裏表①
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窮屈なスーツに眉をひそめながら、無意識のまま何度も襟元に触れる。カリーナに与えられたスーツは、袖を通しただけでも上等なものだとわかる生地だ。自分の人生の中で、ハイブランドのスーツを着る日が来るなど夢にも思っていなかった。
「ふあ、クソ眠っ……」
扉を挟み、ロレンツォの隣に立つベルナルドが小さくもらした。独り言だろうが、つられるように視線を向ける。言葉通り、彼は大きな瞳をとろんと閉じかけていた。
カリーナの護衛として連れてこられた二人は、とあるホテルのスイートルームから締め出されていた。彼らの主であるカリーナは、この部屋の中にいる。
テレジオファミリーが根城にしているラクリマという都市では、つい最近知事が変わった。堅実で真面目な彼は、知事になるや否や、マフィアの取締り強化をうたい始めた。その知事との会合が中で行われているのだ。
本来ならファミリーの権威により、知事のような男はすぐに排斥されてしまう。この島でのトップは長年テレジオファミリーだったのだ。マフィア排斥をうたう政治家など、命を狙ってくれと言うようなものだ。
だがスタンフォードは危険を顧みず、市民の安全を優先した。結果として市民から見限られ始めたのは皮肉な話だ。
「カリーナは今までも、こうしてスタンフォードと会っていたのか?」
会合が始まって三十分。退屈に耐えきれなくなり、そう尋ねる。
もしこれまでも会合が行われていたのなら、清廉潔白な政治家に裏の顔があったということだ。スタンフォードの志に尊敬していただけに、その事実は落胆するには十分だった。
だがベルナルドはチラリとだけロレンツォを見ると、興味なさげに視線を戻す。
「なに想像してるか知らねえが、この島じゃ要職につきたきゃ俺らにゴマするしかねえ。それはお前も知ってんだろ」
ベルナルドの言う通りだ。
テレジオファミリーとは、ステラルクス島を支配する犯罪組織である。彼らにとって都合がいいように、賄賂と脅迫を持って、警察も政治家も動かされてきた。知事となった時点で、その政治家がマフィアと近しい間柄であることは誰もが想像出来る。
「だからスタンフォードは市長にまでなれたんだが、まあ、あいつもここで終わりだろうな」
「それはあの女を裏切ったからか?」
「カリーナは絶対に裏切り者を許さねえ。あいつを裏切って生きてる奴は殆どいねえよ」
彼がそう言ったとき、唐突に扉が開かれる。驚いて視線を向ければ、不機嫌な顔をしたカリーナがいた。
今日の彼女はカルティエの真っ赤なジャケットと白のパンツに身を包んでいる。シャツはなく、はだけた胸元には派手な柄のスカーフが揺れていた。こんな窮屈な島より、銀幕の向こう側が似合う華やかさがある。
「帰るぞ、お前ら」
「了解、カポ」
ベルナルドは短く答えると、ツカツカと歩くカリーナの後を黙ってついて行く。
ロレンツォは去り際、チラリと部屋の中を見た。豪奢なスイートルームは、廊下からリビングルームを覗くことはできない。だがカリーナを追ってきたのだろう、初老の男が視線の先に立っていた。
呪い殺しそうな目をした男を見たことがある。注目の新任知事と目が合い、足が止まる。だが「早くしろ、ロレンツォ!」と怒鳴られ、慌ててカリーナを追いかけた。
ロレンツォ達が乗ってきた車は、すでにホテルの前に止まっていた。だがカリーナは車に乗ろうとせず、そのまま真っ直ぐに歩き出す。
「どこに行くんだよ、カリーナ」
「歩いて帰る」
「歩くって、お前……」
「ベルナルドは先に帰れ。護衛はロレンツォだけでいい」
その言葉にはさすがに面食らう。確かにどちらかは車を持ち帰らななければならないが、だとしたら普通、その役目はロレンツォが担うべきだ。何度も言うが、ロレンツォはカリーナを殺すためにファミリーへ近づいたのだぞ。
ベルナルドもさすがに渋そうな顔をする。だがすぐに諦めた溜め息をつくと、「早く追いかけろ」と顎で示した。
「くれぐれも気をつけろよ。あいつに傷ひとつつけたら、カルロになにされるかわかんねえからな」
「……釘を刺されてる、ってことでいいのか?」
「ま、そうだな。ついでに良いことを教えてやるなら、アルベルトはスタンフォードの犬だった」
「は?」
「詳しく知りたきゃ、まだカリーナは殺さない方がいいぜ」
そう言うと、早く行けとばかりに手を振られる。カリーナの背中はすでに小さくなっていた。急いで追いかけなければ見失ってしまう。
「……その話、後で詳しく聞かせろ」
「だったらカリーナを無事に連れて帰れよ」
薄く笑われ、苦いものを感じる。それでもカリーナを追いかけた。
例えばベルナルドの言葉が真実だとして、ロレンツォが信じていた兄の姿は本物だったのではないか。テレジオファミリーを壊滅させるために潜り込んだ、正義のヒーロー。それは優しかった兄にピッタリの真実だ。
カリーナの背中に追いつき始めたところで、考えるのはやめようと首を振った。
テレジオファミリーに潜入したのは、カリーナを殺すためと、どうして兄が死ななければいけなかったのか真相を探るためだ。そういう意味において、ベルナルドに釘を刺されずともまだカリーナを殺すつもりはない。そして兄がどうしてファミリーと接点をもったか調べるためにも、彼女へ取り入る必要があった。
「カポ!」
ようやく追いつけば、ギロリと睨まれた。明らかに不機嫌な態度に、つい立ち止まってしまう。
「遅い」
「すみません」
素直に謝れば、眉間の皺も僅かに緩まる。代わりに頬を膨らませながら、通りに並ぶ店のひとつを指さした。
「あれが食べたい、買ってこい」
カリーナが指さしたのは、ジェラートの店だった。最近できたそのジェラート店は、夏を目前にした天候のおかげで大盛況らしい。若者による長蛇の列を眺めながら、たしなめるつもりで口を開いた。
「買い食いなんてダメですよ。真っ直ぐに屋敷へ帰りましょう」
「カルロみたいなことを言うな。あれを食べない限り帰るつもりはない」
子供のような駄々をこねられ、さすがに呆れてしまう。常は触れがたいほどの威厳に満ちているのに、時おり子供じみた言動をするのだ。
「仕方がないですね……何味がいいんですか?」
「ピスタチオ。ロレンツォはチョコレートにしろ」
「俺も食べるんですか?」
「当たり前だろう。半分は私に寄越せよ、代わりに私のものも半分くれてやる」
つまり二種類の味が食べたいが、一人で二つは食べきれないから、残りをロレンツォに食べさせるということだ。
わがままなその言い分は、彼女が甘やかされて育ったことがよくわかる。諦めて頷き、長い行列に並んだ。
カリーナと言えば、ただじっと待つのが嫌らしく、店から少し離れた先で待っていた。自分の順番が来るまで、見張るように彼女を見つめる。
たった数分の間に、カリーナは色々な人に話しかけられていた。最初こそすぐに向かうべきかとドギマギしていた。だが話しかけてくるのはどう見ても一般の市民で、楽しげな話し声はロレンツォにまで聞こえてきた。
「久しぶりねえ、カリーナちゃん。相変わらずのべっぴんさんね。そのお洋服とっても似合ってるわよ」
「チャオ、カリーナ! この前は若い奴らを貸してくれてありがとな! おかげでガラの悪い奴らも減ったよ!」
「ああ、シニョリーナ。こんなところで会えるなんて思わなかったよ。実は三日前にうちの倅がナイフ使いに襲われてな。アンタに相談したいと思ってたんだ」
代わる代わる話しかけてくる人々に、カリーナは笑顔で答えていた。屋敷では一度も見せたことがない純粋無垢な笑顔だ。その顔を遠目に見ながら、あんな風に笑うことがあるのかと驚いた。
「なんですか、それ……」
ようやくジェラートを買って戻れば、ちょうど男が手を振って離れていくところだった。僅か数分の間に、カリーナは抱えるほどの紙袋を持っている。果物や焼き菓子が覗く紙袋を、誇らしげに見せられた。
「いつもありがとうと色々もらったんだ。帰ったらお前にもわけてやる」
「ありがとうって、なんでマフィアが感謝されてるんですか」
「うちのファミリーの教えだ。威厳と誇りを持ち、市民から愛されよ、とな。私達は犯罪組織だが、市民の誇りとなる存在である必要もある」
ロレンツォはよほどおかしな顔をしていたのだろう。カリーナが「そういえばお前は、イルマーレの出身だったな」とこぼした。
ステラルクス島は縦に長い形をしており、北東にイルマーレ、南東にオムニブス、イルマーレから僅かに下がり北西にキルクルス、その下にラクリマという四つの県で形作られる。
テレジオファミリーが拠点としているのはこの中で最も栄えたラクリマ県都だ。
またロレンツォの出身であるイルマーレは、ステラルクス島の中で最もラクリマから離れており、テレジオファミリーの支配も弱い。実際ラクリマに出て来て四年、マフィアと市民の近さには、同じ島でありながらこうも違うのかと驚かされてきた。
だが構成員と一般市民が昼間から酒を酌み交わすことと、マフィアのカポが市民と穏やかに会話することでは意味が違う。このラクリマに暮らす奴らは異常者だなと、思わず眉をひそめてしまった。
「屋敷に戻る前にそれは処分しましょう。何が仕込まれているかわかりませんから」
「はは、お前が言うと説得力が違うな」
「カポ」
「それより早くジェラートを寄越せ。溶けるだろうが」
紙袋を握りしめるカリーナは、それを手放すつもりはないらしい。百歩譲って屋敷に持ち帰るのはいいとして、両手がふさがっていながらどうやって食べるつもりなのか。
そう思っていれば、促すように口を大きく開けられる。
「何してる、早く食べさせろ」
「……俺が食べさせるんですか?」
「他にどうやって食べろと言うんだ」
むっとされ、だったら紙袋を手放せばいいだろうと思う。だが反論するのも面倒で、大人しくピスタチオのジェラートを差し出した。
カリーナは嬉しそうに齧りつく。頭を下げているせいで、つむじや綺麗なうなじがよく見えた。次いで、落ちる横髪が邪魔そうなことに気づく。
「動かないでくださいね。髪につくといけませんから」
そう言って、チョコレートのジェラートを握る手をカリーナに伸ばす。
ジェラートが髪につかないよう気をつけながら、小指で髪を耳にかけてやった。指が耳に触れれば、驚いたように顔をあげられる。今日はルブタンの口紅ではないのか、赤い唇の中心がほんの少し剥がれていた。
「……今のは少しだけときめいた」
「は?」
「なんでもない。それよりロレンツォも食べろ」
「いえ、俺はカポが食べきれなかった分だけで十分です」
「溶けると食べづらいだろう。いいから食べろ」
有無を言わさぬ言い方に、渋々チョコレートを口元に運ぶ。一口舐め取れば、苦い甘みが広がる。初夏に食べる冷たいジェラートに、暑さが少しだけ紛れる気がした。
「次はそっちも食べたい」
「はいはい」
彼女のわがままにも慣れてきたので、すぐにチョコレートを差し出す。ロレンツォが齧りとった部分を、ピスタチオ色になった舌が舐めとった。
ジェラートを買って、暫く会話していたせいか、それとも食べるのが遅かったせいか。夏の日差しにあてられ、ジェラートの表面が溶け始める。ピスタチオの雫がたれ、拳を伝い始めた。高いスーツに染みができそうなことに気づき慌てる。それよりも慌てたのは、不意に腰を屈めたカリーナが、ロレンツォの拳を舐めとったからだ。
「なっ……!」
柔らかい舌の感触に驚いて、思わずジェラートを落とす。
冷たかった舌に心臓がはやった。だがカリーナは羞恥より、地面に落ちたジェラートに対する悲しみを浮かべている。
「なにしてるんだ、バカ!」
「あ、アンタが急に変なことするからでしょうが……!」
「あれくらいで動揺するな。どうせ女遊びなんかし尽くしてるんだろう」
なんとも理不尽なことを言われ、ワナワナと震えてしまう。
そんなロレンツォになど目もくれず、カリーナは残ったチョコレートを見つめた。
「もういい、そっちを寄越せ。私が食べ終わったら落としたジェラートを片付けろよ」
「このっ……!」
ムカつきはしたが、大人しくジェラートを食べさせる。
二度と拳を舐められないよう、溶けた液体が拳につくたびすぐにハンカチで拭き取った。その度におかしそうな目で見つめられる。