母と子の別れ
──────自室にいたはずの房八がいない。出掛けたのだろうか。待てど暮らせど雛衣も房八も戻ってこず、家族は足が棒のようになるまで、子供たちを探して町中を歩いたが、まるで2人とも霧とともに消えてしまったように見つからない。
丸い筒を覗くような狭い視野になって、もうどれくらいだっただろう。どうにかこの視野を広げるために分厚いメガネをしているけども、年月とともにそのメガネ越しの世界さえ小さく小さく歪んでいくようだった。
「はあ………………」
白杖をベッドに立てかける。子供たちさえ無事なら永遠に光を放棄したって構わない。さとみは、せめて仏前に手を合わせようかと、部屋の襖を手探りで探して開けた。
「………………?」
襖を開けた瞬間ふわりと香る、優しい線香の香り。さとみはびっくりして、暗い部屋の仏壇の前に、視界の下の方にある僅かな視界の覗き穴をあてる。
「雛衣?雛衣なの?」
「……………………」
さとみは仏前に駆け寄ろうとして、ちゃぶ台につまづく。直ぐに、仏前に正座していた小さな影と軽い足音がさとみのそばに駆け寄ってきて、つまづきかけた母を支えた。手に触れるしっとりしたあたたかくて柔らかい体温に、さとみは確信する。
「ああ雛衣……!ずっとずっと探してたのよ……!」
「お母さん……」
抱きしめようとした腕が空を切る。さとみは、娘を探し手探りで呼ぶ。娘の帰りが夢でないことを祈りながら。
ヒナは母の手をとって起こしたあと、彼女に見つからないように身を引いてじっと見つめた。
「雛衣?どこ? 雛衣?」
「……………………」
声をかけながら自分を探す母親の姿に、胸がいっぱいになる。なんと声をかけたら、この目の見えない母を悲しませずに済むだろう。
「雛衣…………?」
「お母さん……」
「!」
聞こえないくらい小さな声で呼んだはずなのに、母はまっすぐヒナの方へ駆け寄っていく。足元に座布団が絡んでまたつまずきそうになる母を、ヒナは今度は全身で抱えて立たせてあげた。母はヒナの髪を両手で触れて確かめる。
「雛衣?座っているの?」
「……………………」
ヒナは俯いた。彼女からヒナが見えるとしても髪の一部だけだ。こんな姿になったとは夢にも思っていないだろう。
「ただいま……」
「……どうしたの、そんなに悲しそうな声を出して……」
「お母さん。あたしね、……あたし今から、旅に出るの」
「え……?」
母が手でヒナを探さないように、ヒナは母の手の端と端を掴んでぎゅっと重ねさせる。
「雛衣、どこかへ行っていたの?房八は?」
母の声が頭上にかかる。ヒナは唇を噛んでから、一つ一つ言葉を選びながら答えた。
「お母さん、ごめん。」
「……………………」
「あたし達、少しだけ出かける。でも、みんなが寂しくないようにできるから、大丈夫だよ」
奥歯をかみ締めながら、絞り出すように言葉を選んだ。いつもするように抱きついたら、きっと母に異変がわかってしまう。そしたら雛衣は、全てを隠せる自信が無い。雛衣は、端末を震える指で起動させて、キリヤが言った《別れの魔法》のアプリケーションを起動しようとした。その手を、母のしわの少しある冷たい手が遮る。
「雛衣、待って」
「……!」
「お母さんの目が悪いからって、本当のことを隠せると思っちゃいけません。さあ、お母さんに全部話してごらん。」
言い聞かせるような声色に、確信がこもっている。7歳の雛衣の頬に涙が滔々と溢れていく。
「…………お母さん。あたしっ、あたしね……自分から死のうとしちゃった……」
「…………」
「友達を助けるためにしょうがないって思って、命を粗末にしちゃったの……!でも、すごくすごく後悔したし、反省した……!取り返しのつかないことになって、房八にもしかられて……」
「……うん。」
「目の前で沢山の人が死んじゃって、それが友達のせいかもって思って、それ以上他の人を死なせるのが怖くなったの……!それで、自分が犠牲になるなら、それでいいやって、思っちゃって……」
「うん……」
さとみは、目の前で涙に濡れていく娘の小さな頭を抱きしめた。少し姿に違和感があることは、気にならなかった。どんな姿でも、間違いなく私の産んだ雛衣なのだから。
「あ…あたし、間違ったことしちゃったのかな……! お母さぁん……」
「全然間違ってない。雛衣は友達を救ったんでしょう?」
「っ……!!」
「なんて勇敢な子なの、雛衣。友達のために命を投げ出すなんて、簡単に出来ることじゃない。怖かったでしょう、辛かったでしょう。よく勇気を出したわね。本当に立派よ」
「…………!!」
はじめて、褒めて貰えた。ああ、誰かに褒められたくてやった事じゃなかったけれど、そう言われてようやくわかる。その言葉を聞きたかったんだと。雛衣は母の胸にぎゅっと抱きついて涙を押し殺した。母の胸は覚えていたよりずっと広くて温かくて、すごくすごく懐かしい、遥かに遠い優しい匂いがした。
「本当に、どれほど素晴らしいことかしら。誰にも真似できることじゃないよ。さすがは雛衣。お父さんが聞いたらきっと大喜びするわよ」
「うん……!うん……!」
「雛衣、頑張ったわね。お母さんの自慢の娘よ。」
「ッ……うん……」
母の声は、幼い雛衣につられるように優しくなっていく。雛衣は子供の頃のように母の胸で泣きじゃくりながら続けた。
「房八は……房八は元気だよ、最後まであたしを守ってくれたよ。でも、今は会えないの。ごめんなさい……」
「そうなんだね。分かったわ」
「……会いたいって言わないの……?」
「お母さん、雛衣のこと信じてるから。元気なら今はそれでいいわ。」
「…………」
「雛衣。旅に出るのよね?」
「うん……」
「じゃあ最後に、雛衣の顔をよく見せて。」
「でも……」
「いいの。信じるって言ったでしょう。お母さん怒らない。雛衣の味方だからね」
雛衣は、ゆっくりと顔を上げた。お母さんにだけは知られたくなかった。余計な不安をかけるのが嫌だったから。なのにお母さんは、何もかもお見通しというように微笑んでいた。雛衣のびしょびしょのほっぺたを撫でて、小さな肩と幼い頭を撫でる。そして雛衣の顔を確かめ、にっこりと微笑んだかと思うと、雛衣の身体をぎゅっと抱きしめて膝に乗せた。
「ああ、なんて可愛いのかしら。雛衣!ようやく雛衣の可愛いお顔が見れたわ。心配したのよ。本当に本当に探したんだから。お母さんの大切な雛衣。おかえり!」
さとみは娘に頬擦りをして笑った。そして夜泣きをする娘を宥めるかのように、膝に抱いて優しく揺れる。
「お母さん、怖くないの? あたし、子供に……」
「あのね、お母さん目が見えないから、あなた達にとっては当たり前のことでも、お母さんにとっては不思議で大変なことばっかりだった。街を歩くのも、家で暮らすのも、全部が大変」
「………………」
「少しづつ目が見えなくなってきたけど、大切な光景はずっと覚えてる。小さな頃の雛衣の姿は、その大切な光景のひとつよ」
「そうなんだ……」
「だから、小さな雛衣も大きな雛衣も、雛衣にとっては特別な変化かもしれないけど、お母さんにとっては同じ。いつもと同じあなたなの」
「………………そっか……」
産まれたばかりの雛衣のことを想い出しながら、娘をギュッと胸にだく。今でもずっと変わらない、この命より遥かに大切な子供たち。彼女の頬に頬を重ねるだけで、この子が今日、どれほどたくさん泣いたのかが、ひりひりするような頬の熱さを通してわかる。それだけで胸が張り裂けそうに悲しい。この先のこの子の旅路に、母親として何も残してやれないことも、身を切るよりも辛い。今はただ、胸にいっぱいの愛がこの子を満たせばいいと思いながら、雛衣の傷ついた心を癒すようにゆりかごを揺らす。
「雛衣、旅に出てもずっと、これだけは忘れないでね」
「なぁに?」
「お母さんは雛衣の味方よ。どこにいても、何をしても。最後には必ず帰っておいで。お母さんはずっとずっと、この家で待っているからね。」
「…………────」
長い長い一日の終わりが、白んでいく夜空と共に訪れる。苦しみと恐怖の一夜のおわりに、母のやさしいキスが長い髪に落とされる。小さな体をひたす母の愛。雛衣は今宵初めて、喜びの涙をこぼした。
「…………お母さん。っあたし、立派になって帰ってくる、から……!ぐすっ……!」
「行ってらっしゃい。お母さんはいつでも、あなた達の幸せを祈っているからね」
「ほんとに、本当に……産んでくれてありがとう……!だいすきだよ……!」
「おかあさんも、あなたのことがだいすきよ。世界中の誰よりも、あなたを愛してるわ。忘れないでね……」
「あたし、ずっと忘れない……!『行ってきます』お母さん!」




