お前のせいだろ、魔法使い!
雛衣から来た電話は、明らかに様子がおかしかった。底抜けに明るい姉の声色が、明らかに不安と恐怖に沈んでいた。ただならぬ彼女の様子から、つい要求を飲んでしまったが、やはり何かおかしい。予想されていた通り犯人に人質に取られてしまったのかもしれない。それで要求を警察に伝える役としてまだ15歳にもならぬ子供である房八を選んだとか……?
狭い子供部屋に入る。この部屋は雛衣とずっと共用で使っている。小さいそれぞれの学習机と二段ベッドしか入らない狭い寝室だ。それでも何だかんだ、姉とは仲良く使ってきた。房八は自室の電気をつけて、クローゼットを開けた。
まだ夜は寒いし、ダウンを着ておこう。そして、ダウンにかこつけて、背中に金属バットを忍ばせてやる。
房八の特技は、確かに野球だ。でもそれよりももっと得意なのは、荒っぽく暴力をふるってくる連中を、それ以上の実力でねじ伏せること。しかし、野球は好きでやってるが喧嘩は好きでやったことは一度もない。それに今まで素手でしかやってこなかったし、自分が本気でヒトに金属バットを振るうとどうなるかなんて考えるだけでも怖いが、それでも姉を脅す屑なんかに負ける訳には行かない。自分の人生全部棒に振ってでも、雛衣に怖い思いをさせたやつにひと泡吹かせてやる。
バットケースの上を開け、その中に使い込んであるバットを入れ、上を閉めずに上着を着る。これで、背中に手を突っ込めばいつでも抜ける。あとは、猟犬のように敵の隙を狙っていればいい。隙を嗅ぎ分ける嗅覚には自信がある。
雛衣の机の横からベランダに出られる。教科書を置いたままの雛衣の机を通ってベランダへ出る窓を開ける。
耳を澄ますが、特に違和感はない。ただ一つだけ、この部屋の屋上に何かいるのは、勘でわかる。
「────よっと……」
房八は軽くジャンプして屋上のへりにつかまる。それから懸垂で上をちらと見る。
なにか、こぢんまりしたものが座っているのが見えた。両足を揃えて座っている影。姿勢的に明らかに見慣れた影だ。房八は腕だけの力で全身を弾ませて屋上に上がった。屋根のタイル瓦はかなり薄いはずだが、妙にしっかりと踏めた感触がある。
夜の闇の中で、小さな影に話しかける。
「────姉ちゃん?」
「房八……」
「姉ちゃん!」
小さな影が返事した。房八は駆け寄る。しかし、近づいたのに大きくならないかげに、房八はやがて足を止めた。
「…………あたしが見えるの?」
「姉ちゃん、だよな……?」
「…………うん。」
「……????」
房八は仰天して首を傾げる。小さな影はつぶらな瞳でこちらを見上げている。子猫みたいな目の色、きつね色の髪、幼くて柔らかい声色。確かに姉の特徴と一致してはいる。
しかし。
「…………ちっちゃくね……?」
「……やっぱそう思うよね?」
ヒナは体操座りのまま苦笑いした。房八は愕然として姉を見つめる。半ばくずれおちるように膝立ちにかがみ、ヒナの狭すぎる肩をぎゅっと捕まえて見つめたあと、丸いふわふわのほっぺをぎゅむと挟んだ。
「わ」
「…………幽霊とかじゃ、ないよな」
「縁起でもないわ、やめてよ」
「マジで姉ちゃんなの……?何があったの……?」
「……色々あったんだよ。最初に聞きたいんだけどさ房八」
「なに……?」
「あんた幽霊とか見えるけどさ………吸血鬼がいるって言ったら信じる………?」
「………………」
雛衣を名乗る小さな女の子は、膝の上に自分の小さな頬を乗せて尋ねた。
目が赤く腫れて、顔色に疲れが見える。下弦の半月の薄い月明かりの下で、彼女は疲れた声でぽつりと尋ねた。
キリヤはアンテナの後ろに立って二人の様子を見ている。房八がヒナには気づいてもこちらに意識を向けていないのは、やはり能動的な《干渉同化》の魔法は視認できないからとみていいだろう。
魔法使いの鎧をまとっただけでは、完全に見えなくなることはない。存在感が薄くなるだけで普通にいるようには見えるのだ。完全に見えなくなるには相応の魔法が必要だ。
要するに彼は、生得的に魔力による索敵に長けているのだろう。そういう体質の人間はちょくちょくいる。
「吸血鬼……?」
「南宇治上で行方不明者が出たのは、吸血鬼が出たからなの。でも吸血鬼は悪い人とかじゃなくて、病気でそうなっちゃうもんらしくて……」
「なんだそれ……? 誰から教わったのそんなの……?」
「えーっと……」
雛衣らしき幼い少女はくるりと後ろを振り向く。すぐ側から急に靴音がして房八はとっさにみがまえる。
姿を現したのは、黒いスーツを身にまとった黒髪の青年だった。
足元が、歩く度青い波紋を広げている。
それを見てようやく気づいたが、どうやら房八の足元にも、そして雛衣らしき子の足元にも同じ波紋ができている。彼の足元の光が、3人の中ではいちばん強いようだ。
「……吸血鬼専門の主治医らしい。この人」
「医者なの……?」
「で、魔法使いなんだって」
「……………………」
「……………………」
「……いや2人とも。挨拶くらいしたら?」
黙りこくる二人に、ヒナが呆れて声をかけた。キリヤは内心の読めないポーカーフェイスを貫き、房八も何から聞けばいいのか分からないままキリヤを見上げて硬直している。
「……雛衣を子供にしたの、あんた?」
「いや。そうなったのは事故だ。原因は分からない」
「どういうこと?もうさっぱりなんだけど。マジで雛衣なの?かーさんになんて言うの?」
「分かんないよ……とりあえずこの人の話聞いて。」
「吸血鬼は、実在する。ウイルス性の感染症だ。」
「……インフルエンザみたいな?」
「そうだ。そしてその感染者のひとりが、君の姉の友人だったらしい」
「誰それ……?」
「……愛美。房も会ったことあるよ。」
「ああ……。じゃあその人が吸血鬼だった……ってこと?」
「ああ。吸血鬼は心臓部に特殊な腫瘍を作る。それを切除するには特殊な技術が必要だが、彼女はそれを無視して切除した。友人のための勇気ある判断だった」
「それで……?」
「本来なら死ぬはずだった。だが、運のいいことに──かは分からないが、君の姉は生きていた。子供化した理由は分からない。これから調べる。なにせついさっきの出来事だからな」
「じゃあ、犯人が逃走してるのって……」
「部外者ではなく生徒の犯行だったんだ。しかし最早原因はそこにいる幼児のおかげで取り除かれ、脅威はない」
「姉ちゃんはどうやったら戻れるんですか?」
「……それも分からない。俺は吸血鬼ウイルスに感染した人間を治す医者で、医療事故に立ち会った人間をどうこうする医者じゃない。そいつが自分で見つけるしかないな。」
「ッ……ふざけんなよ!」
「ふ、房八!」
激昂した房八がキリヤにつかみかかった。房八より背の高いキリヤの身体が胸ぐらを掴まれて浮きそうになる。だがキリヤは、まるで初めから知っていたかのように表情を崩さなかった。ヒナだけが驚いて房八とキリヤの足の間に割り込む。
「房八!」
「アンタは何してたんだよ!? なんで雛衣がそんなやべえ手術しなきゃいけなかったんだよ!?何が勇気ある判断だよ!お前がちゃんとしてりゃ雛衣は死にかけずに済んだってことだろ……!」
「………………」
「自分で見つけろって何だ?あ? お前が責任もって姉貴を元に戻せよ……!」
「房八……」
「……………………」
ヒナは鉄筋よりも硬い房八の腰あたりにしがみついて押し返すが、7歳ほどの身体の今のヒナに、本気の房八を押し返す膂力はない。それになにより、今まで見た事ないほどに激怒している房八に、気圧されてすらいる。
房八は穏やかな方だ。昔から正義感が強く余計な喧嘩に首を突っ込むきらいはあったけれども、専ら仲裁役で、自分から殴り返したりするような子ではなかった。
それが、落ち着いている相手に自分からつかみかかって行くなんて、雛衣は初めて見た。
「……君の言う通りだ。俺は殴られたって文句は言えない。“発症”よりも早く感染者を抑えられなかったのも、吸血鬼の腫瘍を切り出す場に俺が間に合わなかったのも、そして君の姉を元に戻す手だてがないのも、全ては俺が無力なせいだ。」
「………………」
「何故俺が君の姉を元に戻すことが出来ないか……理由は簡単だ。俺は吸血鬼で手一杯で、君の姉を治療する余裕がない。ただそれだけだ」
房八の額に青筋が浮く。
あまりにも淡々と答えるキリヤの姿は火に油を注いでいるようにすら思える。
そりゃあヒナだって初めはむちゃくちゃだと思った。しかしあの結界での死闘を知れば、誰だってキリヤの大変さがわかると思う。それでもキリヤは約束通り愛美を助けてくれた。だからその事はもういい。
ヒナは弟の足に縋り付く。
「ダメだよ房八!あたしちゃんと分かってて聞いてるんだから!」
「何が“分かってる”だよ!ほっとかれるんだぞ!警察も医者も『分からない』だの『忙しい』だのすぐに言って、俺たちを見捨てるんだぞ!」
「違うんだよ房八……!あたしは自分で何とかしなきゃいけないんだよ!」
「………!」
房八の手が止まった。
キリヤは房八の殺気に満ちた目を真っ直ぐ見つめ返し、決してそらさない。冷たく凍りついたような表情とは裏腹に、目の奥に強い悲しみが見えた気がして、房八はゆらぐ。
ヒナは小さい手で弟の腰に抱きついて叫んだ。
「あたし、魔法使いの弟子になるんだよ房八!自分の意思で選んだことだから、自分の力でなんとかするの!この人が弟子にしてくれるって言うから、あたし行くの!だからお別れを言いに来たの!」
「…………!」
房八はようやくキリヤを掴んでいた手を解いた。腰に抱きついていた雛衣の肩に手を置いて、雛衣の濡れている目を確かめるように覗き込む。
「なんで……? 雛衣、いまなんて……!?」
「っ……!」
房八は雛衣に抱きつくほどに強く肩を掴んだ。
幼いが、確かに姉とおなじ目をした彼女を見つめる。
房八が乱暴に目を合わせると、雛衣は悲しそうに俯いた。この小さい手では、房八の手首は大人のように感じる。房八が肩に重ねる温かい手をぎゅっと握って、震える声で答える。
「房八。こんな身体になっちゃったのは、本当に事故なの。誰も悪くないことだけど、なっちゃったものは自分で自分の責任とらないといけないの。みんな自分のするべきことで手一杯だから、あたしはあたしで魔法を勉強して、元の身体に戻る方法を探すの。そしたら帰ってくるから。そのためには、今までの自分とお別れしないといけない。でも房八たちは大丈夫。お別れしても辛くない魔法があるんだって……。」
「………………」
「ごめんね房八……」
房八の両手を、そっと包む。久しぶりに触った弟の手は、記憶よりずっと大人らしくなっていた。房八の顔も、大人びて見える。記憶に遠い父の面影を感じて、雛衣は切なく微笑んだ。
(3/12更新分に続く)
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