裏表④
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気まぐれなカリーナに連れ回されることは多いが、大抵は会合までの運転手役や息抜きに付き合うことが殆どだ。だがこの日はイルマーレに行くというカリーナとベルナルドを乗せ、白いクアトロポルテを運転させられていた。
田舎に向かえば向かう程、治安が悪くなるのはどこでも同じだ。特にマフィアの島であるステラルクス島はその影響が大きかった。
白い土壁と赤みがかった屋根をした家が押し並ぶ、見てくれこそ平和なラクリマを抜けてしまえば、あとはテレジオファミリーの支配がどんどんと弱くなっていく。
ラクリマも類にもれずスラム街はあるが、イルマーレはことさら柄の悪い土地だ。見慣れぬ高級車が通りを走れば、虚ろな目をした男達が煙草をふかしながら睨んでくる。同じ空の下であるはずなのに、一歩県境を超えるだけで、どんよりとした空気が肺を押し潰そうとしてきた。
イルマーレにもテレジオファミリーが経営する店などはあるが、構成員の数は全く違う。警察なんてろくに機能していないこの島で、自治組織たるテレジオファミリーの息がかかっていないということは、そのまま一般市民の犯罪率の高さにも繋がっていた。
顔を隠すと殺し屋だと思われるため、誰もが帽子を被らないし、バイクに乗るときもヘルメットは着用しない。車を運転するときでさえ、外から見えるように両腕をハンドルに置いておかなければ、銃を握っていると判断され問答無用で絡まれる始末だ。
懐かしい淀んだ空気に吐き気がしてくる。ラクリマで日よっていた自分に気づき、また嫌気がさしてきた。
ロレンツォが生まれ育った町はもっと北であるが、カリーナの目的はイルマーレの県都だ。せめてあの忌々しい土地に戻らなくてすむことに安堵する。
車を走らせる間、やせ細った子供や、ギョロリと落窪んだ目をするヤク中の視線に何度も晒された。その度に、どうして自分達と同じはずのお前ばかりが、そんなにもまともな格好をし、高い車に乗っているんだと責められている気になった。
「止まれ!」
突然カリーナが叫ぶ。驚いてバックミラー越しに視線を投げれば、後ろを振り返っていたカリーナが勢いよくロレンツォを見てきた。
もう一度「止まれ!」と言いながらシートを蹴られ、慌ててブレーキを踏む。
「バックしろ、戻れ!」
「急にどうしたんだよ、カリーナ」
「いいから早くしろ!」
カリーナはそう言いながらも、痺れを切らしたように車を飛び出す。止める暇もない様子に唖然とするが、ベルナルドが彼女を追いかけたことでようやく我に返った。
ロレンツォも今すぐ追いかけるべきだろうが、こんな場所にマセラティを放置すればすぐに盗まれかねない。
一瞬どうしたものかと悩み、舌打ちと共に車をバックさせる。マセラティを盗まれた場合、カルロの反応が面倒だった。
カリーナ達は百メートル程手前の裏道へ入り込んでいた。その小道をふさぐよう車を停める。
カリーナは裏道の中程で、スラム街の住民らしき男を蹴りあげている。そんな彼女をベルナルドが必死に抑えていた。
「死ね、このクソ野郎がッ!」
「やめろ、カリーナ! 本気でそいつを殺す気か!?」
「止めるんじゃない! こいつがその子に何をしていたかわかってるのか!? こいつが私の島で何をしていたと思ってる!?」
「いいから落ち着けって! こいつに制裁がいるなら俺がやる! だからお前は車に戻ってろ!」
激昂しているカリーナを、ベルナルドが何とかなだめようする。汚い言葉をまくしたて、僅かに泣いてすらいるカリーナの足元では、薄汚い身なりの男が戸惑う様子でうずくまっていた。
その近くには虚ろな目をした半裸の少女がいる。自分の父親と同じ目をした彼女を見て全てを理解した。
ひとつだけ理解できなかったのは、カリーナが少女の為に怒っていることだ。通りすがりのスラム街で偶然見かけた、スラム街ではありふれたそれに、わざわざ彼女がでしゃばる理由がどこにある。
それも今はどうでもいいかと、思考の端に追いやった。
ロレンツォは窓をあけると、懐から拳銃を取り出す。いつかカリーナを殺すときに使おうと、間抜けな構成員から盗んだものだ。その銃口でカリーナの背中を捉える。
今ならば彼女を殺すことなど容易かった。ここは生まれ育った土地の近くであるし、テレジオファミリーの支配も少ない。カリーナとベルナルドさえ殺してしまえば、あとはバレる前に島外へ逃げればいいだけだ。
ロレンツォは微笑むと、躊躇いなく引き金を引いた。
静かな街に、慣れ親しんだ音が轟く。名前も知らない鳥が空を飛んだ。
「あっ……」
とカリーナがもらした。まん丸に開かれた瞳は、少女を見つめている。
こめかみに風通しのいい穴を貫通させた少女は、相も変わらず虚ろな目で空を眺めていた。最期はこの汚い町ではなく、広い空を眺めながら死ねただけ幸せだろう。
カリーナに蹴られ続けていた男は、怯えた顔でロレンツォを見る。呆然としているカリーナに気づくと、飛び跳ねるように逃げ出した。その背中にカリーナが奥歯を噛む。
「ベルナルド、あいつを追いかけろ!」
「……それだけは駄目だ。せめてロレンツォに、」
「いいから今すぐ行け! お前の頭もぶち抜いてやろうか!」
血走った目で叫ばれ、ベルナルドは苦々しそうに唇を結ぶ。ロレンツォを射る彼の視線は疑心に満ちていた。軽やかな笑顔を返してやれば、舌打ちだけをもらして走り出す。
途端に静まり返る路地で、カリーナは少女の死体に近づく。彼女の前で膝をつくと、丁寧に祈りを捧げた。先程までの怒り狂った姿が嘘みたいな、悲哀に満ちた静かな後ろ姿だ。
「ロレンツォ」
「なんでしょう、カポ」
「彼女を車に乗せろ」
「どうしてそんなことを? その辺に置いておけば野良犬が食うか、金に困った奴が死体を売るか、変態が慰めもの代わりに使ったりしますよ。その方がファミリーの金を使って供養してやるより、ずっと世間のためになるでしょう」
「イカれた病気野郎を変態なんて言葉で矮小化するな」
ギロリと睨まれ、そこに怒るのかと肩をすくめる。
仕方なく車を降りると、言われるがまま死体を抱える。魂が抜け落ちた体はいやに重かった。ズルリと垂れ下がる腕や足には、いくつもの痣と注射痕がある。
少しだけ悩み、死体は助手席に乗せた。
地中海に浮かぶ孤島で、照りつける太陽と海鳥に見届けられながら、幼い死体を高級車に積み込む。それだけで映画のワンシーンじみている。
カリーナはロレンツォに歩み寄ると、無言で片手を差し出してきた。有無を言わさぬその目に溜め息をもらし、懐に戻した拳銃を渡す。
簡単に拳銃を確認すると、数メートル先の地面に向かって立て続けに発砲した。全ての弾を撃ち終われば、ロレンツォへ押しつけるようにして渡してくる。
「俺がこれを持っていてもいいんですか?」
意外だと、車体に背を預けるカリーナへ尋ねる。
車に乗らないのかとも思ったが、助手席を眺める痛ましい視線に気づいて言葉にするのはやめた。代わりにカリーナから離れ、近くの壁に寄りかかる。
「何度没収しても、手癖の悪いペットはまた悪さをするだろう。だったら毎度没収するだけ無駄だ。代わりにお前が銃弾は手に入れられないよう、武器屋への根回しと銃弾の管理は徹底させる」
「お気づかい感謝します」
皮肉混じりに肩をすくめれば、疲れた視線に射抜かれた。どこか痛ましくもある顔には、ロレンツォへの疑心も浮かんでいる。
「それよりお前は何故、あの男じゃなく、私でもなく、この子を撃った。銃を隠し持ってることを知られたくなかったろうに、わざわざベルナルドの警戒心を高めさせるだけだろう」
「……あの男はカポ自ら殺したいように見えたので撃ちませんでした。その子を殺したのは、生きているだけ可哀想だと思ったからです。ヤク中は嫌という程見てきましたし、スラム街の子供がどんな目にあうかも知っています」
「……」
「銃を、撃ったのは。カポや、ベルナルドじゃなく、俺がそのガキを殺す方がいいと思ったからです」
何度も言葉に詰まりながら言う。カリーナは一言も返事をしなかった。
ちらりと見た顔は未だ青ざめている。何かを堪えるように唇を噛み締めていた。
彼女を殺すならば今が絶好の機会だ。ここはラクリマではないし、護衛もいないし、武器がなくとも女の一人くらいどうとでも出来る。
そうしない理由は、アルベルトの死の真相がまだわからないからだ。絶対に、それだけだ。
「カポこそ、どうしてそのガキを助けようとしたんですか。スラム街にはこんなガキ、腐るほど溢れていますよ。まさかそれを見かける度に助けているんですか」
不眠症だと語った顔と、我を忘れる程怒り狂っていた後ろ姿が脳裏をよぎる。まさかなという予想を否定するように、カリーナは不愉快だと鼻を鳴らした。
「何を考えているか知らんが、自分が被害にあわなければ被害者に寄り添えんなど阿呆らしい考えだ。目の前で私と同じ女が虐げられていた、だから助けた。それ以上でも以下でもない」
「その慈悲を誰にでもかけているんですか?」
「お前だって生かしてやっているだろう」
皮肉げに頬がつりあげられる。
言われてみればそうだ。自分自身こそがカリーナの慈悲の体現ではないか。
だがそれだけでは納得いかない。
慈悲ならば、ステラルクス島の島民全てに等しく付与されるべきだ。少女に限るというならばそれでもいい。だがイルマーレは相も変わらず腐りきり、売人とその客に溢れ、ファミリーの目を盗んで子供や女の尊厳が僅かな金にされ、人が人でモノないとして売り買いされている。
この現状を知っていて、カリーナの慈悲なんか信じられるわけがなかった。
「俺にはただの気まぐれにしか思えません。本当に慈悲をかけるなら、島の全てを変えなければ意味がない」
素直にそう言えば、カリーナが喉の奥で笑う。酷く歪んだ笑い方だ。
「そうだな、確かにこれはただの気まぐれだ。今日は天気が良くて、お前がいて、空気の悪い街に来てしまった。そこでさらに気分の悪いものを見たから、なにか一つでも良いことをしたくて助けようとした。全部ただの気まぐれだ」
「だがな」とカリーナが言う。後悔が浮かぶ彼女の瞳は、じいっと少女の死体を見つめていた。
「犯罪者でも超えてはいけない線がある。子供を守るのが大人の役目だ。大人が子供を虐げるなんて絶対にあってはいけない。それだけは、この世で唯一正しいことだ」
真っ直ぐな言葉に喉の奥が詰まる。
助手席の物言わぬ死体が、ロレンツォを責め立てている気がした。
この時初めて、人を殺した罪悪感が沸き起こる。
子供の頃の自分が隣に立っていた。お前みたいな大人が、俺を殺したのだと。
「煙草」
「え?」
「一本寄越せ」
なにを考えているか分からない視線が向けられた。真っ直ぐな瞳には、その癖耐え難い激情が隠されている気がする。
カリーナの瞳に引き寄せられ、無意識のまま足を踏み出す。懐から取り出した煙草の箱を差し出せば、カリーナは慣れない手つきで一本引き抜いた。
彼女が煙草を吸っているところなど、今まで一度も見たことがない。案の定ライターを向けるが、火をつけるところから苦戦していた。これはただでさえ火がつきにくい煙草なのだ。
「吸いながら火をつけるんです」と言えば、一気に吸いすぎたのか盛大に咳き込む。白かった頬に僅かな赤みがさした。
「大丈夫ですか、カポ」
「ゲホッ……! あー、クソっ、本当にクソ不味いな。こんなものの何がいいんだ」
「はあ、そりゃあ、まあ……何がいいんですかね?」
愛煙家ではあるが、その質問に答えられず首を捻る。そうすれば理解できないものを見る目で見られた。
「……お前があの子を殺した判断は正しかったんだろうな。私には出来ないことだ」
「……」
「やっぱり私も、ロレンツォに殺されたいな」
カリーナが小さく呟いた時、路地の奥からベルナルドと、彼に引きずられる男が現れた。
不安に彩られていたベルナルドは、カリーナを見ると途端に安堵を浮かべる。
「俺はカポがあの子を助けようとした時、マフィアのカポである貴方だけが、こんなスラム街のガキを人として扱うことが皮肉に思えて、心底ムカつきました……でもこの子にとっては、少しだけ、本当に少しだけ、カポの存在は救いになったと思います」
「……」
「俺ももっと早く、今と違う形で、貴方の慈悲が欲しかった」
夏の乾燥した風が二人の間を流れていく。
カリーナは深く、何かを飲み込むように煙草の煙を吸い込んだ。
高級車の中で、可哀想な少女が二人の来訪を待っている。