肥満の吸血鬼
房八の腕に広がっていた、まるで焼けた焼肉の網を押し当てられたかのような爛れた網状の発疹。それに間違いなく見覚えがあった。雛衣は息を飲み、弟の身体にすがりついて止める。
「房八待って!」
「なんだよ!止めんな!」
「違う!キリヤ来て!」
雛衣は房八の身柄を拘束したまま叫ぶ。切迫した悲鳴に近い叫び声を聞いて、キリヤが取っ組み合いそうな姉弟のそばに戻ってくる。
「キリヤ、この傷……!」
「なに?なんだよ?」
「……!」
小さな姉の手にぐいぐい引っ張られていた右手が、その小さな手からキリヤへと受け渡される。困惑する房八の肩に、キリヤが手を置いて真っ直ぐこちらを向かせる。
辺りは空が真っ暗で、互いの表情を確認できるのは町のあかりと弱い半月の月明かりのみである。
「……この傷が出来たのはいつだ?」
「え……?今朝だったと思うけど……」
「経緯は?」
「え、なんか、おれ毎朝新聞配達のバイトしてるんだけど、いつも回ってる家の周り走ってたら、近くの家の屋根の上から赤いビニール袋?みたいなのが落ちてきて、腕に巻きついて引っ張られて転んだんだよね」
「なにそれ……!聞いてないよ!」
「今朝、俺とねーちゃん会ってないからね。俺がバイトから戻ってきたら姉ちゃんは開扇祭にもういってたでしょ」
「キリヤ、これってまさか……!」
「……朝何時だったか分かるか?」
「5時半くらいと思うよ」
「朝5時半……日の出前だ。」
キリヤはヒナを見る。ヒナの目には強い恐怖がある。息を飲んで医師の診断を待っている。そして、残念ながらその恐怖は的中しているらしいことを、キリヤは小さく頷くことでヒナに伝えた。ヒナが青ざめる。
「感染の恐れはある。だが問題はそれだけじゃない。吸血鬼は、己の血を媒介に魔法をつかう。これは恐らく、《マーキング》だ。」
「どういうこと……?」
「この痕がついたのが午前5時半だとして、何故その吸血鬼はその時に血を奪えるだけ奪わなかったのか……。それは、自分の血を獲物に混ぜ、どこにいるのかを把握するためだ。夜になってから近くにいる獲物を捕食するために……」
「それって…………!」
空の半月が、屋根の上で話している人間たちを見下ろしている。若者が三人、魔法で誤魔化していたとしても、月の光の豊富な魔力を利用すれば、人間など簡単に可視化できる。
──吸血鬼にとって、たとえどれほど肥大化した身体でも、魔法さえ心得ていれば隠すことは容易だ。
地上は、いわば大量の魔導がたくさんかたまっている川のようなものだ。人間はその中で生活している魚みたいなもの。魚は川の中のちょっとした変化にも敏感に回避するが、その魚たちのテリトリー外である空から浮いて落ちさえすれば、地上を泳ぐすばしっこい小魚でも隼のように捕食できる。
月光に隠れていた体が夜空の真ん中で音もなく姿を現す。
そして、早見家を簡単に押し潰してしまえそうな巨大な顔が、まぶたを切り裂いて作ったような巨大な眼球ふたつと、ホットドッグのパンのような半分に裂けるほど空いた口。
灰色に人の皮膚の変色した、腐った肉塊でできた身体。確実に捕食できる位置にまで降下してから、その口を、がぱとあける。
手の発疹を囲んで見ていた3人の視界が、突然暗く影になる。
それと同時に、ヒナとキリヤの背中に、ゾッと舐め上げられるような悪寒が走る。辺りに呼気のように漂う死臭。陰惨で残虐な死の気配が三人の上半身を齧り取ろうとする。
そして、房八と雛衣の感覚が敵を捕える速度と、キリヤがそれの位置を正確に把握するのとはほぼ同時だった。
「────────上だ!!!」
目の前にあるのは、巨大な生き物の黒ずんだ『顔』だった。
あわせ鏡のように何重にも肉の瞬膜のある赤い眼球が、真上からこちらを見ていた。
その真っ赤なふたつの眼球の下に、巨大な口がぽっかり相手いる。長い串刺し用の針のような歯が上顎から無限に生えていて、ヒナ達の眼球ひとつひとつをちょうどつらぬけるように迫り来る。その歯の間に、くちゃくちゃにされて捨てられたガムのように潰れた人間の子供の死体が、折りたたまれて何百も重なっていた。殺して喰った人間の体に血管を繋げ、腐りすぎないように保存しているのだ。そして、スルメの旨味をすするように、人間の死体から滲んでくる腐った汁を啜っているのだろう。上顎のところに引っかかっている殺された子供の、しわしわの目玉と、ヒナは目が合った。
針山地獄のような歯の向こうに、赤い蛇の巣のようなぬるぬるしたまだら色の肉管が見える。あれは進化した舌だとヒナは勘で思った。なぜなら、その肉の管に見覚えがあったからだ。
(あの管だけ、あいみとおなじ、──────)
歯が閉じる寸前、姉弟の体が何かに掴まれて真横に吹っ飛ぶ。なにかに衝突したように飛んでいく体は、弟が小さな姉を抱えたまま屋根の上を転がっていって、トタンの屋根の車庫に放り出されるように落ちる。
「っ……!!」
ゴンッとバットが背中にぶつかって痛い。しかし、屋根に飛び出たトタンを止めるネジで怪我をしなかったのは、バットがクッションになったおかげかもしれない。房八は子供化した姉を胸の上に抱き抱えていたのを、すぐに覆うように体を転がせて庇い、今まで自分たちがいた方を見上げた。
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
人間の頭が、頭だけの、首も肩も身体も足もない、ただ丸い頭だけで浮いている巨大ないきものが、ゆっくりと回転してこちらを見た。
酷く太って、でっぷり真横に広がった灰色の皮膚が網のような穴だらけの化け物。目と口しかないその怪物が、屋根から太った体をにじらせて、ニタニタと笑いながらこちらを見下ろしている。
「この味、この魔力……!魔法使いがいるなぁぁぁ〜〜???」
唇の穴に染み込んだ真新しい血を、口の中からチロチロと出てくる肉管でべろべろとしゃぶる。
腫れて腐った水膨れの中で喋っているのかと思うほど、酷く雑音の混ざった聞き取りづらい声が喋る。およそ人間の言語とは思えない怪物の声。房八は雛衣を抱きしめたまま震え上がった。
「なんだよあれ────」
「いいなぁ魔法使いの味はぁ……最高だなァ……!」
言葉と言葉の間に、豚の鳴き声のような、鼾の音のような呼吸音のような雑音が混じって、上手く脳に言葉が入ってこない。
「霊感のいいガキを探していたら、思わぬご馳走に巡り合ったなぁ……ありがてぇなありがてぇなぁ………」
「ッ……」
雛衣が、姉が師匠と呼んだ男は、右足を押えている。屋根から玄関の前まで血が飛沫のように飛び散っていて、雛衣と房八を逃がすために屋根から地面まで飛び降りたらしいのがわかる
。
怪物は黒いスーツの彼を見て、嬉しそうにニヤニヤと笑っているようだ。ここからだとよく見えないが、彼の右足は膝から下がずたずたに引き裂かれているように見えた。
「キリヤ……!!」
「二人とも逃げろ!俺にかまうな!」
「無〜〜〜駄だよぉぉ〜〜3人とも食ってやるからなぁぁ〜〜!!」
化け物の眼球が体内に引っ込むように下がり、口の中から入れ歯が飛び出すみたいに両顎が飛び出て、飛び出した剣山のような歯がキリヤに迫る。キリヤは燕のようにそれを躱して空に舞いあがる。右足から彼の血が霧のように舞い飛んだ。
「逃げても無駄だぜぇぇ魔法使イイィィィィィィ!!」
空を飛ぶだるまのようなそれは、黒いスーツの青年に噛み付こうとするところをまた躱される。しかしその頭だけの化け物は楽しそうに口を開いたり閉じたりしながらくるりと向きを変える。何も噛んでいないはずなのに、顎を開け閉めするとぐちゃぐちゃと何かを咀嚼する音が聞こえてくる。
「おまえ、何人食った」
「はぁ〜〜〜〜????」
「口の中にも大量に人間を保存しているな。全て絶命してはいるが、代謝機関の一部を吸血鬼の血管で代用して、死体のまま保存している。よくもそんなふざけた芸当を思いついたものだ」
「地上ぉ〜〜の人間だっておなじだろぉ〜〜?うめぇぇ〜ものを安心して喰いたいがためにこぉ〜〜んな立派な街を作ったじゃねぇかぁ〜〜おれさまの狩場をなぁ〜〜???」
「……同じだと思うのか? お前のそれと」
「違うのかよ〜〜???月に住んでる魔法使いは上から目線でしょうがねえぇ〜〜よなぁ〜〜???」
「………………」
「魔法使いは月に住んでるんだろぉ〜〜?? 前に食った魔法使いが教えてくれたぁ〜〜……血から記憶を読んだだけ、だけどなぁ〜〜あ゛ははははぁ゛〜〜!!」
キリヤはそれ以上問うことをやめ、左耳のイヤーカフに手を当てて、自分の装備を整える。青い光と起動音とともに、キリヤの身体にフルフェイスのヘルメットと黒いコートが錬成される。そして、キリヤは右手をかざし詠唱を始号する。
「──灼却執刀」
キリヤの右手のひらが青く輝き、閃光と共にマグナム銃を手にする。既に魔法弾は装填済み。全弾が『解錠弾』でできており、被弾するだけで周辺部位の魔力の還流を解除してしまう。
「早急に終わらせたい。暴れるなよ」
「おれさまは暴れて貰いたいけどなあ〜〜??? 程よいアツアツをいただきてぇからなぁぁ〜〜???」
「は、離して房八!あたし行かないと……!」
「行くって、どこ行くんだよ雛衣!」
「闘うんだよ!キリヤを守らなきゃ!」
「でもあの人、逃げろって言ったぜ!?本当にあんなのとやる気かよ!?行ってどうするんだ!?勝てっこないぞ!?」
「っ……!」
逡巡する。空を貫くような銃声が響く。静かな住宅街に、彼の銃声は聞こえないようだ。光と音の方角からいって、キリヤはだんだんと人のいない方角に移動しているようだ。ここは住宅街の1番端っこで、少し走ればすぐ人気のない森につく。
ヒナは頭皮を掴んで一生懸命彼に言われたことを思い出す。
『──だがそれも、吸血鬼から直接捕食されたら一巻の終わりだぜ。鎧の中身は一般人なんだからな』
「信じて待つべきなの……? それとも……」
このままだと、状況はどうなる? 魔法には魔法で対抗するしかないとキリヤは言っていたが……。
もし仮に魔法が万能なら、ヒナはそもそも一人で愛美の手術に踏み切らなくて良かったはずである。谷口も足立もあの親子も、死なずに済んだだろう。キリヤはあの結界の中で、エレベーターいっぱいに発生していた眷属を一瞬で消し飛ばしていた。しかし、その後に現れた白い幻覚の吸血鬼とは決着をつけるのに時間がかかっていた。
ヒナは必死に、キリヤと話したことを反芻する。
『────眷属一体一体はそれほどの脅威じゃない。紫外線やアルコールや塩、石鹸、あるいは流水でも。ただ血で織ってあるだけの眷属なら、科学的に血として不活性になるものを叩き込んでやればすぐに機能しなくなる。古代の吸血鬼を銀の斧や銀の杭で貫くのもそういうことだな────』
「科学……科学ならアイツらの攻撃に効くってこと!?」
「……?」
房八は小さい姉が頭を抱えているのを見て小首を傾げている。珍しく、真剣に何かしら考えているらしい。雛衣が頭を使っているところなんて初めて見る、という顔で小さい頭を悩ませている彼女を見つめる。
「血が血じゃなくなればOKってこと、かな? あ、でもそれだけじゃあ本体には勝てないのか!」
「雛衣、何言ってんだ?」
「い、今考えてるの!あいつに立ち向かう方法を!」
「でも逃げろって……」
「逃げるだけじゃダメだよ!もしキリヤが殺されたら、次に狙われるのはあんたなんだよ!そしたらいくらあたし達が逃げ足に自信があっても、あんなの相手じゃひとたまりもないよ!叔父さんたちやお母さんも狙われるかも……!」
「そう、だな……」
房八の表情にようやく恐怖が浮かぶ。彼は無意識に腕の発疹を袖で隠す。
やつは襲いかかる直前まで3人のうち誰にも接近しているのを悟らせなかった。あんな化け物に追い回されたら、二人ともきっとすぐ食い殺される。
ヒナはあの時、谷口が音もなく食い殺された時のことを思い出して眉をしかめる。もう二度とあんな風景はごめんだ。
「キリヤの魔法は強力だけど万能じゃない……!だからあたし達が少しでも援護しないと!」
「援護って、でもどうやるんだ?」
花火が遠くで轟くような音が聞こえて、房八はそちらを気にしている。どうやら房八にも、キリヤたちがどのあたりで交戦しているのか把握出来ているようだ。ヒナは小さい腕を組んで考える。
「……ねえ房八。家に塩、あったよね?あとアルコール除菌液みたいなやつも……」
「あ、ああ……」
「ありったけ持って行こう!」
「うん、分かった!」
「あ、房だめ!上から入ろう。お母さんに見られちゃう」
「上か。よし」
「霧吹きあったよね?あたしの机の引き出しにあるはず」
「俺も靴取ってこないと!あとチャリの鍵!」