番外編 「橘陽真」②
妹の独白を聞き終えた後、僕は今までにないほどの後悔に苛まれていた。自分がしでかしたことが、望んでいなかった形で陽向に影響を与えていた。そんな自分の考えの浅薄さに嫌気が差した。
「環くん、お姉さん……それと、姫乃さん。ごめんなさい」
言いたいことを全て言い切った、そんなスッキリした顔の陽向が謝っているのを聞いていると、胸にずしりとのしかかってくるものがあった。
陽向が悪いんじゃない。
そう思っていると、環くんが唐突に立ち上がって叫んだ。
「陽向が謝る必要はないだろ! どう考えても悪いのは僕だろ。僕が陽向のことを何も考えずに、自分が父さんに復讐することばかり考えて、勝手に家も出て!謝るのはこっちだ!」
「環くん……」
先を越されてしまった。環くんの気持ちは痛いほどよくわかる。全て僕が思っていたことだったから。
環くんの言葉を聞いているうちに、目頭が熱くなるのがわかった。でも、今はまだ泣く場面ではない。必死に涙を堪えていると、環くんがこう続けた。
「ずっと独りだと思ってた。でも違った。姉さんが、陽真さんが──姫乃がいた。皆が力を貸してくれたから今の僕がいる。だから……今度は僕が陽向の力になる」
僕も、同じだ。
環くんの言葉に大きく頷いて、静かに告げる。
「僕もだ。自分勝手に生きてきたせいで陽向がこんな思いをしているなんて気づかなかった……兄失格だよ。ごめんな。今更かもしれないけど、陽向、僕にも協力させてくれ」
遅すぎる謝罪。許されなくてもいい、それでも僕は陽向を助けたい。
それなのに、陽向は涙を浮かべて言った。
「環くん、お兄ちゃん……ありがとう…………っ!」
お礼を言われる筋合いはない。むしろ僕は罵られるべきだと、そう思った。それを伝えようとした時、横から声が聞こえた。先輩だった。
「2人の味方をするつもりはないけど……お父さんには文句を言いたかったのよね」
その言葉に、喉まで出かかっていた言葉を飲み込んで答える。今1つにまとまりかけているこの状況に水を差す必要はなかった。だから代わりに先輩に言う。
「センパイ、今そんなツンデレいりませんって」
「う、うるさい!」
そのツッコミで、場の空気が緩むのがわかった。
顔を赤くしていた先輩は、気を取り直すようにわざとらしい咳をしてから環くんの目をを見て告げた。
「環、私は手伝うだけ。もう貴方だけの問題じゃない。貴方にはひーちゃんがいる」
その言葉に、環くんと姫乃ちゃんが肩を震わせた。だけど僕は別の光景に目を奪われた。
その言葉を聞いた陽向が、誰にも気づかれない程度に顔を歪めていた。
あぁ、こんな目に遭ってもまだ陽向は──
その思考は環くんの言葉で遮られた。
「……わかってる」
「そ、ならいいわ。ちゃんと全部精算してから、またご馳走してね」
「わかった」
先輩の遠回しな激励に、環くんの表情が晴れた。しかし僕の心に残った塊はまだ暫くは消えそうにない。
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「でも……私、どうしたら…………」
陽向が不安そうにそう呟いた。
そうだ、まだ陽向がどうしたいか、その答えを聞いていない。だから僕は、陽真さんが陽向にこう尋ねた。
「ヒナ自身はどう生きたいの?」
「どうって……」
陽向は暫く考え込んで、顔を上げた。
「私は……私も、自由に生きたい」
その言葉を待っていた。その言葉に対する僕の答えはもう決まっていた。
「じゃあそうしよう」
「え、でも……」
「ヒナ、スマホ貸してみ?」
そして僕は陽向の返答を待たずに机の上に置いてあったスマホを手に取る。そして電話帳の着信履歴を遡って、ある番号に電話をかけた。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
焦ってスマホを取り上げようとする陽向を、「静かに」と制止して相手が出てくれるのを待つ。
そして電話の向こうから聞こえてきた声に、勝ったと、そう思ってしまった。
『陽向君か……環君を連れ戻せたかい?』
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柏木要次郎、電話口の向こうにいる相手の声が聞こえた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
『陽向君?』
痺れを切らしたのか、どこか苛立ちを含んだ声でそう尋ねられた。臆したら負けだ、ペースを握られたら負けだ。そう思って暫く間を置いてから口を開く。
「どうもー。家の父がお世話になっております」
努めて軽薄に。相手の苛立ちが、妹ではなく僕だけに向くように。
『……誰だい?』
「橘家の長男、橘陽真と申します」
軽い態度で自己紹介をすると、電話越しに長い溜め息が伝わってきた。当初の企み通り、相当イラついている証拠だ。
『何故君が陽向君の電話を?』
当然の疑問が投げかけられた。
一呼吸置いてから、様々な感情を綯い交ぜにした声で言い放つ。怒り、後悔、懺悔────。全ての負の感情をそのまま相手にぶつけるように。
「妹をこれ以上泣かせるんじゃねえよ」
「…………っ!」
『……………………』
陽向が息を呑んだ。要次郎さんが沈黙したのに乗じて、言葉を重ねる。考える暇を与えるわけにはいかない。
「俺は貴方と戦います。俺だけじゃない、環くんと、葵センパイと、陽向と……皆で貴方に勝ってみせますよ」
数秒の後、笑い声が聞こえてきた。
『フ、フフフ……』
「何がおかしいんスか」
そう問うと、要次郎さんは嘲笑うような口調で答えた。
『いや、失礼。戦うねぇ…………。ならば僕から1つだけ言わせてもらおう』
そして、今まで聞いたことのない、感情が一切込められていない冷たい声で僕たちの宣戦布告に対してこう答えた。
『感情に任せ大局を見ない、それだから君たちは子供なんだよ。返り討ちにしてあげよう』
その言葉に背筋が凍った。動揺を悟られないように、落ち着いて答えた。
「……ご忠告、ありがとうございます」
せめてもの抵抗で荒々しく電話を切ることを忘れない。
次の瞬間、陽向が僕の胸を掴んで揺さぶった。
「お兄ちゃん!何してくれてるの!?」
「んー?これでもう後腐れないだろ?」
ヘラヘラ笑って答える。
皆にこれ以上不安を抱かせないために。
「これで僕たちの壁は定まった。あとは超えるだけだよ」
そして部屋の中を見渡して、告げる。
「さあ、作戦会議を始めよう」
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そして修さんがやって来て、今夜出発すると提案した。
その提案に、いや、少しも動じない修さんの態度に違和感を感じたものの、それを否定する根拠もなかったため周りに従うしかなかった。
今思えば、ここで無理にでも反対するべきだったんだ。
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自分の家を飛び出したその日は、近くにあったネットカフェで夜を明かした。寝て体力を回復させる必要がある、頭でそう理解していたのに、一睡もできなかった。次の日も、1日をそこで過ごした。何の考えもなしに環くんの家へ行っても返り討ちにあうのがオチだった。必死に頭を回して、自分がどうするべきか、その答えを探す。
だけど、いくら探しても、答えは見つからなかった。
仕方なく翌日、浮かない足取りで環くんの家へ到着した。
すると聞こえてきたのは、修さんと先輩が和解する声。ということは、要次郎さんとの問題は既に解決しているのだろうか。
この状況を打破する光が見えた気がした。
ここに来るまでに、ないよりマシだと思って考えた案は霧散した。今は奇を衒うより、変に考えるよりも、自分の直感を信じた方がいい。
だから僕は扉を開けて叫ぶ。
「陽向を、助けて下さい!」
長い1日が始まった。




