夜会①
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ステラルクスは百年ほど前でこそ、何もない辺鄙な島であった。
他の島とを繋ぐ連絡船も少なく、漁業で細々と生計をたてていたのだ。遥か昔から幾度も支配国が代わり、その度に今度こそは生活が豊かになるのではと期待しては裏切られてきた。ただ支配国に翻弄され、蹂躙されるだけの日々は、島民の不満を高めるには十分すぎる過去であった。
そんな中、カリーナの曾祖父であるフランチェスコ・テレジオ、──つまりはテレジオファミリーを作り上げた男が島へとやって来た。
本土では名の知れた犯罪者であった彼が、司法の手から逃れるためステラルクスへやって来たなどという噂があった。その真偽は今でも不明であるが、間違いないことは、フランチェスコがかなりの切れ者であったことだ。
裏表のない豪快な人柄を持って、よそ者に排他的な島民へ上手く取り入った。その裏で家畜の窃盗や煙草の密輸と言ったマフィアの典型的な仕事で稼いでいた。
島民達はフランチェスコが与える利益にすぐさま飛びついた。島民の絶望と飢えを、政治ではなく犯罪者が満たしたのだ。
巨大になっていくテレジオファミリーの名前が、ステラルクス全てに行き渡ることにそう時間はかからなかった。シチリアにマフィアが根づいた歴史と同じものを、フランチェスコは数年で作り上げた。時代や、大陸や他の島と交流が少なく、支配国からも顧みられない孤島という立地も幸いしたのだろう。いよいよ国が見ないふりを出来なくなったときには、すでにステラルクスはテレジオファミリーのものとなっていた。
テレジオファミリーはラクリマを中心に、島の殆どを支配している。とはいえやはり彼らが与える恩恵は、ラクリマに近いほど濃くなるものだ。ステラルクスで最も栄えた町も、州都ではなくこのラクリマであった。
ラクリマで最も大きく、豪奢なホテルは、テレジオファミリーが経営しているものだ。そのホテルの最上階には今夜、本土やステラルクスの上流階級が集まっている。
目に痛いばかりのシャンデリアと煌びやかなドレスから目を逸らし、グルリとホールを見渡す。グラスを片手に談笑する上品な人々を、オーケストラが控えめに盛り上げていた。ロレンツォの数歩前にいるカリーナも、今夜はとびきり着飾っている。
胸の大きくあいたゴールドのマーメイドドレスと、スラリとした足もとで輝くルブタンのヒール。
女物の服には詳しくないが、招待客がこぞって褒めるだけの品があった。何よりもカリーナがそのドレスを身に纏うことで、デザイナーの意図した美しさを完璧に引き出して見える。
今夜はどこぞの社長が主催したパーティーだが、警察の上層部や議員連中も招待されていた。その中でマフィアのカポやアンダーボスが平然と笑っていることは皮肉にしても行き過ぎている。
連れたって挨拶するカリーナとカルロの背中を眺めながら、退屈を紛らわすように楽団の音楽へと耳を傾けた。
招待されたのはカリーナとカルロで、ついでとばかりに護衛役はカルロが務めている。つまり今夜のロレンツォは、本当にペットとして連れてこられただけだ。
カリーナのペットになってから三ヶ月経ったが、こういう場所に連れられてくるのは初めてである。パーティーなんてものとは無縁の場所で育ったロレンツォにとっては、ひたすらに居心地の悪い空間だ。
カリーナはある程度招待客のご婦人方の前でロレンツォの顔の良さを褒め讃えると、あとはチラリと振り返らなくなった。これではペットというより人形か宝飾品だなとすら思う。
招待客への挨拶が全て終わったとき、ひとつ文句くらい言ってやろうと意気込んでいた。だが挨拶の列がなくなるや否や、カルロが「ねえ、カリーナ」と、とびきり愛おしげな笑みを隣へと向ける。
「良ければ一曲くらい踊らない?」
「は? なんだ、急に」
「たまにくらい良いだろう。最近カリーナとイチャイチャ出来てなかったし、久しぶりに君を独り占めしたいんだよ」
「お前のそういうわけのわからんところは相変わらずだな」
呆れるカリーナの腕を、カルロは問答無用で引っ張っていく。呆然と見送ることしか出来なかったロレンツォをチラリとだけ見たカルロの瞳に、彼がなにを思っていたかすぐさま察した。あれでマフィアのアンダーボスというのだから、わかりやす過ぎるのではと心配になる。
もうすぐダンスタイムなのか、ホールの中央には向かい合う男女が集まっていた。その中に紛れたカリーナとカルロは、整った容姿も相まり特に目立っている。
社交ダンスなどという上品な教養がないロレンツォは、壁際に移動すると彼らの様子をただ眺めることにした。
一瞬の静寂の後、オーケストラの音楽が変わる。ホールにはドレスをはためかせる花がたくさん咲いた。
これがワルツであるというくらいしかわからないロレンツォが、カリーナ達のダンスの善し悪しなどわかるわけがない。それでもピッタリと体を密着させ、揺れるように踊るカリーナは美しかった。
楽しげに綻ばせられる頬を眺め、彼女がマフィアのカポであることを忘れそうになる。人々の目もカリーナ達に集まり、彼らに惚けているようだ。それがどうしてかつまらなくなる。
「美しい花には毒があると言うが、彼女を見ていると妙に納得してしまうな」
不意に聞こえた声は、ロレンツォにかけられたようだった。
視線を向ければ、カリーナを見つめたまま、一人の男が向かってくる。生え際が後退した額は広く、その下の細い瞳は鋭く輝いている。大きな鷲鼻が特徴的で、ヒョロりとした体躯は学者風でもあった。何度か新聞でも見た事のある男は、間違いなくスタンフォードだ。
以前このホテルでカリーナを睨みつけていた視線とは違う、哀れみすら浮いた顔でロレンツォへと話しかけてくる。
「はじめまして、シニョーレ。エミリオ・スタンフォードだ」
「……ピアチェーレ、スタンフォード市長。お噂はかねがね聞いております」
「私の噂か。どうせくだらんものしかないんだろう」
スタンフォードは鼻で笑うと、当然のようにロレンツォの隣で立ち止まる。警戒するように一歩足を引けば、悲しそうに首を振られた。
「そう怖い顔をしないでくれ。私はただ君と話したいだけなんだ」
「俺と、ですか。お生憎ですが、俺と話しても有益な情報は手に入れられませんよ」
「だろうな。護衛という名目で雇われてはいるらしいが、正確にはテレジオファミリーの構成員ではないんだろう。そんな君から何か引き出せるなんて微塵も期待してないさ」
不遜な物言いに舌打ちをする。自分の情報をスタンフォードにまで握られていることがイラついた。
「それで」とロレンツォ。ポケットに両手を突っ込み、蔑むように顎を持ち上げる。この態度にスタンフォードも眉をひそめた。
「俺について理解してんなら、なんでマフィア嫌いで有名な市長様が話しかけてきた」
「君が振る舞いも下品な馬鹿であることは聞き及んでいるが、ここまでだとはな」
「育ちが悪いもんでな。ご不快にさせたなら謝るぜ」
ヘラヘラと笑いながら言えば、露骨に悪感情を向けられた。幼少の頃から投げられ続けた視線には、どんな感情も浮かばない。
さらりと流すロレンツォに、スタンフォードも気をとりなすように咳払いした。
「ロレンツォ・ゴッティ、と言ったな。君はアルベルトの弟なんだろう」
「はは、そういえば聞いたぜ。マフィアだった兄貴を、アンタが寝返らせたんだってな」
「人聞きの悪い言い方をするな。自分の行ってきた悪行に悩んでいた彼へ、私が償いの機会を与えただけだ」
「そりゃあつまり、兄貴がアンタの手駒だったってことの自白か?」
「腹の探り合いはやめにしよう。君のご主人様に気づかれた」
気がつけば音楽はクライマックスへと向かっていた。カリーナ達はロレンツォとは反対側、ホールの遠く向こうにいる。踊る人々の合間を拭い、ひどい形相で睨むカリーナと目が合った。
彼らはホールドを解くと、壁伝いにこちらへ向かって来る。スタンフォードもそれを確認すると、やれやれと肩を竦めた。
「本当にお気に入りなんだな、君のこと」
「……早く用件を言え」
「なに、大したことじゃないさ。君もアルベルトと同じように、私の手駒にならないかと思ってな」
「兄貴と同じように殺されろってか?」
「彼が死んだことには私の責任もある。君を保護することで、その償いぐらいしたいと思うのは道理だろう」
そのとき「スタンフォード!」という怒声が聞こえた。客の多くが何事かと視線を向ける。音楽すらかき消すような声に、楽団の手も止まっていた。
ザワつく客達は般若のごとき形相のカリーナに気づくと、慌てて道をあける。割れた人波の間を、この島の女王様が悠然と闊歩してきた。
「お前は招待されてないはずなんだがな。いったいどうやって潜り込んだ」
「なにやら楽しそうな喧騒につられ、つい足を運んでしまいました。どうぞ御容赦を」
優雅な仕草で腰を折るスタンフォードに、カリーナは忌々しそうに瞳を細める。
「カルロ、今すぐにそいつをつまみだせ」
「シィ、カポ」
「おっと、君らの手は煩わせないよ。出て行けと言うなら大人しく従おう。会いたかった人には会えたことだしな」
チラリとこちらを見る視線に、気づいていないフリをする。ロレンツォを射るカリーナの目が痛く、二人揃って俺を見るなと心底願ったくらいだ。
「それではシニョーレ、先程のお誘いを忘れないでくれ。また会いに来るよ」
「二度とその面見せるんじゃねえよ」
スタンフォードは真意の読めない笑顔を残し、足早にダンスホールを出て行く。
しばらくの間、ホールにはなんとも言えない空気が充満した。誰もがカリーナを見つめ、次の言葉を待ち息を詰めている。例えこのパーティーの主催が誰であろうと、ステラルクスで起きる全ての処理には彼女の意思が尊重されるのだ。
初めに動いたのはカルロだった。彼は客の中から主催者を見つけると、慇懃無礼な態度で男に歩み寄った。
「お騒がせして申し訳ありません、シニョーレ。お詫びに我がホテルから最上級のワインを振る舞わせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「あ、いや……シニョーレがお気になさるようなことではございません。先程の件は私の責任でもありますし」
「そういうわけには参りません。皆様もどうか口直しのワインと共に、ご歓談へと戻りましょう」
その言葉に人々は引きつった笑みを浮かべる。
テレジオファミリーのアンダーボスが今夜起きたことは忘れろと言うのだ。刃向かえる者などいるわけがなかった。
カルロは嘘くさい笑顔の海に飛び込むと、何とか先程の騒ぎをなかったことにしようと、あらゆる人々に話しかけていた。その涙ぐましい姿を見つめていれば、不機嫌なカリーナに名前を呼ばれる。
「帰るぞ。お前もついて来い」
「……カルロは置いて行ってもよろしいので? あれが頑張っているのは、ある意味カポのせいでしょう」
「そんなこと知るか。あいつがやりたくて火消しに回ってるだけだ。それも無駄な足掻きだがな」
どういう意味かと問うよりも早く、カリーナは颯爽と人波をかきわけていく。