番外編 「橘陽真」①
父にとって、僕は出来損ないだったようだ。
自分に従わず、勝手に家を出ていったんだからその判断も妥当だろうとは思う。そんな父にどう思われようと構わない。だけど僕にはどうしても拭えない気がかりがあった。
これまでも、何度か夢に見ることがあった。
陽向は──妹はどうしているだろうか、と。でもそれと同時に思う。家を出た僕にはもう関係の無い話だ、と。僕はこの2つの思いに挟まれて、押しつぶされそうになっていた。
あの日までは。
4月、先輩からメッセージが届いた。弟がこちらに来るから様子を見ていて欲しい、というものだった。 先輩のブラコンぶりに苦笑しつつ、彼女の弟──環くんのことを思い出す。学生時代、先輩から何度も写真を見せられていたので顔は知っている。問題はどう接するかだった。僕は美容師、環くんは高校生、関係を持つ要素なんて皆無に思えた。
でも、運命というのは悪戯が好きらしい。6月最後の週、何の因果か、姫乃ちゃんに連れられて環くんが僕の働いている美容室にやってきた。
4月、初めて姫乃ちゃんが来た時は冷たい態度だったから聞いてみたことがある。
「どうしてそんな面白くなさそうな顔をしてるの?」
「………………」
その問いに、彼女は無言を以て答えた。関わるなオーラを出している姫乃ちゃんに、その時は苦笑するしかなかった。
ところが1週間前、再び姫乃ちゃんが来た時、その顔は別人かと見紛うほどに生き生きとしていた。その理由を尋ねると、今度は笑顔で答えてくれた。
「ずっと探してた人と再会したんです! まぁ、あっちは気づいてなかったみたいですけど……それでも嬉しくて」
その時の彼女の笑顔が妙に印象に残った。
そして今、環くんと一緒にいる姫乃ちゃんは、今まで以上に輝いて見えた。2人の関係はよくわからなかったけれど、姫乃ちゃんが探していた人物が環くんであると理解するには、それだけで十分だった。
同時に、明るい表情の姫乃ちゃんを見て胸が痛くなった。姫乃ちゃんと陽向の姿が重なって見えたから。
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環くんの髪を切って送り出し、短い休憩時間を活用して先輩に連絡を入れた。
その後も環くんと話す機会があった。
特に驚いたのが、9月、環くんから恋愛相談を受けた時。この時、僕は既に環くんと陽向の関係──2人が許婚の関係であることを知っていた。でも、それ以上に姫乃ちゃんの思いが報われたことが嬉しくて、相談に乗ってしまったんだ。
その日の夜、陽向が泣く夢を見た。夢の中で『お兄ちゃん!』と叫ばれて飛び起きた。
僕には陽向の幸せを願う資格なんてないかもしれない。それでも、陽向を裏切った罪悪感に苛まれない日はなかった。都合のいい話だと、今でも思う。
今でも、後悔している。
そして運命の日。
仕事中に先輩からメールが届いた。その日は客入りも少なかったので運良くスマホを確認することができた。メールの内容を見て、思考が止まった。
『貴方の妹が来た。すぐに来て』
同時に環くんの家の位置情報が送られてきた。もう迷っている暇はなかった。
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どうやって美容室を抜け出してきたのかなんて覚えていない。無我夢中で駅まで走り、改札通ることすらもどかしく感じて電車に飛び乗って、そこで漸く先輩にメッセージを送った。
『今電車に乗りました』
『ありがとう、待ってる』
目的の駅で降り、駅の外に出る。雨が降っていたけれど、濡れることを気にしている余裕なんてなかった。傘もささずに全力疾走をする僕は、傍から見たらおかしな人物だっただろう。それでも、他人にどう思われようがどうでもよかった。
走って走って、環くんの住むマンションに着いた。丁度そのタイミングで駐車場から黒塗りの車が出てくるのが見えた。間違いない、見間違えようがない。橘家の所有する車だった。
管理人さんに事情を話して中に入れてもらう。ゆっくりと階段を上り、息を整える。教えてもらった部屋番号の前に立ち、深呼吸をしてからインターホンを鳴らした。
扉を開けて硬直する環くんに、微笑みかける。
「お待たせ、環くん」
タオルを環くんに渡してもらってからリビングに案内してもらう。陽向に睨まれながら、環くんが出してくれたコーヒーを飲む。全力疾走で体力を消耗していた体にコーヒーが染み渡った。それを見た先輩が「やっぱ兄妹なのね」と呟いていた。何を言われているのかわからなかったけれど、何が言いたいのかは何となく伝わった。
不思議な空気の中、環くんがおずおずと口を開いた。
「えーっと……陽真さんは姉さんに呼ばれたんですよね」
「うん、そうだよ。ていうかセンパイ大分ブラコンですよね」
ずっと思っていたことを正直に口にすると、先輩は顔を真っ赤にして動揺した。
「……はぁ!?」
声が上擦っていた。何を言っているのかわからない、という顔をする環くんのためにズボンのポケットからスマホを取り出して見せる。
先輩が焦ってスマホを取り上げようとするのを躱して、スマホを受け取った環くんが固まった。
信じられない、そんな思いで先輩の顔を見る環くんと、顔を真っ赤にして俯く先輩の目が合った。
姫乃ちゃんも隣からスマホを覗き込んで、どこか嬉しそうに「わぁ」と歓声を上げた。きっと先輩から色々聞いていたんだろう。それを聞いた先輩の顔が更に赤くなっていった。
「姉さん?」
「……何よ、悪い?……弟の心配くらいさせてよ」
環くんが声をかけると、先輩は開き直ったように叫んでから小さな声で補足した。それを聞いて思わず吹き出してしまった。先輩に詰め寄られたけれど何てことはない。
「いや、ツンデレ+ブラコンって……絶滅危惧種よりレアですよ」
「うっさい」
「痛っ!お盆で叩くのは反則ですって……」
部屋の空気を和ませようとそんな軽薄なキャラを演じていると、僕が来てからずっと沈黙を保っていた陽向がこう切り出した。
「お兄ちゃ……兄さんがここに来る理由がわかりません」
理由なんて1つしかない。でも──
「そんなの決まって……ってその前に──」
「……?」
「──ヒナ、その話し方やめないか?」
「なっ……」
妹の話し方には違和感しかなかった。無理をしているような、そんな風に感じた。陽向は自分が話し方を意図的に変えていることを見抜かれてかなり動揺していた。
喋り方を指摘された陽向は数秒の間考え込んでいたけれど、やがてため息をついて元の話し方に戻った。
「やっぱ無理してたの気づいてたの?」
「そりゃ妹だしね」
「環くんも?」
「まぁ……」
そして漸く本題に入る。
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「……じゃあお兄ちゃん、どういうことか最初から話して」
「はいはい」
そう言って話し始めようとした時、環くんが尋ねてきた。
「あの、最初に1ついいですか?」
「ん?」
「すいません、僕、陽真さんが陽向のお兄さんだったこと知らなかった……ていうか忘れてたんですけど」
「あはは……まあそれはしょうがないよ。初めてヒナがそっちに行った時、僕はもう家にいなかったから」
「あ、そうなんですか」
「でも顔は知ってたよ。高校の時センパイが写真を見せてきたから」
「それは言わない約束でしょう!」
「……そうでしたっけ?」
そのまま学生時代の思い出話に花が咲きそうになったところで、陽向が机を叩いた。全員の視線が陽向に集まる。
陽向は誰の視線にも臆することなくこう言い放った。
「今はそんな話どうでもいい。何でお兄ちゃんが来たのか、その理由を聞かせて」
「……そうだな」
それなら、僕の本心を伝えるとしよう。
「環くんは姫乃ちゃんや友達と幸せな日々を送っていたんだ。それなのにヒナにそれを壊す権利があるのか?」
どの口が言っているのかと罵倒されても仕方ない、そんな言葉だった。だけど一切そうすることなく、陽向は一瞬たじろいだ。しかし数秒後には僕に負けない勢いでこう叫んでいた。
「そんなの……そんなの私だってやりたくてやってるわけじゃない!」
「ヒナ……どういうことだ?」
漸く垣間見えた陽向の本心に、その場の全員が疑問を抱いた。いや、僕だけはわかっていたのかもしれない。
陽向の本心を掘り下げるために、極力優しい声で、その言葉の続きを促す。
陽向は目の端に涙を浮かべながら静かな声で話し始めた
「環くんが……羨ましかった」
陽向はそう切り出した。




