第3章6話 父と子
昼になっても父さんは帰ってこなかった。かといって軟禁状態の僕たちにできることなんて限られているから、もどかしさを抱えたまま大人しく待っているしかなかった。
夜、夕食を終え、父さんが帰ってくるのを待っていると、唐突に扉の開く音がした。その後聞こえてきた「ただいま」という声に体が強ばった。でも、姉さんが手を握ってくれた。母さんの言葉を思い出して、少しだけだけど安心できた。
父さんはリビングに入ってくるなり、僕たちを一瞥して言った。
「……環くん、決まったかい?」
その問いが何を指しているのか、そんなこと聞かなくてもわかっている。だから、僕は顔を上げて、父さんの目を見つめて、こう答えた。
「僕は、まだ皆と過ごしていたい。父さんにも認めて欲しい」
「…………1日考える時間をあげたのに、結局はまだそれか。話すだけ無駄だったようだね」
そう冷たく言い放って、父さんはリビングを出ようとする。ここで父さんを行かせてしまうと、もう二度と話す機会など得られないだろう。僕の勘がそう告げていた。だから──
「「待って!」」
隣にいる姉さんと声が重なった。姉さんも同じ考えだったんだろう。
父さんは僕たち2人を睨みつけて言った。
「何だい?」
「まだ、話は終わってない」
「君たちがそうでも僕に話すことは──」
「僕じゃない。母さんの言葉だよ!」
「────!?」
そう言うと、初めて父さんの顔が歪んだ。信じられないというような、それでもどこか信じたいという、悲痛な表情だった。
「……からかうのもいい加減にしてくれ。叶奏はもういないんだ」
「違うよ」
「何が違う!違うと言うならその証拠を──」
「母さんは、ここにいる」
突然の告白に動揺する父さん。チャンスはここしかない。
「父さん、これを見て」
パソコンを取りだし、USBメモリ──母さんが姉さんに託したもう1つの、父さんに向けたメッセージ──を差し込む。画面に表示された動画ファイルをクリックし、画面を父さんに向けた。
父さんの視線は、パソコンに釘付けになっていた。
数秒のノイズの後、声が聞こえた。
『要次郎さん、聞こえてる?』
「………………叶奏?」
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『久しぶりだね、要次郎さん。この動画を見てるってことは環と葵もそこにいるのかな? 一緒にいてくれるといいな』
「何故……叶奏が?」
絞り出すように発せられた問いに答えたのは、僕でも姉さんでもない、動画の中の母さんだった。
『私がいなくなって、家族仲が悪くなってしまった時のためにこの動画を残します』
父さんは何も言わずに椅子に座った。賢治さんは父さんの席に静かにコーヒーを差し出した。賢治さんの淹れるコーヒーは美味しい。でも、その味を楽しむ余裕すら、今の父さんにはなかったようだ。
『まず最初に、要次郎さんには3つのありがとうがあります』
「…………」
『1つ目、私と駆け落ちしてくれてありがとうございました。お見合いの相手がいたにも関わらず、私との未来を選んでくれたこと、本当に嬉しかったです』
初耳だった。父さんと母さんが駆け落ちをしていたなんて。姉さんも知らなかったようで目を丸くしていた。賢治さんだけが全てを知っていたようで、僕たちをにこにこと見守っていた。
『2つ目、葵が産まれた時、政治家を引退して私に寄り添ってくれてありがとうございました。私たちのことをちゃんと考えていてくれたこと、感謝してもしきれません。家族4人で楽しく暮らせたことは、私の一生の宝物です』
父さんは何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。
『そして3つ目、私と出逢ってくれて、本当にありがとうございました。要次郎さんの奥さんになれて、私は幸せでした』
「…………っ」
父さんの頬を、一筋の涙が伝った。父さんが泣いたところなんて初めて見た。父さんは声を上げることなく静かに泣いていた。母さんはそれを見越していたのか、次の言葉を発するまでに数十秒の、何もない、ただ微笑んでいるだけの時間があった。
『それでね、要次郎さん』
その言葉に、父さんが顔を上げた。
『最後にお願いがあります。葵と環には、自由に生活させてあげて下さい。優しい子に育ってくれた2人を、私の代わりに見守ってあげて下さい。時には喧嘩もすると思うし、口を聞きたくない時だってあると思う。それが要次郎さんの不器用な優しさだと、私は知っています。でも、その優しさが偶に一方的になってしまうことも知ってる。だから、2人の話をしっかり聞いてあげて下さい。話し合って、補い合って、幸せな家族になって下さい。これが私の最後のお願いです。聞いて…………くれますか?』
父さんも、僕も、姉さんも、誰も何も言えなかった。母さんの遺してくれたメッセージに、全神経を集中させていた。
『そろそろ終わりかな。だから、この動画を家族3人で見てくれていることを願ってこの言葉を残します』
母さんは、笑って言った。太陽のような、優しく、暖かい微笑みだった。
『皆、大好きだよ。私の家族になってくれて、ありがとう!』
その言葉を最後に、画面が暗転した。
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動画を見終わっても、部屋は静かなまだった。静寂を破ったのは父さんだった。父さんは大きなため息をついてから、静かに話し始めた。
「僕は、間違っていたのかな……」
少し前の僕だったら、そうだと答えていたかもしれない。でも、動画を見た今、その問いに対する答えはこれしか見つからなかった。
「……それは、わからない。父さんが僕たちを思ってくれていたこともわかったから。でも……」
その先の言葉が見つからなかった。言葉を見つけようとして、父さんと目が合った。僕の顔を見た父さんは、小さく笑った。今までとは違う、温度を感じる笑顔だった。
「環く……いや、環、こっちに来てくれないかな。葵も……」
おずおずと、控えめにそういった父さん。その目は何かを迷っているようだった。でも、呼び方を変えてくれたということは、きっと何かを変えようとしているんだろう。今の父さんなら大丈夫、何の根拠もないけれど、漠然とそう思った。だから僕たちは父さんのもとへ歩き出せたんだと思う。
そんな僕たちを、父さんの腕が包んだ。ぎこちない動きだったけれど、優しく、力強い腕だった。でも、その体は震えていた。
「……父さん?」
「まだ子供だと思っていたのにね………いつの間にこんなに大きくなったのかな」
悔やむように、そう呟いた父さん。言葉を返せずにいると、父さんはさらに言葉を重ねた。
「叶奏が死んでから、僕の時間は止まっていたのかもしれない。叶奏の死を認めたくなかったのかもしれない。それを、知らないうちに2人にぶつけていたんだね」
「そんなことない……と思う。父さんが私たちに結婚相手を見つけてきたのも、私たちに不自由な暮らしを送って欲しくなかったからでしょ?」
姉さんが、父さんの胸に顔をうずめて言った。父さんの優しさを受け入れるかのように、ゆっくりと、落ち着いてそう言った。その言葉に、父さんはこう答えた。
「だとしても、2人の道を狭めていたことに違いない。本当に、すまなかった。許してくれなくてもいい、もし、僕の謝罪を受け入れてくれるのなら、もう一度、3人で……家族で暮らしてくれないかな。僕に、やり直させてくれないかな…………」
家族で暮らす、普通の家庭なら当たり前のその暮らしに憧れたこともあった。でも、僕の答えは最初から決まっている。
「父さん、ごめん。家族で暮らすのもいいと思う。でも、僕は……僕には他にも大切な人が、友達がいるんだ。だから、その……」
そう告げると、父さんは少し残念そうに俯いた。でもすぐに顔を上げて、僕の頭を撫でて言ってくれた。父さんの手がこんなに大きかったなんて、今更だけど、そんなことに気づいた。
「環がそうしたいのなら、僕は応援するよ。本当に立派になったね」
「うん…………うん」
気がつくと、僕は泣いていた。僕だけじゃない、姉さんも父さんも、家族3人で泣いた。
父さんとわかりあえたことが何よりも嬉しくて、父さんの優しさがありがたくて、涙が止まらなかった。
立ち上がると、机の上の冷めてしまったコーヒーに、僕たちの顔が映った。迷いの晴れた、清々しい顔だった。




