会遇②
*
三ヶ月前まで、カリーナ・テレジオは退屈していた。
規律と血統を重んじる犯罪組織の一人娘として育ち、六年も前に先代の父が急死したことでカポの座を継いだ。
当時はいくら直系と言えど女に──それもまだ十九になったばかりの頃だ──カポをやらせるなど正気かという反対派も大勢いたが、その全てを力で黙らせてきた。さらにはたった数年で、これまでにない利益をファミリーと街に与えたカリーナに逆らうものは、もはや一人としていない。今では冷酷な女神として、威風堂々と犯罪組織のトップに立っている。
だが所詮は大陸から離れた小さな島だ。交友も、遊びも、仕事も限られてくる。優秀で年若い女が退屈を覚えることも仕方ないだろう。
その日ファミリーに紛れていたというネズミのもとへ赴いたのも、つまりはただの退屈しのぎだった。
屋敷の地下には犯罪組織らしく、拷問のための部屋がある。ジメジメとしてカビ臭い部屋を、時代遅れな白熱灯が青白く照らしている。
部屋に立ち入れば、三人の男達がいた。二人はテレジオファミリーの構成員だ。上着を脱ぎ、拳を握りしめているのはカリーナの幼馴染であり、兄のような存在であり、頼りになるアンダーボスでもあるカルロ・マルディーニだ。
百九十センチ近い長身で、短い黒髪と鋭い茶色の瞳をしている。爽やかな顔つきの彼は、それまで獣のごとく狂気に満ちた顔をしていた。だがカリーナに目を止めると、パッと頬をほころばせる。
「カリーナ、どうしたの」
目に見えそうなしっぽを振られ、たまらず苦笑する。「ただの見学だ」と手を振り、目当ての男へと視線を滑らせた。
部屋の中央には、椅子に縛りつけられた男がいる。ぐったりと頭を垂れているせいで、顔までは見えない。乱れた髪や衣服から推察するに、散々カルロと遊んだ後なのだろう。
「そいつが例のマヌケか?」
「うん、アルベルトの弟だって」
男の後ろに立っていた構成員が、髪を掴み無理矢理男の顔を持ち上げる。苦痛に満ちながらも、ギラつく瞳がカリーナを睨んだ。
すっかり腫れ上がってはいるが、それでも器量の良さは伺えた。太い眉と垂れたシーフォムグリーンのアイズに、分厚い唇。男臭い風貌や、筋肉質な体格から漂う色気がカリーナ好みだった。
「なるほど。アルベルトは思慮深い男だったらしいが、弟はとんだ考えなしだな。身元を偽ってうちのカジノに潜るなど、疑ってくださいと言ってるようなものだろう」
「……」
「弟の名前は確か……ロレンツォと言ったか。自慢の弟が自分と同じように殺されるとなれば、死んだ兄も悲しむだろうに」
「気安く兄貴を語るんじゃねえよ、クソビッチ」
ロレンツォが咆哮する。その瞬間、カルロがロレンツォの頭を鷲掴みにし、勢いよく腹を蹴りあげた。ロレンツォは血反吐を吐きながらも、決して悲鳴をあげない。喉の奥で痛みを溜め込む彼に感心した。
「やめろ、カルロ。こいつには聞きたいことがある」
「ゴホッ、ごほっ……!」
「なあ、ロレンツォ。お前はどうしてうちのファミリーに近づいたんだ?」
ロレンツォに一歩近づき、見下ろしながら尋ねる。
カルロは側に控えながらも、ロレンツォを鋭く射抜いていた。
「はあ、ハア……てめ、えに。兄貴の復讐をするためだよッ……!」
「復讐だと?」
「カリーナ・テレジオ、お前だけは絶対に俺が殺す。兄貴が受けた屈辱と痛みをお前に返してやる……!」
ギロりと睨まれ背筋が震えた。性交に似た衝撃がカリーナを襲う。
ここまで痛めつけられていながら、今なお途切れることない殺意がロレンツォを支配している。もっと言うならば、この愚直な男の頭には、カリーナしか存在しないのだ。恋慕や愛慕にも勝る執着を向けられることに、言いようのない愉悦を感じた。
だがそう感じるのはカリーナだけであり、彼女を殺すと宣言したロレンツォに対し、カルロと構成員がまとう雰囲気が冷たさを増す。そんな彼らを無言で制しながら、ロレンツォの顎を指先で持ち上げた。
「随分と兄思いの弟だな。二十六にもなって兄離れができないのか?」
「お前のおかげで、する機会もなくなっちまったからな」
皮肉げに頬をつりあげられ、胸の奥がうずく。
アルベルトは裏切り者だ。そんな男の弟など関わるべきではないし、さっさとロレンツォを殺し、くだらない怨嗟など断ち切ってしまうべきだ。
そうわかってはいるが、どうして初恋を捨てられる。退屈とは無縁の、甘くも情熱的な感情を、この男が与えてくれる予感がするのだぞ。
「お前に二つの道を与えてやる」
カリーナが笑う。
ロレンツォは忌々しく奥歯を噛んだ。
「今ここで死ぬか。護衛として私の隣に立つか。どちらかを選べ」
その言葉にカルロの表情が変わる。カリーナを止めるようなことは言わなかったが、彼の目はどういうつもりだと訴えていた。だがその目には気づいていないフリをする。
「私は嘘つきが嫌いだ。だからお前が私に正直である限り、殺さないでいてやる」
「……何が目的だ」
「目的がなければ不満なのか? そうだな……、……殺してやりたい奴を守る屈辱が、お前のような愚か者にはお似合いだろう。愚か者が屈辱に震える姿を見るのは、いい退屈しのぎになる」
ふと思いついた理由を語れば、カリーナの真意を探るように瞳を細められた。真っ直ぐなシーフォムグリーンに射抜かれるだけで、魂が震えるような感情を覚える。
これが初恋で、一目惚れというものか。
二十五年も恋というものを知らずに生きてきたから、自分と色恋はとんと無縁のものだと思っていた。それなのにようやく手に入れた運命が、四年も前の裏切り者の弟であり、自分を殺そうとする男なのだから笑える話だ。
「……上等だ、クソビッチ」
ロレンツォが低く唸る。
ギラギラと光る瞳には、薄暗い殺意がにえたぎっていた。
「お前の盾だろうが銃だろうが、なんにでもなってやる。お前を殺していいのは俺だけだ」
それはまるで、熱烈な愛の言葉に思えた。
ヴェスヴィオ火山の噴火のごとき激情が、カリーナだけに向けられる。禍々しく愚直な殺意が、カリーナの心を射止めたのだ。
「カルロ、こいつの縄をほどけ。それから医者に連絡して治療をさせろ。回復次第新しい仕事を覚えてもらう」
脈打つ鼓動を耳の奥で聞きながら、くるりと踵を返す。カルロは不満げな顔でカリーナを見た。
「血の掟はどうするの。親族に警察関係者がいる、または裏切り者がいる場合は構成員になれないだろう。こいつの場合どっちも当てはまる」
「誰が構成員にすると言った。そいつは私のペットとして飼うんだよ」
「君はまた意味のわからないことを……」
溜め息をつきながらも、これ以上何を言っても無駄だと悟ったのか。無駄に長い付き合いではないのだから、すぐさま諦めた顔をされる。
だがカルロは縄をとく間、ロレンツォに耳打ちした。「カリーナに手を出せば、殺してくださいと懇願するまで遊んでやる」
その言葉にロレンツォが喉の奥で笑う。
「そこの女を地獄まで道連れにできるなら、どれだけでも踊ってやるよ」
「……生意気なところはアルベルトそっくりだ」
忌々しそうに呟かれた言葉は、だがロレンツォには届いていなかった。
カルロになど目もくれず、ただカリーナだけを睨み続ける視線に、頬が緩まることをおさえきれなかった。