第1章8話 環と姫乃とレストラン③
この話でレストラン編は完結します。
姫乃のお礼編(仮)はもう少しだけ続きます。
提供された料理に僕らは目を見張った。
姫乃の注文した和牛のステーキからは、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが立ち上っている。
焼き加減も絶妙で、おそらくミディアムレアくらいだろうか。食べやすいように切り分けられた断面から程よい赤みが微かに覗いている。
見ているだけで口の中に唾が湧いてきて、本当に美味しい料理は、味だけでなく見た目や香りも重要であるという言葉を身をもって実感することになった。
一方で僕が注文したシェフお任せコース、その中身は(まだ早いかもしれないと思ったけれど)夏野菜をふんだんに使ったヘルシーな料理が多かった。店の中に女性客が多かったことも頷ける。ちなみにメイン料理は今が旬のマコガレイのムニエルだ。こちらもバターの良い香りが漂っている。
ここまで色々なことを思ったけれど、いざ料理を前にした僕らの反応はただ1つ。
「「美味しそう!」」
と言うことしかできなかった。
「「頂きます」」
料理を目の前にして色々と上の空になっていても挨拶は忘れずにする。
そして食べ始めたわけだけど……
「美味しい!」
「……美味い」
新鮮な夏野菜を使用しているのだろう、サラダの瑞々しさが食欲を刺激する。
コンソメスープも濃すぎない味付けで非常に飲みやすい。
そしてメインのムニエル、しっかりと焼いてあるのに水っぽくない。ふっくらとした身の食感を香ばしさと共に味わうことが出来た。
自然と笑みがこぼれてくる。
これが美味しいものに対する反応なんだろう、そんなどうでもいいことを頭の片隅で考えながら黙々と食べ進める。
そんな中で、姫乃の視線に気がついた。何やら物欲しそうな顔でこちらを見つめている。
おそらく、僕の食べているものが食べたくなったけどがっついていると思われたくないから言い出せないと言ったところだろう。
そんな微笑ましい一面に頬を緩めながら姫乃に言う。
「ちょっと食べる?」
「いいの!?」
分かりやすく姫乃の顔が輝く。
こういう所は本当にかわ…………いや、僕は何を考えているんだ。
「いいよ。その代わりそっちの肉も1切れ貰える?」
「もちろん!」
ムニエルがのった皿を姫乃に渡し、肉の乗った鉄板を受け取る。
1口大に切り分けられた肉を口に入れて咀嚼する。ひと噛みごとに肉汁が溢れだしてくるのがわかった。それなのにくどくない、むしろ程よい甘みが感じられるほどだ。国産と言うだけあって肉も柔らかく噛み切りやすい。和風のソースとも良く絡んでいて、飽きない味になっていた。
鉄板を姫乃に返却したところで、気が付かなくてよかったことに気がついてしまう。
僕たちのこの行為は関節キスにあたるんじゃないか?
姫乃も同様のことを考えたようで、頬を赤く染めていた。
非常に心地よい雰囲気の店の中で、非常にいたたまれない空気になる。
この空気を打開するために口を開く。
「お、美味しかったよ。ありがとう」
「う、うん……」
ダメだ、会話が続かない。
それどころかぎこちなくなってさえいる。
どうしたら良いか考えを巡らせていると、丁度良いタイミングで店員が来てくれた。
「空いたお皿お下げしますね」
「ありがとうございます」
店員が手際良く皿を片付けている間に呼吸を整える。
よし、もう大丈夫。
その後はお互い自分の頼んだ料理を黙々と食べ進める。
傍からすると、男女で来ているのに何も会話がない、奇妙な光景に見えることだろう。
暫くして2人とも食べ終わる。
本当に美味しくて、値段に見合った料理だと思った。
姫乃が追加でデザートを2つ頼んでいたのには少し驚いたけれど、そのうち1つは僕のために注文してくれていたものだった。
ビターチョコケーキと書いてあったはずなのに、どうしてだろう、とても甘く感じた。
会計を済ませて店を出る。
最初1万円ほど入っていた財布の中は、もう半分以下まで減っていた。
だけど後悔する気持ちなんて微塵もない。
バイトもしてるけど、生活費の大半を親からの仕送りに頼っている僕。
それでも食料、生活必需品の他にあまり使い道がなかったので貯まっていく一方だったから。
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「姫乃、次はどこ行くの?」
「お、ノリノリじゃん?」
「まぁね」
僕の思い過ごしかもしれないけれど、姫乃と友達になったことを実感してからは、無意識に感じていた壁みたいな物が取り払われたような、そんな清々しい気持ちがした。
そのお陰か、前よりも簡単に姫乃に話しかけられるようになっていた。
「んーとね、カラオケか映画にしようかなって思ってるんだけど、環くんはどっちがいい?」
「僕が決めていいの?」
「当たり前じゃん」
「うーん……じゃあ映画かな」
恥ずかしい話、あまり歌は得意ではない。
自分の醜態は晒したくないので、落ち着いて見ることのできる映画を選択する。
「おっけー。環くんの好きなジャンルってどんなの?」
「日常系かな」
正直アクションとかそういった類のジャンルは見ていると酔ってしまう。
落ち着いた雰囲気の、ほのぼのした映画の方が僕は好きだ。
「じゃあこれ見ようよ。今話題のやつ」
そう言って姫乃が示したのは、美容院で見た雑誌に載っていた俳優が出演している映画。確かに何度もテレビで宣伝されていた。それなら面白くないなんてことはないだろう。
「いいよ」
「やった!前からこれ見たかったんだ」
「そうなの?」
そういえばジャンルを調べていなかった。
姫乃のスマホの画面を見せてもらうと、派手な字で『ラブストーリー』と表示されていた。
頭が真っ白になる。数十秒の後、漸く思考が追いついてきた。
しまった。これはどう考えてもカップルで見るものだ。
しかし「いいよ」と快く言ってしまった手前、今から「やっぱ変えない?」と言うのもはばかられる。
諦めて見ることにしよう。それとしっかり調べておこう、密かにそう心に決めて、軽い足取りで前を歩く姫乃の後ろを追った。
何やら食レポのような雰囲気になってしまいましたが
環たちが食べているものの美味しさが少しでも伝われば嬉しいです。
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