Act 1 異世界に俺、参上⁉ scene:1 ボーイミーツガールと異世界召喚は突然に
朝露立ち込める晩春の東京、その冷たい空気を切り裂く軽やかな足音が響いていく。
先頭を行く足音は、スポーツウェアに身を包む黒髪黒眼の青年のものだった。
身長は百七十後半。
清涼感を意識した逆立つ軽めのショートヘア。細身だが引き締まった筋肉質な肉体が特徴的なその男、上代亜空斗の背中を追うように響く足音がもう一つ。
足を止めず後ろを流し見る亜空斗の視界に映るのは、明るめの茶色に染めたマッシュにウェーブパーマをかけたこなれた髪型と端正な顔立ちの華やかな優男だった。
男は亜空斗と一定の距離を保ち、その背中を追い立てるように規則的なリズムで靴音を刻んでおり、亜空斗が気を緩めれば一瞬でその背を追い抜きそうな気配がある。
「――ふぅ、どうやら、また自己ベストを更新してしまったようだ。自分の才能が恐ろしい」
設定したゴール地点を通過し、ジョギングへ移行する亜空斗の隣に優男が追いつき並ぶ。
「流石だね、亜空斗は。正直、ボクはまだ君についていくだけで精一杯だよ」
言葉とは裏腹に余裕を感じさせる包容力バツグンのイケメンの名は伊波真那斗。
亜空斗の幼馴染にして親友。そして何より、亜空斗にとって最大のライバルでもある男だった。
「馬鹿を言え。それはこっちの台詞だ、真那斗」
つまらない謙遜をする親友に亜空斗は鼻を鳴らすと、得意げな様子で胸を張り、
「いいか真那斗。俺はアーマナイトになる為に毎朝欠かさずこの十キロ走を行っている」
「アクトのアーマナイトオタクぶりは嫌と言う程知ってるよ。付き合いも長いからね」
「雨にも負けず風にも負けず、夏にも冬の寒さにも負けず、台風だろうと雪が積もろうとインフルエンザで倒れようと修学旅行の日でさえも欠かさずに続けて来た訳だが――」
「お陰様でそれも知ってる。君の〝ナイト修行〟に長年付き合わされてきたからね」
ナイト修行が余程いい思い出だったのか、頷く真那斗はニコニコと満面の笑みだった。
「……特に修学旅行の件は一生忘れないだろうなぁ。荷物だけ座席に積んでバスには乗らずに目的地まで走っていくとか、控えめに言って天才……いや、天災級の発想だよね」
「――フッ、褒めるな褒めるな、誰が天才だ。事実でも照れるだろうが」
「そうだね。ボクにとっての君は紛れもなくただの天災だったものね」
「ともあれ、ナイト修行歴十五年の俺に、僅か半年のお前がここまで食らいついて来ているんだ。そっちの方がよっぽど凄いに決まっている――フッ、流石は俺の〝親友〟だな」
「そこで本心からそう言えるのは君の本当に凄い所だと思うよ、ボクは」
眩しそうに目を細めてそう言った真那斗は一転、おどけたように胸を張って、
「けどまあ、ボクだって同じアーマナイトとして、亜空斗に負けてられないからね」
「……まさか、幼馴染のお前と共に、役者としてアーマナイトに出演する日が来ようとは。そのうえ、マナトと違って何の経歴もない俺が主役を貰えるとは思わなかったなぁ」
思わずというか何と言うか、そんな弱気混じりの本音がポロリと零れる。
新人俳優である亜空斗が今回のオーディションで勝ち取った役はブレイヴに変身する今作の主人公、結城晴斗。亜空斗にとって人生初の主演だった。
「……本当にここまで来たんだな、俺達」
幼い頃の亜空斗は弱虫で自分に自信がなくて、学校にもどこにも居場所がない。皆にいじめられてばかりの泣き虫な子供だった。
そんな亜空斗を救い、背中を押してくれたのが幼馴染の真那斗だった。
大好なアーマナイトのように弱きを助け強きを挫くその姿に、心の底から憧れた。
物語の中ではない、現実にこんな男が存在するのかと衝撃を受けた。
自分もいつかはこの男のように、アーマナイトの如く誰かを救える人間になりたいと、そう思った。
真那斗と出会わなければ亜空斗はきっと今も独りのまま、アーマナイトになるという夢を持つ事も、そんな夢を追って東京に出てくる事もなかっただろう。
「亜空斗の頑張りあってこそだよ。それに、まだまだこれからじゃないか。ボクも君も」
つい感傷的になって呟くと、隣の真那斗にまたも笑われてしまう。
「ああ、分かっているんだが……つい、な。実のところ、未だに現実味がない」
「気持ちは分かるけど君がそんなじゃマズイだろ? ほら、しゃんとしなよ、ヒーロー!」
「いっつ……ッ!」
すぱぁんっ、と小気味良い音が響いて、唐突に背中を叩かれ思わず悲鳴をあげる。
背中が熱を持ちジンジンと痛みを主張する感覚に、恨めし気な視線を幼馴染へと向ける。
「お前なぁ……」
「礼には及ばないよ。ボクの好敵手が弱気になっていたから少し塩を送っただけだ」
片目を瞑りイタズラっぽい笑顔でそんな事を宣う幼馴染に、亜空斗は降参の意を示すように肩を竦め両手を挙げた。この手の軽口の応酬で真那斗に勝った試しなど殆どない。
「あ、そうだ。真那斗」
別れ際、亜空斗は思い出したように口を開く。
「お前この後、何か予定があったりするか? もし暇なら、俺の家でブレイヴのオンエアを見ながらパーッとやるのも悪くないと思ってな」
今日は真那斗の演じる二号ナイト、レムナントホープの初登場回だ。
初共演という意味でも二人にとっては記念すべき回。打ち上げ、というのは気が早いかも知れないが、切磋琢磨しあった幼馴染と祝杯をあげながらアーマナイトを鑑賞したい気分だった。
当然、真那斗も乗ってくるだろうと思ったのだが……。
「あー、うん。それなんだけど……」
亜空斗の予想に反して真那斗の反応はどこか歯切れが悪い。
珍しく眉を潜めながら何かを言い淀んで、それから申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめん亜空斗。実は今日のオンエアは須那と一緒に見る約束をしてるんだ」
「……ああ、そういえば、真那斗の妹もアーマナイトが好きだったな」
現在、真那斗は年の離れた小学生の妹と二人暮らしをしている。
妹とは言っても、実の妹ではない。
白兎須那。
真那斗にとっては遠い親戚の子で、血の繋がりも殆どない。
事故で両親を失い、事故以前の記憶も失った彼女は厄介者として施設と親戚の間をたらい回しにされていた。
そんな扱いを見過ごせなかった真那斗が自ら引き取りを申し出たのがおよそ一年前。
メジャーデビューを決め、役者の仕事が爆発的に増え始めた頃の事だった。
亜空斗はそんな幼馴染に全力で協力した。
幸か不幸かその頃の亜空斗は役者としての仕事など無いも同然だったので、多忙な真那斗に代わり彼女の面倒を見る事が出来たのだ。
……尤も、須那は亜空斗に心を開いてくれず、部屋に籠ったまま顔の一つも見せてくれなかったので、面倒を見たと言っても食事の用意と留守番をしていたくらいなのだが。
「そういう事なら仕方がない。兄妹水入らずの時間を邪魔をする訳にはいかないしな」
誰かの為に我が身を砕く。
亜空斗を救ったあの頃から、やはり真那斗は変わらない。
幼い頃から亜空斗が憧れ続けるヒーローそのものだ。
――ああ、そうだ。カミシロ=アクトの弱さが彼女を傷つけたあの日から、ずっと――
(――っ、う。なん、だ……今のは。女、の子? 俺は今、一体誰のことを……)
ありもしない光景に記憶にない少女。ピンボケしたように曖昧で抽象的なイメージが潰れたトマトみたいに脳裏に弾け、次の瞬間突如として頭を襲った激痛に我に返る。
頭の痛みで正気に戻ったというより正気に戻った頭が痛みを発しているような――
「……すまない。皆で一緒に見られたら良かったんだけどね……」
亜空斗の異変に気づいていないのか、真那斗は申し訳なさそうに謝罪を重ねる。
亜空斗は内心の困惑を悟られないよう笑みを取り繕いながら大きくかぶりを振った。
「いや、好きなモノを楽しむ時は心の底からリラックス出来る環境を整えるべきだからな。大好きなブレイヴが隣にいたのでは、妹さんも集中できないだろう?」
伊波真那斗という居場所を得たとはいえ、彼女の心の傷は未だ癒えていない。
今も学校には通えておらず、家の外に出れずにいる。頼れるのは義兄である真那斗だけ。事情を知っている亜空斗でさえ、会ったことは一度もない。
そんな彼女が、アーマナイトを楽しみにしてくれているのだ。
亜空斗のエゴで彼女の楽しい時間を台無しにする訳にはいかない。そう言って、その場はひとまず解散となる。
「さて、帰ったらプロテインを摂取し朝食を摂って、筋トレはオンエア後にジムへ行くか」
申し訳なさそうに謝る真那斗と別れ帰路に着いた亜空斗は、歩きながら腕時計を一瞥し、そんな事を呟く。
時刻は午前七時半。思ったより話し込んでしまったらしい。
「……いや、折角の休日だ。二号ナイト登場シーン集をBGMに自宅トレーニングもアリか」
と、傍から見たらとてつもなく不気味な笑みを浮かべて今日の予定を立てていると、
「――きゃっ⁉」
「……っと」
お腹の辺りに衝撃。
前方への注意が疎かになっていた亜空斗は、曲がり角を結構なスピードで曲がってきた誰かと正面からぶつかってしまった事に遅れて気付く。
衝突の衝撃で軽く弾き飛ばされたのか、亜空斗の二メートル程前方で尻餅を付いている。目深に被ったウサ耳フードで顔は見えないが、どうやら小中学生くらいの女の子のようだ。
(しまった。俺としたことが、余所見で女の子に怪我をさせるなどアーマナイト失格っ)
亜空斗は座り込む少女に駆け寄ると、腰を落とし目線を合わせと手を差し伸べる。
「すまない、俺の不注意で。君、怪我はないかい――」
声に、少女はビクッと身体を震わせて反射的に顔を上げ――ぱらりと、その拍子にはだけて落ちたウサ耳フードの奥、蒼銀白の髪が空気に触れてひらりと揺れていた。
「――な」
亜空斗の視界に飛び込んで来たのは、蒼みがかった透き通るような美しい銀髪と、表情を隠すように伸ばした前髪の隙間から覗くサファイアのような蒼眼が特徴的な、人形のように整った顔立ちの可憐な白い少女だった。
幻想的かつ非現実的な雰囲気を纏ったその少女は羽織ったデニムのジャケットの内側に黒のパーカー――胸の中央のデフォルメされた兎の悪魔のようなキャラクターのプリントとウサ耳フードが印象的な――を着て、白のロンTを裾からチラ見せさせながら、下は黒のスキニーで合わせた現実的な恰好をしている。
まるで物語の中から現実に飛び出してきてしまったかのよう――そんな例えがぴたりと当て嵌まる少女の一対の蒼眼が輝くその相貌に、亜空斗は酷い既視感を覚えていた。
とはいえ、直接の顔見知りという訳ではない。
実際に会うのはこれが初めてで、真那斗から見せられた写真で一方的に知っているだけの相手だった。
おそらく、彼女には亜空斗が誰なのかはわからないだろう。
それでも、この特徴的な容姿を見間違うはずがない。
亜空斗の前に現れたその少女は、過去の経験から人と関わる事を恐れて今も家の中で兄の帰りを独り待っているはずの少女――
「――須那、ちゃん……だよな?」
伊波真那斗の義理の妹、白兎須那その人だったのだから。
「こんな所に一人でどうした? 真那斗ならさっき帰ったが、家まで俺が送った方が……」
「――あ……っ、く――。――ぉ……」
「……っと、すまない。そうだよな、君には俺が誰なのか分からないよな。俺は上代亜空斗だ。君の兄貴の幼馴染で、去年の今頃なんかは真那斗が忙しかった時に君の面倒を見に行ったりもしてたんだが……いや、そんな事よりまず真那斗に一度連絡を――」
「――あ、あの……っ! ま、待って……っ!」
咄嗟に伸ばした須那の手がスマホに伸びる亜空斗の手を掴む。
恐怖、困惑、不安、焦燥、そして絶望。
ぐちゃぐちゃに攪拌されたそれらの感情に心を翻弄され、人形のように端正な顔立ちを歪める須那の様子は明らかに普通ではない。
「須那ちゃん、落ち着いて。大丈夫、俺は君の味方だから。……まず深呼吸をしようか」
ゆっくり穏やかに、それでいて不安を取り払うような力強さを意識した亜空斗の声に、真っ青だった須那の顔に僅かに朱が戻る。動転していた意識が少しずつ落ち着きを取り戻す。
「いいぞ、その調子だ。ゆっくりでいい。呼吸をして。何があったのか、俺に話して――」
再び異変が生じたのは、そんな時だった。
「――ぐっ、ず……ぅあ……っ」
ビクンッ、と。少女の身体が大きく跳ねた。
直後に頭痛を堪えるように頭を抑え、苦悶の表情を浮かべる須那が、譫言めいた痛苦を喘ぎ始める。誰の目にも尋常ではない反応だ。
「……ああ、ぁああ……いや……! 兄様……う、そ。……やだ、いや、やめて! 死んじゃうッ。みんな、みんな死んじゃうからぁあああああ……っ!」
「須那ちゃん? 須那⁉ おい、しっかりするんだ! クソ、一体何がどうなっている⁉」
何が起きているのかは分からないが致命的な何かが進行している事だけは分かる。
最早一刻の猶予もないと判断する。
まず救急車を呼んで、すぐに真那斗にも連絡を――
そんな亜空斗の思考は、しかし実行に移される事はなかった。
「――あ、あああああ……っ! 嫌、嫌ぁ、嫌ぁあああああああああああああああ――っ!」
刹那、少女の慟哭に同期するかのように世界が軋みをあげる。
足元の地面が泥の海のように波打って、まともに立っていられない。世界が壊れていく――というよりはむしろ、世界の撓みや歪みが元に戻っていくような、奇妙な感覚。
亜空斗の視界に蒼白い火花が弾け、暗転。
そして次の瞬間――
「――は?」
気が付くと、カミシロ=アクトは見知らぬ森にいて。
「グゥルルルルゥゥゥ……っ」
眼前には体長十メートルはくだらない巨大なドラゴンが聳え立っていたのだった。