……、ううんこれは見なかったことにしましょう。人間男性の髪の豊かさについて、年齢はあまり関係ないらしいし。


 それより、そろそろこの頭を腹から引き離したほうがいいかしら? 息できないとまずいよね? 随分動かないけど。え? もしかしてもうしんだ? 爪の先でちょいちょいと、彼の耳のあたりをつつく。

 がばっと起き上がった。


「神は馬鹿だ」

 この世の終わりみたいな顔をしている。大体いつもぼけーっと、寝ることと食べることくらいしか考えていなさそうなのに。急にどうした。会社帰りに怪しい団体にでも声をかけられたのか。


「約束してほしい」

 今度は唐突に、凛々しい表情を覗かせてきた。

 騙されないぞ。ちょっと前髪が伸びて雰囲気イケメンっぽくなってるからって、所詮フツメンは本物のイケメンには勝てないんだからな。ていうか、ただ最近美容室行くのサボってるだけでしょう。清潔感大事。そろそろ上司に怒られるよ。

 そんなことを考えつつ、彼の目をじっと見つめ返す。こういうときは逸らしたら負けだ。


 堰を切ったように、彼の口が続きを吐いた。


「絶対に、元気でいて」

「…………」

「年をとらないで。衰えたりしないで」

「…………」

「死なないで。僕より先に」

「…………」

「人類が滅亡しても、地球が爆発しても」



 ……こやつなかなか無理なことを言う。

 異様な様子で帰宅してきたかと思えば、一体全体何を言っているのか。全く訳が分からない。やっぱり何か、変な人にでも話しかけられたのか。明日世界が滅亡するとかなんとか。


 いや待て、年をとらないでとかも言っていた。若い子のほうがいいとかそういう話か。んー、まあわたしだってそれなりに、若い頃は結構素敵だったと思う。漆黒の毛は今よりもっと艶々(つやつや)でしっとりしてたし、体型はシュッとしてしなやかだった。モデルにだって、なろうと思えばなれた気がする。自分で言うのもなんだけど。でも今だって、別に老けたってほどでもない。例えばちょっとたぷたぷになったお(なか)だって、嫌いじゃないでしょう?


 溜め息を吐く代わりに、わたしは欠伸(あくび)して誤魔化した。ぴょんとベッドを降りる。無視されたととったのか、恨めしそうな彼の視線が背中に刺さる。知らんふりして床に落ちていたクッションに腰かけて、チラリと様子を窺えば。彼はわたしの腹の代わりに、ベッドの上の枕に顔を埋めていた。また動かない。今度こそしんだか。


 視界の端に、一冊の本が見えた。先ほどブリーフケースがバタンと倒れたとき、衝撃でそこから飛び出たもののようだ。それにしても一体どれほどの衝撃だったんだ。栞の挟まれたページが開いている。本屋さんで本を買うとたまに貰う、ぺらっぺらの紙のやつ。ハードカバーだから本自体に紐の栞も付いているのに。特に読書家ってわけでもないけれど、彼は時々思いついたように本を買ってくる。きっとまた、その日の気分でジャケ買いでもしたのだろう。


 ふと気が向いて、そのページを覗いてみた。どれどれ。ふむふむ。

 ……………………。


 …………なるほど。

 彼の奇行の理由が、ちょっと分かったかもしれない。



 そのページには、この世界で神が犯した絶対的なミスについて書かれていた。重大な設計ミス。人が神は馬鹿だと罵り、無神論者になるほどの。その一つのミスのせいで、人間は不幸なまま生きるしかないと。


 これを読んで、彼は絶望したのか。自分の不幸に気づき、嘆き悲しんでいるのか。……うーん。


 その本に書かれた重大な神のミスとは。わたしたち種族が不死身ではないこと、だった。わたしたちが衰え、あるいは病気になり、あるいは災厄に見舞われ、いつかは死ぬこと。

 すべからく、人が死のうと、世界が滅ぼうと、わたしたちだけは無敵で、そんなことを気にもかけず何の変わりもなく生きていくべきだ。それだけで、人間は幸せに生きて死ぬことができるのに。そうでないこの世界はおかしい。人類は不幸。神は馬鹿だ。

 それが、本の著者ないしその文章における語り手、そして彼の主張らしい。


 …………。


 わたしは考えた。


 わたしたちが不変であれば、彼は幸せなのだろうか。

 年をとらず、病気にもならず、ずっと変わらず、彼の隣に。確かにそれは、幸せかもしれない。だけど。


 じゃあ、わたしが病気になったら? とっても年をとって、歩けなくなったら?

 彼は心配するだろう。薬を飲ませたり、トイレを手伝ったり、彼なりにできることをしてくれると思う。弱ったわたしを見て、悲しむかもしれない。

 わたしが死んだら?

 彼は泣くだろう。一日中枕に突っ伏して、ごはんも食べず。会社くらい、平気で二、三日休むかも。

 でもそれは、不幸なことなのだろうか。


 そりゃあまあ、病気や衰えで体が思うように動かなかったら辛いかもしれないし、痛いかもしれない。死ぬのだって、苦しいかも。どうせなら、わたしだって、元気でずっと一緒にいたいけど。


 でも。

 彼が、わたしが元気でもりもりごはんを食べているのを見る時間と、弱ったわたしを心配そうに見る時間は、何が違う?


 もしくは。彼にとって。

 たとえ何があっても、自分が死のうと、地球が滅びようと、わたしたちが不死身で、いつでも元気に自若として生きる存在であることと。

 わたしたちが病気になったり、事故に遭ったり、いつか失うかもしれない、そんな思いと共に、あるいは実際に失くして、それを抱え、それは神を恨むほど悲しいと思いながら、生きて死んでいくこと。

 この二つは、何が違う?


 いずれも前者は幸せで、後者は不幸せなのだろうか。



 彼を見る。絶賛絶望中である。枕にめり込んでいる。時々もぞもぞと動いているから、一応息はできていると思う。



 まあ、元気出せよ。

 わたしは再び欠伸をした。


 そんなことで悩んで、落ち込んで、仕方ない子だなあ。

 困ったように、わたしは笑った。というかまあ、もしわたしたちに人間と同じ表情ができるのならば、多分そんな感じの顔をしていた。



 それでも、そんなこと、なんてわたしが笑えるのは。

 結局のところ、天変地異でも起きない限り、彼よりわたしのほうが先に死ぬから。わたしの寿命が尽きる頃、彼はまだまだ働き盛り。その先もきっと、くだらないことで笑ったり落ち込んだりしながら、変わらない毎日を生きていくのだろう。そう思うから、わたしは安心して今日を生きられる。


 あれ、なんかこれって矛盾してるかしら。

 ……んん、難しいこと考えすぎた。とりあえずちょっとだけ、慰めるポーズを見せてやるとしよう。



 わたしはクッションから立ち上がり、背をしならせてうーんと伸びをした。ひらりとベッドに飛び乗り、枕にめり込んだままの彼の頭の横まで歩み寄る。

 旋毛付近が多少心配な後頭部に狙いを定め。そうしてわたしは彼を、ちょっぴり鍵のように折れ曲がった尻尾の先で、たしったしっと優しく殴りつけた。








お読みいただきありがとうございます。

松田青子さんの「神は馬鹿だ」という作品を読んでいて、どうしても書きたくなって書きました。(未読の方にも読める内容に書いたつもりです。)


本作中に出てくるものもそれです。とても短い作品ですが、彼らを愛する方々にはものすごく共感されるかと。以下参考文献のほか、『女が死ぬ』という書籍にも収録されているようです。


本作について、実在の書籍を題材にしており、直接引用ではないので大丈夫とは思っているのですが、もし何か問題ありそうでしたら教えていただけると助かります。


これだけ書いておいて、それでも、私は神は馬鹿だと思います。

皆様の愛するものが、いつまでも健やかで幸せでありますように。



[参考文献]

「神は馬鹿だ」(松田青子『ワイルドフラワーの見えない一年』河出書房新社、2016年所収。)


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― 新着の感想 ―
[一言] 語り手の正体に気付いた時、成る程とすとんと納得しました。確かに、彼よりも先に主人公は旅立ってしまうのかも知れません。それを想像してしまうと……彼のような挙動になってしまうのもおかしくはないの…
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