第1章29話 姫乃のお願い
さて、今僕は姫乃に駆り出されて彼女の部屋にいるわけだけど。
「姫乃、僕はいつまでいればいいの?」
「んー……もうちょい?」
既にこの問答が5、6回程繰り返されている。ここまで来ると目的なんて何もないんじゃないかと思ってしまう。
それでも本当に大事なことがあったらなんて頭の片隅で考えてしまうから帰るに帰れない。
そんなこんなで約1時間半姫乃の部屋に拘束され続けている。
することもないので適当にテレビをザッピングしていると、唐突に姫乃が言った。
「ねぇ、環くん」
「ん?」
「もしもの話だけど、もし私が環くんにお願いするとしたら、どこまでなら叶えてくれる?」
あまりに突拍子もない話だったから、呆気にとられてしまった。
それでも僕なりに考えて答えを出す。
「何その質問……まぁ、僕にできる範囲なら多分叶えるんじゃない?」
「そっかー」
そう言って嬉しそうに笑う姫乃、僕はわけがわからず呆然とするしかなかった。姫乃が嬉しそうだからいいけど……。
それにしても、本当に姫乃の行動は読めないな。
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何故か食器の片付けまでさせられ(これが目的だったのか?)帰ろうとすると、またもや姫乃に呼び止められた。
「ごめん、環くん。もう少しいてくれない?」
ここまで来ると何かあったのかと思ってしまう。
何も教えて貰えないのも落ち着かないので、思い切って尋ねてみる。
「姫乃、何かあったの?」
「え?」
「さっきから様子がおかしい。気づかないとでも思った?」
すると姫乃は諦めたように口を開いた。
「やっぱり環くんには隠し事はできないね」
「ってことは……」
「でも本当に大したことじゃないよ。ただ、昨日のこと夢に見ちゃって」
「昨日の……」
何のことかは聞かなくても容易に理解できる。おそらくは海でナンパに遭った時のことだろう。
気丈に振舞ってはいたものの、やはり相当の恐怖だったようだ。当然といえば当然か。
「そっか……ごめんね」
「な、何で謝るの?」
「元はと言えば僕が姫乃を1人にしたのが原因だから」
「ちが、そんなつもりで言ったんじゃ……」
「わかってる。それでもね」
そう言うと姫乃は俯いてしまった。
何か変なことでも言ってしまったのかと不安になって姫乃の様子を伺うと、姫乃は何か迷っているように、口を開いては閉じることを繰り返していた。
安心させるように声をかけて姫乃の言葉を促す。
「姫乃、言いたいことがあるなら言っていいよ?」
「怒ら……ない?」
「さっきできる範囲で叶えるって言ったし、それくらいだったら」
「じゃあ、言うね……」
続く姫乃の言葉に息を呑んだ。
「私から、離れないで」
時が止まった気がした。
そう言った姫乃の顔は、どんな芸術作品よりも綺麗だと思った。桜色に染まる頬、潤んだ瞳、顔を上げた時に乱れた髪、その全てが美しかった。
姫乃を見て胸が高鳴ったのは、恋とか好きとか、そういうものではない……はずだ。
思わず硬直してしまう。それでもいつまでも黙っているわけにもいかず口を開いて、答えた。
「わかった、約束する」
約束、自然と口をついたその言葉に、いつか見た夢を思い出す。
夢に出てきた少女と目の前の姫乃が重なった気がした。
まさか……そんなはずはないよな。
そして────
「ありがとう!」
そう言った姫乃の曇りのない笑顔を忘れることはないだろう。
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離れない、確かにそう言ったけれど、今の状況は違うと思う。
今、僕は姫乃の部屋のソファに座ってテレビを見ている。それだけなら何も問題はない、しかし、今僕の隣には姫乃が座っていた。
「あの、姫乃……」
「んー?」
「これは近すぎない?」
「離れないって言ったじゃん」
「言ったけどさぁ……」
これを伊織に見られたら確実に殺されるな……。
そんなことを考えて隣に姫乃が座っていることへの緊張を紛らわす。それはそれで別の意味で緊張するんだけど。
結局その日は昼ご飯も作ることになり、夕方まで帰ることはできなかった。
いつの間にか、筋肉痛は気にならなくなっていた。




