Act 4 噓と真実と勘違い scene:17 あなたの名前
四周目の世界の幕切れは、まさしく青天の霹靂と言う他ない事態だった。
「どういう事だ……? 俺の死が、時間遡行の発生条件ではなかった、のか……?」
アクトは異世界アルカ・デアに召喚されてから既に三度、命を落としている。
一つ目はゼルニアの斬撃で首を斬り落とされての絶命、二つ目はシュナに身体中を刃物で刺されての出血死で、三つ目はゼルニアの虎爪に塗られていた毒によって死亡した。
アクトが命を落とす度に時間は巻き戻り、新たな世界でやり直しを強制させられる。
死による時間の巻き戻し。
アクトの命を奪った三度の死は、この時間遡行現象をそう解釈するには充分すぎる根拠だったのに、五周目の世界へと至る四つ目の死がどこにもない。
「気付かぬ内に条件を満たしていた? ……いや、死んだ事にも気付かない死なんて、あまりに現実味がない。まさか条件が変わった? だとしたら何故このタイミングで――」
最早疑ってもいなかった時間遡行の条件が、運命を変える為の前提が大きく揺らぎ覆る。
焦燥に、不安に混乱に恐怖に、アクトは心を搔き乱されて――だから、気付くのが遅れる。
(……………………シラト=シュナ……?)
同じベッドの中、背中合わせに彼女の体温を感じている事に今更気付く。
アクトに背を向け横になる彼女は無言で、最初は眠っているのかと思ったけれど、そのか細い身体は迷子のように震えていて――そんな彼女に、何か無視できない違和感を覚える。
(……いや、そうだ。これはおかしい、だろ。どうして……何故、お前が黙っている?)
これまでの時間遡行で、アクトは必ずシュナとの会話の途中に巻き戻されていた。
二周目の世界において、シュナがアクトを名前で呼ぶ事になった会話イベント。
オレジア一日目夜のリスポーン地点は、そのイベントの最中に設定されていたという事になる。
それなのに、四度目の時間遡行を果たしたアクトを待っていたのはシュナとの会話ではなく、迷子の子供のように怯えて震え、声を押し殺して涙を流す少女の絶望で――
(…………まさか、これは……そう、なのか?)
それは、気付くのが遅れたなどという言葉では済まされない程に致命的な周回遅れで、
(お前も……お前もそうなのか? 俺と、同じだったとでも言うのか?)
その小さな身体にずっと独りで秘密を抱え続けた彼女の強情さと、それ以上に遅すぎる自分の理解と、彼女への仕打ちに腸が煮えくり返りそうになる。
(……だとしたら俺は、とんでもない思い違いを――)
――仮に、例え彼女もそうだったとして、だから何だと言うのか?
彼女がアクトを殺した事、ずっと殺そうとしていた事。
それは紛れもない事実で、こうしている今も、彼女はその懐にアクトの命を奪う刃を忍ばせて――だが自分は、最も知らなければならない大切な事を知らぬまま、彼女の前から逃げ出したのではなかったか?
(……何が絶対に諦めないだ。何が何度繰り返そうとも絶対にだ)
自問自答をしている時点で、答えなど最初から分かり切っている。
(……ああ、そうだ。結局俺は、口では偉そうな事を言いながら、俺を殺したシュナを恐れて、彼女と向き合う事からただ逃げていただけじゃないか……)
アクトはまだ、シュナがアクトを殺す理由を掴んでいない。その涙の訳を知らずにいる。
知らないままに彼女の殺意に心が折れ、諦め、恐怖して――彼女を見捨てようとしていた。
最悪だ。最低だ。
シュナに嘘つきと罵られるのも無理のない話だろう。
自らに誓った言葉を反故にして、かと思えば真相の一端に触れた途端に都合よく掌を返す。
とんだコウモリ野郎だ、我ながら。何という無慙無愧、厚顔無恥にも程がある。
シラト=シュナはカミシロ=アクトを殺す。
それは揺るぎ無い事実で、彼女の殺意は幾度世界を繰り返そうとも覆りはしない。
だからこの世界には解法がないのだと。アクトの死を願う彼女を救う道はどこにもないのだと思い込んで、全てを諦め放棄しようとした。
けれどそれは、アクトの死が時間遡行の発動条件であるとした場合。
つまりは、この世界がアクトの死により繰り返される世界である事を前提とした結論だ。
けれど、その前提がそもそも間違っているとしたら?
前提条件が書き換われば、当然途中式も導き出される結論だって、全てが変わるに決まっている――
(――……いや、違う。確かに俺は前提を間違えた。だが、俺が間違えた前提とは、世界の前提などという曖昧で不確かなモノではない。そんな言葉で済ませてはいけないんだ)
問題をすり替えるな。己の弱さから目を逸らすな。
カミシロ=アクト。お前はもっと根本的で、人として当たり前の事を間違えた。
――『――俺はお前を守るし助けるし、絶対に裏切らない。マナト同様に信じていいと約束する』『――もしあの子がまた、独りぼっちで苦しんでいるのというのなら、俺は……』『――救いたい』
約束をした。泣いている女の子に手を差し伸べたいと思った。
彼女を信じたい、信じて欲しい、そう思った。
アクトが失念していたのは、きっと。そんな人として当たり前の事で。
その胸に抱いた決意を、覚悟を、誓いを約束を。
一度は裏切り諦め放棄したお前が、それでもその想いを噓ではないと嘯くのであれば。原初の想いよ、もう一度。
――『――私ね、あなたを信じてるの』『――何があっても、きっと私を信じてくれるって。だから私は、あなたを絶対に裏切らない。あなたも私を裏切らないって言ってくれたから』『――だからね、きっと最後は大丈夫なのよ、私たちは。何があっても、絶対に』
彼女はアクトを信じると言った。
何が起ころうともカミシロ=アクトがシラト=シュナを信じる事を信じるのだと。
だから私もあなたを裏切らない。シュナはそう断言した。
例え、繰り返される世界の果てでシラト=シュナに殺され続けようとも、彼女の言葉が嘘でない事を証明すると強がれるのなら、彼女が信じた通りに彼女を信じ続けられるのなら、カミシロ=アクトはもう一度。
(……ならば、俺ももう一度、信じる事が出来るだろうか)
少女がアクトの背中に見た虚構を、彼女が信ずるに値すると言ったカミシロ=アクトを。
信じ、掴み取って、望み望まれる真実へと変身する事が出来るだろうか。
一度は助けを求める少女を見捨て、諦めようとした、こんな自分に。
(……それでも、虚構を。俺を信じてくれる少女がたった一人でもいるのなら――……ああ、演るしかないだろう。だって俺は――)
――子供たちのヒーロー、アーマナイト・ブレイヴなのだから。
それこそがカミシロ=アクトの揺るがぬ絶対、原初の想い。矜持足り得る信念だ。
そうしてアクトは、この世界へ来てもう何度目かも分からない絶望と、シラト=シュナともう一度向き合う事を決意する。
恐れも怯えも何一つとして乗り越えられず無様に身体を震わせたまま、一握りの勇気を握り締め、背後からそっと。震える少女のガラス細工のように儚い矮躯に寄り添った。
「――、」
押し殺す少女の嗚咽に、その温もりに触れた途端息を吞むような驚愕の吐息が混じった。
それは、抱きしめたと断言できるような力強さや相手を安堵で包み込むような包容力はなく、かと言ってただ隣り合っているだけと言うには触れあう肌の面積も感じる熱も伝わる想いの多寡も、互いが共有する感覚が多すぎた。
だからその行いは、やはり寄り添うと言う言葉以外に表現する方法が見当たらなくて、アクトはただ無言で、彼女にそっと寄り添い続ける。
孤独に凍え声をあげることすら出来ずに一人に涙を流す少女へと、自分たちは一人じゃないと、そう確かな温度で伝える為に――
「――な、まえ」
やがて嗚咽混じりの言葉が、壊れたはずの少女から途切れ途切れに紡がれはじめる。
「……な、なまえ。をね? きっ、聞き……たかったの。あなたの、口……から」
シュナはアクトの演技に、吐いた噓に気付いていた。
だから、アクトを名前で呼ぶ許可を得るのではなく、本当は名前を聞きたかったのだ、と。
ユウキ=ハルトという役名ではなく、アーマナイト・ブレイヴを演じるカミシロ=アクトという人間の本名を教えて貰いたかったのだと、シュナは涙を流しながら告白する。
「わ、ったし。誰、も。信じ、られなくて……わたしっ、は。わたしも……信じて、なくて」
彼女は両親を失った事故の影響で、事故以前の記憶がない。
以前の彼女をよく知る両親はいなくなり、記憶もない。唯一の身寄りである親戚たちは皆寄ってたかってシュナの存在を不要と否定し拒絶した。
本当の彼女を知る人物も、本当の彼女を必要とし肯定する人物も、この世界には一人として存在しない。
それは実質的なシラト=シュナの死に等しくて、だからシラト=シュナがその記憶と共に死したその瞬間に生まれ落ちた彼女には、自らをシラト=シュナたらしめる確固たるモノが、信じられる絶対が、信念が、矜持が、何一つとして存在しなかった。
縋るべきモノが何もなく、自分が誰なのかも分からない。
そんな自分を信用する事なんて出来なくて、一人ぼっちにすらなれない一人未満の空の少女は、掴まる為の凹凸一つ存在しない絶壁の孤独にずっとずっと苦しんでいた。
……唯一、アーマナイトという例外がない訳ではなかったけれど――結局はそれが肯定してくれるのは『好き』というシュナの感情だけ。
今へと繋がる理由が分からないのだから、過去のシュナの存在を証明はしても今のシュナの存在を証明してくれる訳ではない。
「この世界に来る、ちょっと前……急に、兄、様が……怖くなった、の……」
彼女が言っているのは、道端で偶然シュナと遭遇した時の事だろう。
あの時のシュナは確かに酷い恐慌状態にあった。それは兄への原因不明の恐怖が原因だったのだ。
「理由、分からっ、なくて……兄様、は。いつも、優しい、のに。あの家……もう、いちゃダメだって。みんっ、な。死んじゃうって。みんな、が。誰か、も。分からない、のに……」
そんな異常な状態の中、気付けば異世界へ漂着し、アクトは偽名を名乗りマナトはそれを当然のように受け入れるものだから、シュナが疑心暗鬼に陥るのも無理ない話だ。
彼女がパニックに陥った際の事を覚えていないと噓の証言をしたのも、マナトに対する正体不明の恐怖と、アクト達が噓を吐いた事への警戒心からだったという訳だ。
おぼろげながら覚えており、だからこそユウキ=ハルトを騙るアクト達の嘘に
「で、でも……一緒に、旅をするうちに……分かっ、たの……」
シュナがマナトに感じる恐怖はいつまで経っても消えてくれなかったし、何故そう感じるのかも未だに分からない。
それでも、イナミ=マナトがシラト=シュナを救った事実は変わらなくて、だから変わらずシュナの敬愛する大切な兄様なのだという事。
ククリカ=フートに対する第一印象は決して良くなかった。そもそも知らない人というだけで緊張するのに、高い身長と鋭い眼光は威圧感があって、美人だからこそ近寄りがたい。
けれど、そんな第一印象に反して彼女はシュナに甘くて優しくて、多少のワガママなら仕方がないとため息を吐きつつ許してくれる。
もし自分に姉様がいたらこんな感じだったらいいなと思えるような、カッコ良くて時々可愛いお姉さんだった。
カミシロ=アクトは分からなかった。
兄様の親友で、大好きなブレイヴを演じる役者。シュナの前でユウキ=ハルトのお芝居をしている嘘つきで、シュナの命の恩人。
信じていいのか疑うべきか分からなくて、キツく当たってしまった事もあった。
それを少しだけ後悔して、相手の事は平気で嫌う癖に自分が嫌われる事は怖いからどうしても気になって――そんなシュナを優しく包み肯定してくれた、よく分からない変な人。
「……あなたと一緒にいるとね、なんでか分からない、けど……安心、するのよ」
抱き締められて、肯定されて、安堵した。
一緒に遊ぶと楽しかった。
くだらない会話に心が躍って、家族だと言って貰えて嬉しかった。
絶対に嫌いにならないという言葉に安心したし、裏切らないという断言が何より心強かった。
そう言った彼女の顔は、背中からぴたりと寄り添う俺の位置からでは見えなかったけど、
「だから私。あ、あなたなら信じても、大丈夫かなって。そう、思って。あなたにもそう、思って貰いたくて……ほ、本当の名前っ、教えて貰えたら全部話そうって、そう決めてたの」
もぞりと。
ベッドの中で身体を捩り、身体がぴたりと密着するような至近距離で向き合ったシュナの表情は、思った通りのぐしゃぐしゃの泣き笑いに歪んでいた。
「だから、私ね。あなたの名前が、知りたいわ」




