巨頭ヲ見つける
「キリヤー、結べたよー」
「ああ……」
「……聞いてる?」
ヒナがキリヤを下から覗き込む。
キリヤは生返事で症例記録を遡っているようだ。彼の両目にスマホの画面が映っていて、画面にびっちり細かく書かれた文字が縦に延々とスクロールされている。
「……房八のこと心配なんだけどなぁ……」
集中しているらしいキリヤはほっといて、公園の外へ視線を外す。夜の公園のオレンジの街灯に、大きなケヤキの葉が反射している。
この公園の木々は周りの建物より背の高い木が多い。キリヤがバイクを置いているところには藤棚もある。
春夏秋冬、誰が来ても楽しめるようになっているそこそこ広い公園だ。
公園全体が緩やかな坂になっている。住宅街は公園と平行に、緩い坂にそってそっくりな家々が大量に並んでいた。
上の方はすぐに山がある。
古びた鳥居がぽつんとあるだけの神社と、手付かずの森が拡がっている。昔はここら一帯が低い山で、ヒナ達が今住んでいるのはそこを切り開いてつくった住宅街だ。山の向こう側の斜面は全部森で、猪やらクマやら、人を襲う動物が生息して危険なため、あまり立ち入らない方がいいと言われている。街には馴染みの森だ。
その森の前の鳥居を横切る、狭い道路に。
「………………え?」
ヒナは、人の頭を見た。
凄く巨大な人間の頭が────住宅よりもまだ大きい人間の頭部のみが、ひとつ筋が向こうの道路を滑るように移動していくのを、ヒナは見てしまった。
「な…………ねぇ、なに」
凄まじく丸い頭だ。まるで落ち武者の首みたいに顔色は灰色で、頭のてっぺんから薄い髪が生えているが、それはまるで大量のムカデでできているかのようにヌルヌルと常に蠢いている。
鼻血だろうか、それとも口から出ている血か?ごろごろと転がる巨大な人間の頭部が、血を滴らせながら鳥居の前を横切って、ヒナの家の方へと転がっていった。
「…………ねえ!ねえったら!」
「どうした」
「い、今なんか……今変なのがいた!見なかった?」
「変なの?」
ヒナは肝が潰れそうな恐怖でキリヤのスラックスにすがりついた。
キリヤはヒナをようやく見下ろす。器用なもので、地面につくほどだった彼女の髪は丁寧に編み畳まれて膝裏くらいの長さになっている。
さっき彼女に渡した髪ゴムは、キリヤが特殊な魔法を混ぜて編んだものだ。魔法的な攻撃でもされない限り髪が落ちなくなる。魔法使いは髪の毛一本、血の一滴でさえ敵に奪われてはいけないもの。魔法の手の内を知られてしまうからだ。
キリヤはヒナの見ていた方を眺めた。脅えながら話していた割に、指さす道のあたりは穏やかで、特に違和感はないように思える。
「……変なのってどんなのだ?」
「なんか、不気味な首だけのやつ……怖いよ早くうちに行こう!」
「首? それだけじゃ何も分からねぇよ」
「めっちゃでっかい首だけのやつ!さっき転がっていってたの! 魔法使いでしょ、化け物いっぱい知ってるでしょ!」
「……………ひとくちに化け物と言ってもだな……」
幽霊やら妖精やら、果ては人狼に至るまで、一般人が知らないだけで魔物だって妖怪だって結構現世にうようよいる。彼女の言っている情報だけでは具体的にどんなものかは分からない。
「うちに戻って、それでどうする? 今監視しているところだと、まだ家から誰も出ていないぜ。せめて叔父と叔母が出ていってからの方が」
「そうだけどさ、さっきの首があたしの家の方に行ったの! うちの皆に何かあったらって思うとさぁ……!」
「…………」
キリヤは、濃い青のワンピースを着てこちらを一心に見上げてくる幼い少女の群青色の目をじっと覗き込むようにみつめ、この大きなふたつの瞳に映っていた物を探す。
ヒナは吸血鬼の結界に囚われながらも生還したただ1人の女子高生だった。彼女の危機察知能力には《実績》がある。
「……どれくらいの大きさだったんだ?そのデカい首とか言うのは」
キリヤは吐息混じりに尋ねる。
「周りにあった家より大きい、巨人の首みたいな頭だよ!それで丸くて、バランスボールみたいにぶよぶよ柔らかそうな感じ? 顔がちゃんとあったんだけど、なんて言うかさ……」
ヒナは口ごもる。表情は酷く青ざめて見える。キリヤの黒いスーツの袖を掴んでいる小さな指が震えている。嫌な思い出が、ヒナの脳裏に蘇る。
「吸血鬼の結界で見た化け物に似てた……」
「……!」
「ねえキリヤ。あの化け物たちはなんなの?あの結界とか言うののことも、あたし何も聞いてないよ」
「……そうだな。かいつまんで説明するか」
落ち着いて説明する余裕はない。どこから話すべきか、それも問題だ。もしヒナの今見たものが吸血鬼なら、この後戦闘もありうる。《吉岡愛美》の転送は無事に終えているとはいえ、彼女もヒナも早急に診察したい。遭遇・戦闘はまぬがれたいところだ。
「吸血鬼の結界は、言わば吸血鬼の胃袋だ。捉えた人間をそこに引き込んで捕食する。胃袋の中には、消化酵素のように吸血鬼の《眷属》がうようよ湧いている」
「眷属って……?」
「お前も見たろう?コウモリやら上半身の化け物やらのことだ。あれは、網状の吸血鬼の血管を織って作った、吸血鬼の血管の一部だ。」
「あれも吸血鬼のからだの一部ってこと……? じゃあウイルスっていうのはどうやって伝染るの?空気を吸うだけでもダメなの?」
「いいや。たとえ結界の中でも飛沫感染はしない。吸血鬼ウイルス自体はごく弱いんだよ。水がかかっただけでも機能を失ってしまうほど脆く、血液中にしか存在できない。ゆえに、感染経路は吸血鬼から血を吸われた時だな。奴ら吸血鬼は血管を突き刺して吸血する。このときに吸血鬼の血と被感染者の血が混じることでウイルスが伝染する。そしてウイルスの増殖は、結界の中だと格段に早く進む。身体を《眷属化》させてしまうほどにな……」
その話を聞いて、ヒナはあの日結界の中で出会った中学生の女の子のことを思い出した。ヒナが飛び込んだ時には既に、彼女は化け物となって母親を襲っていた。それは眷属にやられて感染していたからだったのか。
ということは、ヒナ以外のあそこにいた全員が網や眷属に触れられた傷痕があったところから考えて、《治療》を受けないかぎり遅かれ早かれ眷属になるかして殺されていた、ということだろう。
「眷属一体一体はそれほどの脅威じゃない。紫外線やアルコールや塩、石鹸、あるいは流水でも。ただ血で織ってあるだけの眷属なら、科学的に血として不活性になるものを叩き込んでやるだけですぐに機能しなくなる。古代の吸血鬼は水や大蒜が苦手だというのも、銀の杭で心臓を貫く必要があるのも、本来はそういう理由のためだ。」
「そうなのか……よし、覚えた。」
ヒナは頷き、持ち物のなかで唯一残った谷口の割れた端末を両手で包んで見つめた。あの時それを知っていれば、と思わずにはいられない。
端末は、画面は割れているし、スイッチを押しても付かない。もう持ち主の所へも、同期した本体のスマホに通知がいくことも無い。
「それは被害者のものか?」
「うん。谷口先生っていう人の。借りてそのままになってたの。時計台から落ちた時に割れて壊れちゃったけど……。服が変わった後も、これだけ残ってた。」
「お前の持ち物じゃないから魔法で繊維化しなかったんだろう。画面が割れただけで中身は無事かもしれない。」
吸血鬼の膿は魔力が宿るものはなんでも溶かしてしまうが、谷口の遺した端末は魔力がほとんど宿っていないため、キリヤのイヤーカフのように内側から破裂したりはしていないだろう。
(ちなみにキリヤの破損したイヤーカフは、スマホにあったバックアップから復元し直したため無事にまた使えるようになっていた)
「その端末、貸してみろ」
「え? はい……」
端末は血に汚れており、画面も割れて電源が落ちている。キリヤは、持っているスマホの上にそのひび割れた端末を置いた。
「…………これは市販品だな。いま、型番が検索できた。俺のとも連結できそうだ。これを使うか」
「直せるってこと?」
「そうだ。型番に準拠するので初期化にはなるがな」
「でも、充電も落ちてるよ?」
「問題ない」
重ねた端末の上に手をかざす。と、電源の切れていたはずの画面が再起動を始めた。端末の画面は、白く輝いた後に自社のロゴを表示する。本当に普通に起動したらしい。ヒナがびっくりして目を見開いているうちに、さらさらと煙のように細いガラスの粉のようなキラキラが、ひび割れた画面からたなびいてきて、その粉の煙の細いすじの一番下にあるひび割れた画面が、逆再生のように綺麗に元通りになっていく。
画面だけでなく、手首のストラップも真っ黒い血の汚れが光の粉によって上書きされていく。丸い端末の画面の周囲の細かい傷も嘘のように消えていき、谷口の端末はあっという間に初期化されてしまった。
「……………本当に、新品になっちゃった………」
「ヒナ、この端末に俺が今から3つ、機能を搭載してやる。《魔法使いの鎧》、《対吸血鬼用の武器》、そして《別れの魔法》だ。」
「《魔法使いの鎧》?」
「鎧は、時間が無いので《第一画魔法》でしか編めないが、ないよりはいいだろう。吸血鬼の赤い網に侵食されなくなるアレだ」
「キリヤが貸してくれたやつ?」
「そうだ。」
言いながら、キリヤは魔法を使い何かを端末の中に書き込んでいるようだ。
空中に、ロック解除のパターン図のような9つの点が立体的に浮いていて、キリヤはこの点に沿ってなぞるように軌跡を描き、次々に文字のようなものを記入しているようだ。奇妙なことに手袋の指先のほうも青く光っていて、指三本を使って点を巧みに移動させながら記入しているように見える。
「──だがそれも、吸血鬼から直接捕食されたら一巻の終わりだぜ。鎧の中身は一般人なんだからな」
「分かってるよ……」
「……《魔法使いの鎧》に、武器……は、これだな」
キリヤは端末の真上に小型の斧を構築していく。あの時の斧に酷似しているが、子供用と言いきれるくらい短い。草刈り鎌くらいの長さしかない。よくみると、銀に細かい紋様が刻まれているようだ。そして研ぎ澄ました日本刀のように、刃紋がぎらついて反射している。お子様用の大きさでも、殺傷能力は申し分なさそうな小斧のようだ。
その斧が、起動した端末の光の中で、まるで端末から投影されて浮き出ているみたいに宙に浮きゆっくりと回転しながら構築されて形になっていく。
「純銀の斧だ。子供でも扱える。この斧を端末に連結させた。端末は、お前の魔力に反応するようにできてる。お前の状況もある程度俺に伝わるようにしておいた」
キリヤは調整の終わった端末をヒナの左手に巻いてくれた。大人用の端末なので少し大きいし、巻くためのストラップも長すぎるようだ。キリヤは余分なストラップをつまんで畳むと、まるで切り取り線で切るかのようにピリッと破いて外してしまった。ヒナは手首に巻かれた端末の布地を確かめる。切って縫ったようなあとは全くない。マジックで短くしてしまったみたいな神業だ。
端末をヒナの左手首に装着すると、ヒナの体の体温に反応して端末が起動した。端末の液晶の光に合わせ、白い光がヒナの頭の周りに、防災ずきんみたいな形を描きながら魔法の紋様を描いた。どうやらこれがヒナ用の急造の鎧ということらしい。幼児の体に防災ずきんとは、いいジョークだ。
「防災ずきん久々に見たわ……今日日幼稚園でも見ないよ……」
「斧はお前の魂の波長に反応するようにしておいた。お前が敵意を感じれば、端末から斧が現れる。戦うべき時がきたら、斧を手にしろ。」
ヒナに握らせた斧は、キリヤが端末から手を離すと共に消えた。ヒナは消えたシャボン玉を確かめるかのように両手を裏返したりして見ている。
「だが、戦闘にならずに家族と会うのが俺たちの目標だ。お前の見たものが吸血鬼でないに超したことはないが、俺はお前の“予感”を信じる。決して気を抜くな。」
「……うん。」
キリヤの表情は真剣そのものだ。あの地獄の光景を何度も目にした人間として、キリヤはヒナを信じているのだ。ヒナは貫くように真っ直ぐな彼の視線を見つめ返して頷いた。
谷口に端末を返す約束は、守れなかった。次こそは、この端末にかけて家族を守り抜いてみせる。
「鎧と斧は起動に応じて勝手に出るようにしておいたが、端末のアプリについて最後にもうひとつ話しておくことがある」
「なに?」
キリヤはヒナの左手をとって、端末のホーム画面を右に操作する。右にスワイプすると、見慣れない四角い赤のアプリケーションがひとつ、表示されている。名前はなく、赤い四角のアイコンはどういう仕組みで動いているのか分からないが、金の線で円状の模様を常に描いているらしい。
「これなに?」
「これが《別れの魔法》。起動したら、魔法符が現れる。シートはお前の設定した対象者にアプリの起動によって付与されているから、これを起動したら、対象者に別れを告げろ。それで魔法は完了する。対象者は気を失うだろうが、眠っているだけだ。部屋に戻すのは俺がやってやる。」
「………そっか……分かった。ありがとう。」
「決心はついたのか?」
「それは…………」
「お前、弟子にならないならどうするつもりなんだ」
「ならないとも言ってないもん……。あたしだって、もうやるしかないんだってことくらいはわかる。ただ、次にいつ会えるのか分からないお別れってなんか、怖くて……」
「………………」
「あたしのことみんなが忘れちゃうっていうのも、考えるだけでツラいっていうかさ……。あたし、あの吸血鬼の結界の中にひとりぼっちでいる時本当に怖かった……。だから、もしかしてあたしが死ぬ瞬間も、あの時みたいに真っ暗でひとりぼっちで、誰にも思い出されないまま消えちゃうんじゃないかと思うと、すごく怖いんだ……」
ヒナは端末のぴったり手首に馴染んだ部分を撫でる。
もう、これがあの谷口の使っていたものだなんて誰も信じないだろう。この端末だって、谷口に使われていた時のことなんてもう忘れてしまっているかもしれない。
何も知らない魔法の世界で、家族にも友達にも、使っていたものにさえも忘れられて死ぬ時が来るかもしれないなんて、考えただけで涙が出そうだ。
「キリヤが助けてくれたあの時と同じだよ。あの時、キリヤに言われたとおりさっさと逃げたら良かったんだけど、あたし一人ぼっちじゃなんにもできないやつなんだよね……。それなのにさ、家族にも忘れられて、あたし頑張れるかな……」
「………………」
しょんぼりと俯くヒナの視線の先と同じところを、キリヤも見つめる。かける言葉が上手く見つからず、ヒナの感情にこちらが影響されていくようだ。こういうタイプに必要なのは、痛みや恐怖を嘘やまやかしで散らすことではなく、それを受け入れる精神の土壌を作ることだ。
「ヒナ、魔法使いには《真名》が重要だと、俺は言ったな。」
「うん……」
「何故《真名》が重要なのか……それは、お前の心臓の鼓動が始まった瞬間に最も近い名がそれだからだ。お前の《真名》は、お前の《心臓の名前》なんだ」
「心臓の……?」
「《早見雛衣》は自ら死を選んだ。故に、お前の心臓を置く場所は、もはやお前のこれまでいた場所にはないかもしれない。だがそれでも、お前の心臓は動いている。お前は、新しい《自分の心臓の置き場所》を、これから作っていくことになるんだ。決してこれは、終わりじゃない。お前が生きている限り、《早見雛衣》はお前の中にある。」
「………………」
「ヒナ、魔法使いの弟子になったら、お前は新しい名前を手に入れることになるだろう。それはお前の心臓を隠すための名前だ。その名前でお前は、新しい人と出会う。新しいものを知る。決してひとりにはならない、俺がしない! お前は魔法使いであり、医者の弟子でもあるんだからな。医者の傍には常に人がいる。たとえ逃げたって、医者である限り人は寄ってくる。お前は、きっとこれまで得たよりずっとずっと多くの人と繋がってこの家に帰ってくるだろう。だからお前にとって孤独が怖いなら、それは大丈夫なんだ。」
「………………ほんとに?」
「ああ。俺は忙しいって言っただろ」
ヒナと目が合って、キリヤはまた小さく微笑んだ。酷く眉を釣り上げた怖そうな見た目の魔法使いのくせに、こうして同じ目の高さで微笑む彼の表情はすごく優しいお医者さんの顔だ。あんな恐ろしい存在と戦っても尚こんな表情ができるなら、キリヤの言うこともきっと嘘じゃない。
「お前も、家族のことなんて思い出す間もないくらい忙しくやるから覚悟しておけ。お前にやらせたい仕事が山ほどあるんだからな」
「寂しくない?」
「ああ。うんざりするぜきっと」
「そっか……じゃあ、がんばる。」
ヒナはキリヤに合わせて笑った。
不安で足がすくむ気持ちも帰りたい気持ちもまだヒナの中に残ったままだ。そのヒナの手を、キリヤと一緒に歩くこれからのヒナがずっと引いて歩くのだろう。
きっと今から弟や家族を見つけたそのヒナたちは泣きわめいて帰りたいとぐずり、ヒナ自身を困らせるだろう。これから先も何度も泣いて座り込んでは、ヒナやみんなを困らされるかもしれない。でも、そのヒナたちは大切な“愛する心”そのものだ。だからヒナは家に帰るその日までずっと、不安も恐怖もずっと手放さないように歩こうと、心に決めた。