第3章2話 手のひらの上
「……環、大丈夫?」
「ね、姉さんこそ」
実家を前にしてお互いそう強がってはいるものの、実際は恐怖で押し潰されそうになっていた。1人で挑むことになっていたなら、間違いなく引き返していただろう。
「2人とも、落ち着いて」
修さんにそう言われて深呼吸をする。1回、2回…………5回し終わったところで漸く落ち着いた。これで、大丈夫だ。
「じゃあ行こうか」
「…………」
誰も何も喋らなかった。
気味が悪いほどの静寂に包まれる中、足音を殺して静かに玄関に近付く。幸い砂利が敷いてあるわけでもなく、足音はそこまで目立たなかった。静かに、静かに歩みを進めて、あと数センチまで接近した扉に手をかける。そこで1つの違和感に気がついた。
「……開いてる?」
手に力を込めると、扉は音もなく静かに開いた。父さんがこんな初歩的な防犯対策を怠るとは思えない。
どうして…………?
何が起こっているんだ?
隣に立っている姉さんも同様の疑問を浮かべている。お互いに顔を見合わせてから振り返ると、暗闇で影になっていてもわかる、いつもの通り人の良い笑みを浮かべている修さんがそこにいた。
…………笑っている?
状況を整理しようとして目を細めて、そこにいるはずの人間がいないことに気がついた。
陽向と陽真さんは、どこだ?
そこまで考えたところで、僕の頭の中に1つの結論が浮かんだ。
「まさか…………!」
しかし、その先を口にすることはできなかった。
後ろから、全く温もりを感じない声が聞こえてきたから。
「修くん、ご苦労」
「お疲れ様です、お義父さん」
「………………っ!?」
慌てて振り返る。そして、体が硬直する。目が合った瞬間、体の自由が奪われたようだった。同時に、自分の予想が最悪の形で実現してしまったことに頭が痛くなった。
「お帰り。葵くん、環くん」
「………………何で」
冷たい笑みを浮かべ僕たちを見下ろす父さんが、そこにいた。
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状況を飲み込めていない姉さんと、現状を認めたくない僕が言葉を失う中、父さんと修さんが親しげに話している。
「随分待ったよ」
「渋滞に巻き込まれてしまって……」
「それは大変だったね。奥で少し休むといい」
「ありがとうござい──」
このまま修さんから距離を置くわけにはいかない。そう思った僕は修さんの言葉を遮って声を荒らげた。
「何で…………!」
「どうしたんだい?」
「何で修さんが……」
その問いに、修さんは笑みを浮かべながら答えた。ただし先程までの温かさは欠片ほども残ってはいない。その冷たい笑みは、隣に立っている父さんを彷彿とさせた。
「何で、か…………。子が親に従うのは当然のことだろう?」
「……!? じゃあ最初から?」
今の修さんの言葉を信じるならば、初めから僕たちの味方をする気などなかったことになる。今に至るまで僕たちを騙しきった修さんの演技力は並大抵のものではない。そんな場違いな感嘆を抱いていると、漸く動揺から立ち直った姉さんが声を震わせながら言った。
「ねぇ……ウソでしょ」
「葵、現実を受け入れてくれ」
「い、嫌だ…………嫌だよ」
幼い子供のようにイヤイヤと首を横に振る姉さんを見て、修さんが肩を竦めてため息をついた。そしてどんな感情も感じない瞳で見下ろして言った。
「この際だ、言いたいことを言わせてもらうよ」
「…………え?」
「僕がどれだけ苦労していたか……君の無茶の尻拭いをしたのはいつも僕だった、さすがにもう限界だったよ」
「そ…んな…………」
「しかも理由が『弟のため』ときた……君にとって僕は何なんだ?」
「修さん、いい加減に──」
夫が妻に向ける言葉とは到底思えない、あまりに思いやりに欠けるその言葉に僕が口を挟もうとすると、修さんは表情を一切変えずに僕を見下してきた。父さんと対峙しているようなその感覚に、思わず萎縮してしまう。横目に、姉さんが膝をつくのが見えた。
「思えば環くん、君が全ての元凶なんだよ」
「っ! 違──」
「違わないよ。現に君が家から逃げ出すからこうなった。葵も君に関わったからこうなった。何か反論はあるかい?」
「………………っ」
正論だと、そう思ってしまった自分が悔しかった。自分の無力さが浮き彫りになるだけで、何も言い返せないことがもどかしかった。そんな僕を見て修さんは勝ち誇ったように言葉を重ねて言った。
「君を見ていると虫唾が走るんだよ。今、その理由がわかった」
「…………?」
「君は、僕がなっていたかもしれない姿そのものなんだ」
「そんなの、ただの──」
「あぁ、ただの幻想かもしれない、だけどそれで十分なんだ。君を完膚なきまでに叩き潰す事が、僕のためであり、お義父さんの望みなんだから」
絶句した。あまりに自分勝手なその理屈に、憤りすら覚えた。
「僕の……僕たちの思いはどうでもいいんですか?」
「夢を見てばかりの子供に付き合う義理は僕にはないよ」
「…………」
僕たちの思いを歯牙にもかけない修さんに、何を言っても無駄になると理解した。いや、理解させられた。再び言葉を失った僕を見て、父さんがもう十分だと言うように前に進み出た。
「もういいだろう環くん、君たちの負けだ」
何故こうなっているんだろう。
僕が友人を作ったから?
僕が姫乃と付き合ったから?
それとも……僕が家を飛び出したから?
だとしたら全て僕に責任がある。だけど、僕の身勝手で皆に迷惑をかけるわけにはいかない。特に陽向と陽真さんには。
「……陽向は?」
「あぁ、心配しなくてもいいよ。陽向くんなら橘さんが連れ帰った」
「なら1つだけお願いがある……あります」
「ふむ、聞こうか」
「全部僕が原因だから……陽向を、許して下さい」
「それは向こうが決めることだ」
「お願いします」
屈辱的だけど、陽向を守るためなら何だってする。父さんに頭を下げると、父さんは少し驚いたような顔をして言った。
「……息子の頼みを聞くのも親の役目、か。いいだろう、橘さんに掛け合ってみるよ。さぁ、夜も更けた。今日は寝なさい」
「………………はい」
「環、アンタそれでいいの…………?」
父さんに言われるがまま実家の寝室に向かう途中で、姉さんからそう声をかけられた。だけど、何も頭に入ってこなかった。
僕は、僕たちは負けたんだ。
僕たちが悩んだことも、喜んだことも、全て父さんの手のひらの上で踊らされていたに過ぎなかった。そう思うと、もう何もかもがどうでも良くなった。
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部屋に入った瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。
数ヶ月家を開けていたのに部屋が綺麗に保たれている、とか色々思うところはあったけれど、そこを知る余裕は今の僕にはなかった。
時刻は午前零時半、いつの間にか日をまたいでいた。ふとポケットに仕舞ってあるスマホを取り出して通知を確認する。数件のメールが届いていた。
大悟、亜美、伊織、瑞希、姫乃……皆から届いたメールに目を通すことなく枕に顔を埋める。気がつくと、1人で呟いていた。
「ごめん皆、ごめん……姫乃…………」
そうして時間は過ぎていった。疲れているのに眠れない、そんな状態で横になっていた。
どれだけ時間が経ったのか、窓から差し込む朝日が僕を覚醒させた。




