第2章16話 予想外③
「おまたせ、環くん」
目の前に立っているのは、橘陽真さん。駅前の美容院に勤める美容師で、僕の相談に乗ってくれる人。
そんな陽真さんがこの場にいることが信じられなくて、声を出すことができなかった。口を開けたまま固まる僕を見て、陽真さんは苦笑して言った。
「とりあえずお邪魔していいかな?」
「え、な……ど、どうぞ。あ、その前にタオル持ってきます」
「ありがとう」
洗面所から清潔なタオルを引っ張り出しながら必死に頭を回す。しかし、姉さんの「大丈夫」という言葉と陽真さんの来訪はちっとも結びつかなかった。
タオルを陽真さんに渡してリビングに案内する。そして姉さんと顔が会った時に陽真さんが発した言葉で、僕の思考は完全に停止した。
「葵センパイ、遅れてすみません」
「遅い……まぁこの雨じゃしょうがないか。来てくれてありがと」
「環くんのピンチって聞かされたら来るしかないですよ。それに──」
その後の陽真さんの一言が、僕の16年の生涯で最も衝撃的な言葉となった。
「──妹が迷惑をかけてるなら来るしかないでしょう」
「……………………え?」
色々情報量が多すぎた。
陽真さんが姉さんの後輩?
姉さんのメール相手は陽真さんだった?
そして何より……陽向が陽真さんの妹!?
真偽を確かめるために陽向を見ると、口をパクパクさせて言葉を探しているのが目に入った。それだけでわかる、本当に陽真さんと陽向は兄妹なんだと。
暫く経って、漸く正気を取り戻した陽向の声が部屋中に響いた。
「何でお兄ちゃんがここにいるの!?」
完全に素が出ていた。
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狭いリビングに、5人が座る。僕、姫乃、姉さん、陽向、そして陽真さん。陽向は何が起こっているのかわからないというような目で陽真さんを睨んでいた。陽真さんはそんな陽向の視線などどこ吹く風でコーヒーを飲んでいる。それを見た姉さんが「やっぱ兄妹なのね」と呟いていた。激しく同意だ。
いつまでも黙っているわけにもいかず、仕方なく口を開く。
「えーっと……陽真さんは姉さんに呼ばれたんですよね」
「うん、そうだよ。ていうかセンパイ大分ブラコンですよね」
「……はぁ!?」
突然向けられた言葉に姉さんが激しく動揺している。というか僕は姉さんがブラコンと言われても何の実感もないんだけど。そう首を傾げていると、陽真さんがズボンのポケットからスマホを取り出して僕に見せてきた。
姉さんが焦ってスマホを取り上げようとするのを躱して、スマホを陽真さんから受け取り──信じられなかった。
そこにあったのは……
4/6(姉さん)『今日から環がそっちで暮らすから、もし余裕があったら見守ってあげて』
4/7(陽真さん)『了解しました(スタンプ)』
6/28(陽真さん)『今日環くんが髪切りに来ましたよ』
同日(姉さん)『どうだった?』
同日(陽真さん)『どうって……普通に元気そうでしたよ』
ちなみにこれはまだ一部だ。何と言うか、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。
信じられない、そんな思いで姉さんの顔を見ると、そこには顔を真っ赤にして俯く姉さんの姿が。
姫乃も隣からスマホを覗き込んで、どこか嬉しそうに「わぁ」と歓声を上げた。それを聞いた姉さんの顔が更に赤くなっていく。今の姉さんにとって、完全に生き地獄だろう。
「姉さん?」
「……何よ、悪い?……弟の心配くらいさせてよ」
さすがに心配になって声をかけると、姉さんは開き直ったように叫んでから小さな声で補足した。おそらくそれが本心なんだろう。
それを聞いた陽真さんが笑いを堪えきれずに吹き出した。姉さんが詰め寄ったけど、陽真さんは笑いながらこう答えた。
「いや、ツンデレ+ブラコンって……絶滅危惧種よりレアですよ」
「うっさい」
「痛っ!お盆で叩くのは反則ですって……」
緊張感など欠片もない2人のやり取りを見ていると、どうしても重要な話し合いをしているという自覚が薄れていく。それでも話さないわけにはいかない、そう思って口を開こうとした瞬間、陽真さんが来てからずっと沈黙を保っていた陽向がこう切り出した。
「お兄ちゃ……兄さんがここに来る理由がわかりません」
「そんなの決まって……ってその前に──」
「……?」
陽真さんが発した言葉に、僕は納得……というか思うところがあった。
「──ヒナ、その話し方やめないか?」
「なっ……」
陽向は自分が話し方を意図的に変えていることを見抜かれてかなり動揺していた。僕もそれに関しては気になっていた。陽向の話し方が僕の記憶にある彼女のそれとあまりにかけ離れていたので違和感しかなかったから。少なくとも当時の彼女は同級生相手に敬語を使うような人物ではなかった。
陽真さんにそう言われた陽向は数秒の間考え込んでいたけれど、やがてため息をついて言った──記憶にある話し方で。
「やっぱ無理してたの気づいてたの?」
「そりゃ妹だしね」
「環くんも?」
「まぁ……」
漸く「環くん」と呼ばれたことに安堵した。しかし隣に座る姫乃からは少し……というかかなり不満そうな視線を向けられている。
陽向はそんな僕を見て少し笑った(ような気がした)。そして陽真さんの顔をじっと見据えて言った。
「……じゃあお兄ちゃん、どういうことか最初から話して」
「はいはい」
そう言って陽真さんが話し始めようとしたけれど、僕は1つ聞きたいことが残っていた。だから陽真さんの言葉を遮った。
「あの、最初に1ついいですか?」
「ん?」
「すいません、僕、陽真さんが陽向のお兄さんだったこと知らなかった……ていうか忘れてたんですけど」
「あはは……まあそれはしょうがないよ。初めてヒナがそっちに行った時、僕はもう家にいなかったから」
「あ、そうなんですか」
「でも顔は知ってたよ。高校の時センパイが写真を見せてきたから」
「それは言わない約束でしょう!」
「……そうでしたっけ?」
そのまま思い出話に花が咲きそうになったところで、陽向が机を叩いた。全員の視線が陽向に集まる。
陽向は僕たちの視線にも臆することなくこう言い放った。
「今はそんな話どうでもいい。何でお兄ちゃんが来たのか、その理由を聞かせて」
「……そうだな」
陽向のその言葉を聞いた陽真さんの雰囲気が豹変する。今までは何となく爽やかで優しいオーラを纏っているように感じていたけれど、今の陽真さんからは触れたら切れるような、そんな冷たいオーラしか感じない。
そのまま陽真さんは陽向に向かって言った。
「環くんは姫乃ちゃんや友達と幸せな日々を送っていたんだ。それなのにヒナにそれを壊す権利があるのか?」
その圧倒的剣幕に、一瞬たじろぐ陽向。しかし数秒後には陽真さんに負けない勢いでこう叫んでいた。
「そんなの……そんなの私だってやりたくてやってるわけじゃない!」
「ヒナ……どういうことだ?」
漸く垣間見えた陽向の本心に、その場の全員が疑問を抱いた。てっきり陽向は自分の思い出ここに来ていると思っていたのに、『やりたくてやってるわけじゃない』ときた。
陽真さんが幾分か優しさを取り戻した声で、その言葉に隠された思いを陽向に尋ねる。
陽向は目の端に涙を浮かべながら静かな声で話し始めた
「環くんが……羨ましかった」
陽向はそう切り出した。
陽向の主張を簡潔にまとめると次のようになる。
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自分には自由がなかった。習い事も、趣味も、全てを父に決められ、挙句の果てに婚約者までも勝手に決められた。
別にそれはそれでよかった。自分に何か害があるわけでもないし、そういうものなんだと割り切って生きてきた。
兄である陽真は自分と同じように人生にレールが敷かれていたはずなのに、それに逆らって美容師になるという自分の夢のために家を飛び出した。
それに怒った父親は「兄は間違いだ、お前は兄のようになるな」と兄を異物扱いし、いつの間にか家の中で兄の話題を出すことすら躊躇われるようになった。
いつの間にか刷り込まれていたその考えを素直に胸に抱き生きてきたけれど、今年の4月、父親から環が家出したという話を聞いて全身に衝撃が走った。
自分の周りの人物は、どうして皆自由に生きるのだろう。
決められた人生を生きていけば何も不自由などあるはずないのに、どうしてわざわざ逆らって生きていこうとするのか。
わからない、わかりたくなどなかった。そもそも知ろうとしてはいけなかったのだろう。それなのに、どこか憧れのような感情を抱いてしまった。
どうすれば兄や環に近づけるだろう、気がつけばそんなことばかり考えていた。
そんな時、環の父から息子の様子を見てきて欲しい、という依頼があった。と言っても自分が直に聞いたわけではない。父親がその依頼を持ってきたのだ。初めは自分の秘書にその役割を任せようとしていたけれど、無理を言ってその役割を譲ってもらった。
色々な準備を重ね、この街にやって来た。
そして見つけたのは、楽しそうに自分の仕事を全うする兄と、恋人や友人と幸せそうに過ごす環の姿。
それを見た瞬間、自分の中で何かが壊れた音が聞こえた。
気がつくと、環の前に立ち、環たちの友情にヒビを入れようとしていた。自分がしたかったのはこんなことではないのに……。
ただ、自分が迷いながら生きている中で楽しそうに過ごしている環が許せなかった。




