裏表③
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ロレンツォの人生は、四年前に狂い始めた。
当時のロレンツォはまだ二十二歳で、兄の援助のもと大学に通っていた。
両親はろくでもない人達で、幼い頃から彼らと縁をきることばかり願っていた。兄が警察官となったとき、二人を捕まえてくれと本気で頼み込んだほどだ。
父はドラッグに溺れていたが、ステラルクスの片田舎では珍しくもないことだ。警察なんてものにもマフィアの息がかかり、法の秩序を保つなどという高尚な役割は果たしていなかった。それでも兄は警察に夢を見、歳の離れた弟を少しでもまともな社会で暮らさせてやりたいと、真剣に仕事へ励んでいた。
ロレンツォは大学を卒業すると同時に、ステラルクスを出るつもりでいた。犯罪者が支配するこんな島は異常で、自分たちだっていつ犯罪に巻き込まれるかわかったものではない。だから一緒に島を出ようと、何度も兄を説得していた。そのたびに兄が困った顔をする理由が、ロレンツォには全くわからなかった。
アルベルトは殺される二年程前から、理由のわからない外泊が増えていた。尋ねても「仕事だから」「迷惑かけてごめんね」と曖昧にごまかされるばかりだった。ただその頃の兄はいつも疲れ切った顔をしており、そのわりにギラギラと強い意志が燃える瞳をしていたのだ。
ある、晴れた日だった。
その日の一ヶ月前から、兄は一度たりとも家に帰っていなかった。家を出る前に仕事が忙しい、と申し訳なさそうな顔をしていた。その言い訳を聞き飽きたとは言わなかった。ただ「がんばってな」と送り出したことは、今でも深く後悔している。
兄が家に帰ってこなかった間、両親はその不在に気づくことはなかった。召使いは二人いるのだから、一人が長いこと不在にしても彼らの生活に変化はないのだろう。困ったことがあるとすれば、金が入ってこないことだろうが、このときは金の心配をする必要などなかった。兄がどうやってか貯めていた大金を見つけ出していたのだ。
ロレンツォはドラッグ入りの朝食を用意しながら、アルベルトが連絡もなしに帰ってこないなど、なにかあったのだろうかと心配した。口から泡をはく父親を眺め、ようやく警察に行ってみようと決意した。アルベルトが帰って来なくなり、三週間が経ったときだ。
初めて訪れた兄の職場は、ずいぶんと古びた外観をしていた。長年雨風に晒され、老朽化が進んでいる。誰からも必要とされず、ただ形骸的にそこにあるだけの警察署は、この島における彼らの役割をよく象徴していた。
「アルベルトは二週間前に辞めたよ」とぶっきらぼうに言ったのは、窓口の男だった。昼間からアルコールで顔を赤らめ、ピンク雑誌を読んでいる。それがおかざりの警察職員にとっては大切な仕事なのだろう。
そのまま捜索願いをだしたが、あの書類が受理されることはなかったはずだ。きっと未だ窓口の書類にうもれているか、クズカゴに入れられているかのどちらかだ。
薄暗い路地の隅で痙攣している男を眺めながら、兄を捜す方法を変えるべきだろうかと悩んだ。
それからは根気よく、兄がよく行っていた店や親しくしていた友人関係をあたった。母親といえば父がいなくなったことにも気づかず、部屋にこもって酒ばかり飲んでいた。だからとりあえずは生かしていたのだ。
だが兄の金に手をつけたのはダメだった。兄の金でデカいばかりの宝石を買ったのはもっとダメだった。
兄のものを、下賎で下等な畜生以下の生き物が奪うなんて許されない。だからこそ刺して、細切れにして、燃えるゴミの日に捨てた。生きる価値のない生ゴミ女にはお似合いの最期だったと思う。
兄が帰ってきたのは、晴れた日だった。
一週間続いた雨が夜中にあがり、久しぶりに陰鬱とした空気が消えていた。早朝に目が覚めたロレンツォは、兄がとっている新聞を回収するために外へ出た。そんな弟を、物言わぬ兄が出迎えたのだ。
テレジオファミリーが見せしめとして殺すとき、いくつかの特徴がある。また、それがどんな裏切りであったか示す殺し方もあった。
まず、裏切り者は二度と口がきけないよう、生きたまま舌と歯を抜かれる。さらに金に目がくらんで組織のことを喋ればポケットにサボテンを。見てはいけないものを見てそれを喋ったものは、目玉をくりぬかれ手に握らされる。
アルベルトの死体にも、舌と全ての歯がなかった。だがサボテンも、目玉も持ってはいなかった。
代わりにどうしてか、臓器を全てくりぬかれ、腹の縫い目から溢れんばかりのコインを詰められていたのだ。
*
ロレンツォの仕事は、早朝にカリーナへ新聞を届けることから始まる。
これまでは使用人の役目だったらしいが、カリーナの命令でこの面倒な仕事を押しつけられることとなった。
段々と太陽が昇る時間が早くなり、早朝でも薄明かりに包まれていく。未だ重い眼をなんとか開き、もれそうになる欠伸を噛み締める。睡魔ばかりは根性で耐えられなかった。
カリーナの部屋に辿り着くと、控えめに扉を叩く。いつもならばすでに身支度を整えたカリーナが、「遅い」と不機嫌そうに出てくるのだ。だが今日はいくら待とうが、分厚い扉が開かれることはない。そのことに眉をひそめた。
「カポ、おはようございます」
珍しく寝坊しているのだろうか。
そう思ってもう一度扉を叩く。だがどれだけ経とうが、部屋の主が出てくる気配はない。
「カポ?」
不審に思い、ドアノブに触れる。鍵付きの寝室であるのに、思いのほかあっさりと開かれた。
「カポ、入りますよ」
もう一度だけ、遠慮がちに声をかけて室内に入る。その瞬間シトラスの匂いが鼻をくすぐった。
カルロの部屋もシンプルだったが、この部屋はさらに物がなかった。ティファニーブルーの壁紙に包まれた広い部屋の中で、奥にポツンとベッドが置かれているだけだ。人が過ごしている気配を感じられないほど、寒々しい内装だった。
シルクのシーツが敷かれたキングサイズのベッドで、カリーナが眠っている。横向きに体を丸め、スヤスヤと寝息をたてていた。枕元には空のワインボトルとグラスがあり、入眠する間際まで酒を飲んでいたらしい。
カリーナは白のネグリジェに身を包んでいた。布団をきていないから、ネグリジェから覗く細い手足があらわになっていた。その様子は一種の絵画じみている。
ロレンツォはベッドに近づくと、彼女の横に腰掛けた。ベッドが軋むが、カリーナが起きる気配はない。
薄く開かれた唇をなぞり、指先で頬をすべらせ、細い首筋に触れる。ひとたび力をいれるだけで、この女を殺せるのだ。
「女の寝込みを襲うなど、紳士の風上にも置けないな」
かたく瞼を閉じたまま、カリーナが言った。そのことに驚かない。首に触れる手を離すこともしない。カリーナも、抵抗する素振りなど見せず、瞼を開かぬまま言葉を続けた。
「私を殺したければ、今が絶好の機会だ。そのまま力をいれろ」
「……まるで死にたがっているみたいなセリフですね」
「否定はしない。いい加減安眠をむさぼりたいんだ。ロレンツォが私を寝かしつけてくれるなら、ありがたくお前の好意に甘えよう」
その言葉からは、死への恐怖など微塵も感じられなかった。
もれそうになる舌打ちを飲み込み、喉の中央に親指を這わせる。
カリーナの肌は滑らかで、酷くやわらかい。そのことがまた、ロレンツォを苛立たせた。
「兄貴を、アルベルトを殺したのは誰ですか」
「いまさら何をおかしなことを言う。アルベルトを殺したのはテレジオファミリーで、私はテレジオファミリーのカポだぞ。お前もそれを知っているから、私の命を狙っているんだろうが」
「貴方が直接殺したわけではないんですよね。貴方が望んで、兄貴を殺させたわけじゃない」
「ふふ、急にどうしたんだ。お前は情に絆される奴じゃないと思ったんだがな」
そこでカリーナの瞼が開かれる。
淡いグリーンの瞳が、力強くロレンツォを貫いた。少しもブレない視線に、無意識のまま喉がなる。
「アルベルトは私達の名誉を傷つけた。いくら殺しても足りないくらいだ。今頃地獄の業火に焼かれていることを切に願うよ」
「……でも、兄貴はテレジオファミリーの構成員だった」
「ああ、そうさ。先代が立ち会った儀式で血の掟を誓った。それなのにあいつは許されざる裏切りをしたんだ」
カリーナは喉の奥で笑い、ロレンツォの手へと触れてきた。
赤く塗られた爪が、ロレンツォにたてられる。小さな痛みが皮膚を焼き、赤い血が微かに滲んだ。
「本来なら血縁者であるお前も殺されているところだ。だが私の慈悲でお前はまだ生かしてある。わかったならあまり私の機嫌を損なわせるんじゃない」
低く囁く言葉には、煮えたぎる怒りがこめられていた。
カリーナは未だにアルベルトを許していないのだ。無惨に体を刻み、痛めつけ、死してなおその尊厳を愚弄していながら、未だ許していないのだ。
「貴方と兄さんの間に、いったい何があったんですか」
呻くように言えば、カリーナの体が小さく揺れる。笑っているのだ、と気づく間に突然腕を引かれた。
俯いていた顔が天井を見上げる。柔らかいベッドが腰を包んだ。腹を圧迫する重みを感じる。
──苛立たしげに見下ろすカリーナに息が止まった。
一瞬の間にロレンツォを組み倒したその体術に舌を巻くが、何より驚いたのは銃口が己の眉間をとらえていることだ。枕の下にでも隠し持っていたのか、旧式のリボルバーがカリーナの手に握られている。ブレることのない銃口が、ロレンツォの命をもぎ取ろうという明確な意志のもと目の前に存在していた。
「アルベルトとの因縁は、私だけに関わりのあるものではない。これはファミリーの名誉に関することだ」
「では兄さんが、テレジオファミリーに何をしたと言うんですか。ファミリーの情報を流し、麻薬を奪い、それで殺されたんですか。そこまでファミリーの名誉を重んじるなら、どうして血縁者である俺や両親はすぐに殺さなかったんですか。どうして見せしめの死体を、広場ではなくうちの前に放置したんですか」
マフィアが自分達のメンツを守るため、金を盗んだものを殺すなんてことはよくある話だ。よくある話だからこそ、納得がいかない。
オメルタを破った挙げ句、マフィアのドラッグに手をつけてタダで済むはずがない。いくら金に困っていようが、金を稼ぎたければもっと賢い方法があるはずだ。そんなこと、この島ならば子供だって知っている常識だ。
この質問にまともな答えが返ってくるとは思っていなかった。案の定、カリーナは喉の奥で笑い、嘲笑するように小首を傾げる。
「お前はどうして、そこまで私を殺したがる」
「……まずカポが俺の質問に答えてください」
「はは、全くもって私のペットは可愛いな。どうしてご主人様がペットの言うことを聞かなければいけない。笑顔で尻尾を振るのはお前の役目だろう」
見せびらかすようにリボルバーを振られ、小さく溜め息をつく。それでもカリーナから視線をそらさぬまま、真っ直ぐに答えた。
「兄の復讐です。兄の無念を晴らすために貴方を殺したい」
「それはアルベルトが望んだことか?」
「違う」
「では誰のための復讐だ」
「……俺のためだ。俺のために、貴方には死んで欲しい」
改めて口にした言葉は酷い苦味があった。
その言葉を聞いてうっとりと笑うカリーナすら薄気味悪い。
カリーナはリボルバーを置くと、ロレンツォの胸にすがりついた。柔らかい手のひらを肩に添え、心臓の音を聞くようにしながら呟く。
「お前は良い男だ。裏表がないし、馬鹿で間抜けで、人を欺くなんてことには向いてない」
「……大人しいペットでもさすがに怒りますよ」
「ふふ、本当にお前は可愛い奴だなあ」
カリーナが笑う度、覆い被さる体が小さく揺れた。柔らかいその感触に悩む間に、カリーナが言う。お前だけが知らないんだ、と。
「お前が好きだよ、ロレンツォ。だから私に、お前を殺させないでおくれ」
とびきり甘やかで、脳髄すら蕩けさせかねない声には返事をしない。
殺される前にお前を殺してやるという言葉は、胸のうちにだけ秘めておいた。