第3章3話 手のひらの上 side.H
同時刻、橘家に起こったのは……?
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気がつくと、私は1人で立っていた。周りにはお兄ちゃんも、環くんも、誰もいない。体も動かせない、というか腕や足の感覚がない。頼りになるのは、視覚と聴覚だけだった。
視線の先には私よりも幼く見える小さな影が2つ、誰なんだろう近づくこともできないことにもどかしさを感じていると、1人が突然立ち上がって奥に歩いていった。
続いてもう1人が発した声で、漸く彼らが誰なのかがわかった。
『待って!環くん!』
彼らは、1年前の私たちだ。だけど、こんなシーンは私と環くんの間にはなかった。それなら一体どうして?
声を上げられない状態で目の前で繰り広げられる光景を見つめていると、急に目の前に黒い靄がかかった。
今度こそ1人になった、そう思うと急に恐怖が込み上げてきた。
そして急に体が揺さぶられた。いや、そんな気がした。
誰かの声が私を呼んでいる。
『ヒナ、ヒナ──』
次の瞬間、目の前に光の矢が刺した。あまりの眩しさに思わず目を瞑ってしまった──
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「ヒナ、着いたよ」
「ん……どこ? あ、そうか」
お兄ちゃんに体を揺さぶられたことで、だんだんと意識がはっきりとしてきた。そんな私を見てお兄ちゃんは優しく微笑みながら言った。名前の通り、暖かい日差しに包まれているように安心できる笑みだった。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
覚悟を決めて車を降りようとした時、唐突にそれは起こった。私たちが降りる前に、車の扉が閉められた。わけがわからずに2人とも硬直する。ご丁寧に、鍵も掛けられた。
こんなことができるのは1人しかいない。この車の所有者である、楠木修さん。でもあの人が私たちを閉じこめる理由がわからない。
極度の緊張のせいか、そんな私たちに気づくことなく環くんたちは先へ進んで行った。
そんな中、先に硬直が解けていたお兄ちゃんが青ざめた顔で言った。
「……嵌められた」
「え!?」
「楠木さんは僕たちの味方をするつもりなんて最初からなかったのか」
「…………お兄ちゃん、何が起こってるの?」
本当は自分でもわかっているはず。だけどそれを認めたら私が崩れてしまう気がして、お兄ちゃんが「何でもない」と言ってくれることを願うしかできなかった。それなのに、お兄ちゃんは答えた。答えてしまった。
「たぶん楠木さんの目的は、僕たちと環くんたちを分断させることだったんだ。僕たちを1番後ろの席に座らせたのも、先に降りさせないようにするためで…………」
「でも、でも……どうしてそんなことを──」
その疑問は、言い終わる前に解決した。
突然ドアが開いたと思ったら、まだ見たくなかった人影が覗いたから。月明かりに照らされて、私たちを見るその人は顔色ひとつ変えずに淡々と言い放った。
「帰ろうか、陽向」
お父さん──橘陽太が、そこに立っていた。
こうして、私と環くんは分断された。
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お父さんは運転席に乗ると、どこかに電話をかけた。十中八九相手は修さんだろう。果たして私の予想は当たった。
「もしもし、橘です」
『はい』
「楠木さん、この度はお手数をお掛けしまして」
『いえ、大丈夫ですよ』
「車ですが、明日の午前中の返却という形で宜しいですか?」
『はい。問題ありません』
「わかりました、では失礼します」
電話を切ると、お父さんはすぐに車を発車させた。
「まったく……どれだけ私の顔に泥を塗れば気が済むんだ」
バックミラー越しに私を見て、私を非難するお父さん。でも、その内容は頭に入ってはこなかった。
「どうして?」
「……ん?」
「どうしてお父さんがここにいるの?」
その問いに、お父さんは相変わらず淡々と答えた。
「簡単な話だ。楠木さんから柏木さんに連絡が行き、そこから私に連絡が来た。手のひらの上で踊らされているとも知らない君たちが少し不憫に思えたよ」
「…………何で、何でこんなことするの?」
でも、お父さんはその問いには答えてくれなかった。大きく息を吐いて、諦めたように言った。
「帰ったら、躾直す必要がありそうだな」
「……っ!」
躾直す、その言葉を聞いて背筋が凍った。
それが伝わったのか、お兄ちゃんが私の手を握ってくれた。ほんの少しだけ力が出てきた気がした。
「実の娘にそんなこと……」
「部外者は黙っていてくれ!今は陽向と話しているんだ」
あくまでお兄ちゃんを部外者として扱うつもりのお父さんに吐き気がした。お兄ちゃんがどんな顔をしているのか気になって横目で確認すると、息子扱いされていないにも関わらず、何故か笑みを浮かべていた。
「僕は息子じゃない……か。好都合だな」
「…………? お兄ちゃん?」
お父さんに聞こえないように呟かれたその言葉の真意を確認する前に車が止まった。家に着いたようだ。顔を上げると、1日しか離れていないのに、何年も帰ってきていないような感覚に襲われた。
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「さぁ、降りなさい」
「………………」
無言で車を降りる。お父さんと目を合わせないようにしながら家の扉を開ける。ふと振り返ると、お兄ちゃんが逆の方向に歩き出しているのが見えた。
「お兄ちゃ──」
「僕は歓迎されてないみたいだしね。ここで退散するよ」
「……え?」
行って欲しくない。そう思って声をかけると、お兄ちゃんはヘラヘラ笑ってそんなことを言った。
その言葉を聞いた瞬間、突然金槌で頭を殴られたような衝撃が全身を貫いた。退散、つまり私を助けてはくれないということ。また裏切られるのだという絶望が私の心を染めた。
「ふざけないで!」
気がつくと走り出していた。短い距離で勢いを殺しきれず、お兄ちゃんの胸にぶつかった。そんな私を優しく受け止めて、お兄ちゃんは私の耳元で囁いた。
「ここにいても父さんの機嫌が良くなるとは思えない。ヒナを危険に晒すわけにはいかないよ」
「………………っ!」
私のため? 驚いて顔を上げると、微笑むお兄ちゃんと目が合った。優しい、温かいその瞳に私が映っていた。お兄ちゃんは軽く頷いてから言った。
「僕は環くんの所に行く。何かあったら連絡して、すぐ駆けつけるから」
「…………うん」
「てことでそろそろ離れようか。怪しまれそうだし」
「あ、じゃあ…………」
「どうしたの?」
「んー……何しても怒らないでね?」
「うん。──!?」
言質は取った。きっと今の私は過去最高の笑みを浮かべているんだろう。
そして私は大きく振りかぶって、首を傾げているお兄ちゃんの頬に全力の平手打ちをお見舞いした。
暗い夜空に、パンっと乾いた気持ちのいい音が響いた。
突然の平手打ちに目を白黒させるお兄ちゃんが可笑しくて、笑いそうになってしまうのを必死に堪えて小さな声でお兄ちゃんに言う。
「これで怪しまれないよね?」
「いや、でも……」
「これで今までのことはチャラ」
「…………それ言われるとなぁ」
してやったり。
これで私とお兄ちゃんの間のモヤモヤはなくなった。
清々しい気分で振り返り、暗い顔の仮面を被る。いくつもの顔を持っているお父さんの娘なんだから、表情の切り替えなんて朝飯前にできる。
私はお兄ちゃんを信じることにする。お兄ちゃんも私を信じているだろうから、その信頼に応えなければならない。
それに、環くんならこんな逆境なんてすぐに解決してくれるはずだ。
環くん、お兄ちゃん、待ってるからね。
それまでは、囚われの姫を演じることにしよう。




