第3章5話 環へ
少し付け足しました。
賢治さんたちと少しだけ思い出を語り合いながら朝食を終えると、賢治さんが回収されたはずのノートパソコンを持ってきてくれた。
「坊ちゃん、これを」
「あ、ありがとうございます」
どこから持ってきたのか、そんなことは聞かずにそれを受け取って自室に戻る。その途中で振り返ると、姉さんは1人でコーヒーを飲んでいた。
「姉さんは見ないの?」
そう尋ねると、姉さんは柔らかく笑って言った。
「それは環が1人で見るものだから」
そのままコーヒーを飲み終えた姉さんは賢治さんと一緒に朝食の片付けを始めてしまった。もうこちらを振り返ることはなかった。
自室に戻り、早速ノートパソコンを起動して、USBメモリを差し込む。
すると画面に表示されたのは、1つの動画ファイルだった。
「……?」
疑問に思いながらもクリックすると、すぐに動画が始まった。
数秒間のノイズの後、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『環、見えてるかな?』
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「何で……」
聞こえてきたのは、母さんの声だったから。
暫くすると画面が動き、母さんの顔を映し出した。母さんは真剣な顔で語り出した。
『多分、環がこれを見てる頃にはお母さんはこの世にはいません。だから、ここに言葉を残すことにします』
そう言うと、母さんは笑った。間違いなく、記憶にある母さんの笑い方だった。驚いた僕は、何も言えずに母さんの次の言葉を待つしかできなかった。
『環、ごめんね。お母さん、環が成長するのを見ていたかった』
「…………っ」
『だからこれからのことはお父さんとお姉ちゃんに任せることにします。2人が環にきつく当たることもあると思います。でも、それは環のことを思ってのことだと理解してあげてください』
無理だ、そう思った。だけどお母さんの言葉が胸から離れることはなかった。
『お母さんはずっと環の味方です。それだけは忘れないで欲しいな』
「……忘れることなんて──」
──できるはずがない。言葉の続きは僕の嗚咽が覆い隠してしまった。久しぶりに見ることができたお母さんの姿に、久しぶりに聞くことができたお母さんの声に、涙が止まらなかった。
でも、お母さんの動画はそれだけでは終わらなかった。
『もし、苦しいなって思ったら逃げてもいいよ。お母さんも、お父さんとの結婚に反対された時は家から逃げてきたから。逃げることは弱くないよ。逃げてきたお母さんが保証する』
父さんから逃げた僕の行為を肯定してくれるその言葉に、ずっと心にまとわりついて離れなかった靄が晴れていった気がした。自分が父さんから逃げてきたことが間違いだったんじゃないか、この家に戻ってきてからずっとそう思っていた。でもそれで良かったんだと、他でもない母さんが認めてくれたことが、僕にとって最高の救いだった。
『……環』
母さんのその呼び掛けに、僕の意識は現実に引き戻された。
『お父さんと上手くいってないかもしれない。その時はお姉ちゃんを頼ってみて』
姉さんを頼って、このUSBを貰った。だけど、それとお父さんと何の関係があるんだろう。僕の疑問はすぐに解決する。
『お姉ちゃんに、もう1つUSBを渡してあるから』
「…………え?」
聞き間違いだろうか、そう思ってもう一度聞き直したけれど、聞こえてきた言葉は全く同じだった。仕方なく動画を先に進めると、姉さんがもう1つUSBを持っている、その理由が明らかになった。
『お姉ちゃんからそのUSBを受け取って、それをお父さんに見せて』
「…え?」
『きっと勇気がいると思う。でも大丈夫だよね、今の環は1人じゃないもん』
知らないうちに下を向いてしまっていた顔を上げると、画面の先で柔らかく微笑んでいる母さんと目が合った。
『環がこれを見てるってことはお姉ちゃんと話し合えた証拠だもんね。だから大丈夫。環にはお姉ちゃんも、お母さんもついてるから』
「…………うん」
『お父さんも、きっとわかってくれる。環も、お父さんを信じてあげて』
「……うん」
母さんがそう言ってくれるだけで、少しだけ勇気が湧いてきた。父さんにも対抗できるような、そんな気がしてきた。
そんな矢先、僕の耳に届いたのは、この優しい時間を終わらせる非情な言葉だった。
『最後に、1つだけ言わせて』
最後というその言葉に、通じないとわかっていても、イヤイヤと首を振るしかできなかった。でも、そんな僕の耳に聞こえてきたのは僕が1番聞きたかった言葉で──
『──環、大好き!』
「……………………僕も、僕もだよ」
そして動画が終わった。
動画が終わって画面が暗くなってからも、僕は暫くそこから動けなかった、いや、動きたくなかった。母さんが残してくれた言葉の余韻に、少しでも長く浸っていたかったから。
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10分後、パソコンからUSBメモリを取り出して部屋を出ると、部屋の先に姉さんが座り込んでいた。
「姉さん」
声をかけると、姉さんはゆっくりと顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。姉さんは静かに謝った。
「黙ってて、ごめんね」
何故姉さんが謝るのか、わからなかった。でも、それをずっと抱え込んできたんだと、母さんの遺言を見た今なら理解できた。そういう時に、どんな言葉をかければいいのかも。だから、僕はこう返した。
「姉さん、ありがとう」
「……うん」
そして、本題に移る。
今、僕がすべきことは──
「──姉さん」
「わかってる。これでしょ」
全部言わなくてもいい、そう僕の言葉を遮って姉さんが差し出したのは、もう1つのUSBメモリ。
母さんが、父さんに残したUSBメモリだった。




