第3章1話 車中の一幕
第3章開幕
「さて、ここからだと目的地まで2時間弱か……」
カーナビを操作し終わった修さんがそう呟くと、車の中は一気にため息の渦に包まれた。緊張が少しだけ解消された結果だろう。そんな中、助手席に座る姉さんが何か思い出したように修さんに言った。
「あ、シュウさん」
「何かな?」
「ちょっとだけ家に寄ってもらえる?」
車内のほぼ全員の頭の上に疑問符が浮かぶ中、修さんだけが少し考えてから言った。
「ふむ……本当なら急ぎたいんだけれど、何か考えがあるんだよね?」
「当たり前でしょ。大丈夫、そんなに時間は取らせないから」
「わかったよ。環くんもいいよね」
「あ、はい」
十数分後、沈黙に包まれたまま車は修さんの家に到着した。姉さんは急いで車から降りて家に駆け込んで行った──と思ったら数十秒後には家の扉を開けて戻ってきた。一旦こちらに来かけてから回れ右をして鍵を閉めたのがいつもの姉さんの雰囲気と違って少し笑ってしまった。
「お待たせ」
「待ってないよ。それより鍵は大丈夫?」
「ちゃんと閉めたわよ、見てたでしょ。それより……はい、環」
「………………?」
突然そう言って姉さんが目の前に差し出してきたのはノートパソコンとUSBメモリ。わけもわからずそれを受け取ると、姉さんが正面を向いてからボソッと呟いた。
「本当にどうしようもなくなった時、それを使いなさい」
「え……あ、うん」
「ちゃんと目を見ていえばいいのに」
「うっさい」
陽真さんの相変わらずのツッコミに、姉さんもいつも通り応じる。それだけで車内の空気が少しだけ明るくなった気がした。本当に、陽真さんはすごい。改めてそう思った。からかわれる姉さんは姉さんで少し不憫にも思えたけれど。
「さて、それじゃあ出発するか」
「お願いします」
「まぁ気長に行こうか」
時刻は午後9時半、何もなければあの家に到着するのは午後11時半近くになるだろう。その間にどうするかを考える必要がある。2時間──熟考するには十分とは言えないけれど、何もしないわけにはいかない──の道程を、有効に使わなければ。
そう、何もなければ。
「…………何もないといいけど」
「センパイ、それフラグ立ててる気が」
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さて、そんなこんなで30分ほど経過した。普通ならばもう全道程の1/4は進んでいてもおかしくない。だが、現在地はまだ1/5にも達していない。
「参ったな……」
「何か、ごめん」
「こればかりはね……」
現在の状況を説明するとしよう。姉さんの家からは順調に進んで、高速道路に入るまでには何も起こらなかった。しかし僕の『何もなければ』という思いと姉さんの言葉が何らかのフラグを立ててしまったのだろう、渋滞に巻き込まれてしまった。タチの悪いことに、解消までに時間のかかる事故渋滞だった。
「まぁ、気長に行こうか」
「心の準備が〜って言ってたのは誰だったかしら」
「僕だね。それに関しては本当に済まない」
「あ、いや……修さんが謝ることじゃ」
「しかし、どうしようかなぁ……」
修さんが黙り込むと、車内は一気に静寂に包まれた──というかほとんど全員の眠気がピークに達しているようだ。もちろん僕も。いつも午後10時半には寝ているから、何というか、ものすごく眠い。
それは僕だけではなく陽向も同様で、何度もウトウトしてはその度に飛び起きていた。
「ヒナ、寝ててもいいよ?」
「で、でも……」
「陽向さん、お兄さんの言う通りだ。環くんも休める内に休んでおいた方がいい」
「そうね。着きそうになったら起こしてあげる」
「ん、わかった」
「ありがとうございます」
年上3人からそう言われて「起きてます」と言えるはずもなく、頭だけが変に冴えたまま目を閉じる。するとやはり疲れが溜まっていたのか、数分後には意識が暗闇の中に吸い込まれていった。
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ここは…………病院?
視線の先にいる2人の人物はどこか見覚えのある顔だった。少年と、1人の女性。懐かしさ……というか何か不思議な感じがする。
その違和感の正体ははすぐにわかった。今の僕は、過去の僕を客観的に見ている状態なんだ。目の前の少年は過去の僕だ。ということは、もう1人の女性は──母さん……なのか?
今まで見てきた夢とは異なる視点に戸惑っていると、聞き覚えのある声が聞こえた。やはり母さんなんだ。
『環、ごめんね』
『何で謝るの?』
病院の個室、ベッドに横になっている母さんが僕の手を握ってそう謝った。謝られる理由がわからずに首を傾げていると、母さんはその顔に微笑を浮かべて言った。
『私はきっと環の成長を最後まで見れないから』
『………………』
その突然の告白を聞いて何も言い返せない僕を見て、母さんは悲しそうに笑った。
『ごめんね。だけど、環には葵もいるから……』
『あお姉はすぐ怒ってくるし……』
母さんはまるで私の代わりにと言うかのように姉さんの名前を出してきた。でもあの頃の姉さんは僕が何かする度に怒ってきたからどうしても苦手意識が抜けなかった。きっとこの姉弟仲はもう元に戻ることはないんだと、そう諦めていた。
でも、今ならわかる。姉さんは姉さんなりに僕を思ってくれていたんだ
『葵も今は苦労してるの。環もわかってあげて欲しいな』
『…………多分無理だよ』
『ふふっ……大丈夫よ』
『何でわかるのさ』
『んー……お母さんの勘かな』
『勘って……』
母さんの言う通りになったよ。そう言おうとしたけれど、言いたいことがありすぎて上手く言葉にできなかった。懐かしさで胸がいっぱいになる。
だけどそんな考えはすぐに霧散した。
おもむろに顔を上げた母さんと僕の視線が合った気がしたから。
気のせいだ、そう思っているのになかなか視線を逸らすことができない。逸らさせてくれなかった。
「母…さん……」
聞こえない、聞こえるはずがない。理屈ではそうわかっていても、母さんを呼ばずにはいられなかった。頬を伝う涙を止められるはずもなく、僕は「母さん」と何度も繰り返した。
すると、信じられないことが起きた。
『環、大丈夫だよ』
初めは幼い僕に向かって言っているだけだと思った。だけど違った。母さんは、僕の目をしっかりと見てそう言っていた。
「お母さん?」
『環のこと、ずっと見守ってるから』
「……うん………………うん」
その言葉を聞いた僕は、泣きじゃくることしかできなかった。ベッドの横に座る幼い僕でさえ泣いていないのに、それでも涙は止まらなかった。
この夢は僕の幻想なのかもしれない、だとしても、今一番欲しい言葉を母さんからかけてもらえたことが何よりも嬉しかった。
「僕…姉さんとも上手くやってるよ」
泣きながらそう呟くと、母さんは静かに頷いてくれた。
「友達も、いっぱいできたんだよ」
それを聞いた母さんは満足そうに何度も頷いて、優しく微笑んで言った。
『環、姫乃ちゃんと幸せになってね。幸せに、してあげてね』
「…………っ!?」
何で母さんが姫乃のことを知っているのか、そう尋ねようと顔を上げると、急に視界が真っ白になった。あまりに眩しくて思わず目を閉じると、母さんの声が直接頭に響いてきた。
──環、大好きだよ──
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目を開けて、最初に視界に入ってきたのはハンドルを握る修さんの姿だった。修さんはバックミラーで僕が目を覚ましたのを確認すると、穏やかな笑みを浮かべて「おはよう」と言った。
「……おはようございます」
「って言ってもまだ夜なんだけどね」
「そうですね」
そんな他愛もないことを話していると、助手席に座っている姉さんも目を覚ましたようだ。というか姉さんも寝てたのか。
「あとどれ位で着くの?」
「うーん……そうだなぁ。葵、環くん、前を見て」
修さんにそう言われるがままフロントガラスの向こうに目を凝らすと、そこには──
「え!? ここって……」
「嘘……」
──どこか懐かしさを感じる、つい1年前まで僕が住んでいた家があった。
「丁度到着したところだよ。じゃあ、始めようか」




