第5章6話 お風呂上がりの彼女
えー……お待たせしました。5日ぶりの更新かな?
お風呂回と書いてサービス回と読む。
そんなことありません。
どうしてこんなにも落ち着かないのか。
いや、そんなこと考えなくても理解している。彼女が僕の家の風呂に入っている──これが落ち着かない理由だ。別に何かやましいことを考えているわけでもないのに、何故ここまでそわそわするんだろう。
今考えるべきは姫乃の宥め方なんだけど、微かに聞こえてくる鼻歌(最近流行りのJ-POP)のせいで集中できない。姫乃、さすがに人の家の風呂でリラックスしすぎだと思う。
「ふんふんふーん♪」
「…………っ!」
数メートルしか離れていない距離に一糸まとわぬ生まれたままの姿の彼女が──って僕は何を考えているんだ。そんな不埒な考えを理性で必死に押さえつける。このシチュエーションはさながら生き地獄のようだった。
しかし、姫乃がいつまでも風呂に入っているはずもなく、唐突にその時は訪れた。
「環くん、お風呂ありがと」
「っ! う、うん……」
「どうしたの?」
どうしたもこうしたもない。だがそれを言葉にすることもできず、僕は姫乃の方を向くことすらできなかった。ヘタレと笑ってくれても構わない、事実なんだから。
姫乃も僕の様子がおかしいことに気づいたのか、回り込んで僕の顔を覗いてきた。視界に入った姫乃の姿に、思考の全てを持っていかれた。
当たり前だが、姫乃は風呂上がりである。
防御力の薄そうなワンピース風の寝間着──ネグリジェだったか? から覗く火照った胸元。白系統の色で統一されたそれは、対象的な火照った肌と相まって姫乃の色気を強調している。惜しげもなく晒される白く細い脚、靴下を履いているのは熱を逃さないためだろう。そして額に張り付く濡れた黒く艶やかな前髪が、何とも形容しがたい魅力を醸し出していた。
「環くん?」
「…………可愛い」
ふと、そんな言葉が口をついた。意識したわけでもなく、ごく自然に。そう言うのが当然であるかのように、正直な思いが言葉になった。
だが実際はそんな一言で足りるはずもない。言いたいことはまだあったはずなのに、それ以上は何も言えなかった。
「ふぇ!?」
不思議な声を上げた姫乃。暫くぷるぷると体を震わせていたと思ったら、「うぅ…………」と唸りながら僕の隣にぽすっと座った。機嫌は直っているみたいだ。
「姫?」
「すぐにそう言えるの、ズルい」
「別に嘘を言ってるわけじゃないし──」
「そ・れ・が! ズルいって言ってるの!」
「えぇ…………?」
褒めたつもりだったのに怒られた。女子の心を理解する日が来るのはまだまだ先になりそうだ。というかそんな日は来ない気がする。
「罰として、こうするから」
姫乃はそう言って僕の腕にぎゅっとしがみついてきた。その反動で揺れた黒髪からふわっと香る柑橘の香り。遅れてやってきた甘い香りはスキンケア用品のものなのか、それとも姫乃本来が持つ香りなのか。
そんな嗅覚をくすぐる幸せな香りに続いて、二の腕に当たる柔らかく温かい感触。これは当たっていると言うより当てられていると言った方が正確だろうか。いずれにせよ、指摘しない方がお互いのためになるだろう。
これは罰ではなくご褒美なような気がするが、姫乃もそれを理解している上でこうしているのかもしれない。「えへへ」と心から幸せそうに含羞む姫乃を見ているだけで、それだけで十分以上に満たされた。
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不思議なもので、特に何をしているわけでもないのに、ただ2人でいるだけで幸せな気持ちになれる。それは様々な壁を乗り越えてきたからこそ、この何でもない日常を愛しく思えているだけかもしれない。それでも僕はこの日常を大切にしていきたいし、これからもそんな日常を姫乃と並んで歩んでいきたい。
こんなこと、本人の前では恥ずかしくて言えない。だけど、同じ思いであることは疑いようもない。
「ねぇ、環くん」
「何?」
「ずっとずーっと一緒にいてね」
「うん」
その言葉に、どこか悲痛なものを感じた。姫乃は、1人取り残される恐怖を知っている。僕が復讐に駆られている間に、姫乃がどんな思いで過ごしていたのか知る術はない。だからこそ、今繋いでいるこの手を離すわけにはいかない。離してはいけない。いや、違う。これは完全に僕のエゴ──僕が姫乃と離れたくない、ただそれだけだ。
姫乃の好意に甘えて、自分のエゴに気がついていないふりをしていただけ。
だから──
「姫、こっち向いて」
「……? うん──っ!?」
姫乃の柔らかな唇を塞ぐ。姫乃は、ぼくが多少無茶をしないと本音を話してくれない。姫乃の本音を聞くために、それでどんなに罵倒されても構わない。だから、キスをした。
さっきはあんなに緊張していたのに、今は何も気負うことなく自然とキスをすることができた。すぐに離すと、今度は蕩けた表情の姫乃から唇を重ねてきた。
3秒、5秒、10秒…………永遠に思えるほどの数秒を終えて唇を離すと、姫乃が僕に抱きついてきた。そのまま額を僕の胸にぐりぐりと押し付けながら、震える声で言った。
「私、ね……怖かったの」
「うん」
「ヒナちゃんがこの学校に来てから、環くんがまたいなくなっちゃうんじゃないかって。頭ではそんなことないって思ってても、不安は拭えなかったの。その度に、自分が嫌になった。自分の彼氏のことも信じられないんだって」
姫乃の心に不安を植え付けてしまったのも、全て僕のせいだ。ズキっと、胸の奥が小さく疼いた。
「キスしたのもね、どこにも行って欲しくなかったから。環くんの都合も何も考えないで、ダメダメだったね」
「そんなことないよ。僕の方こそ、ごめん」
「……え?」
「ずっと、寂しい思いをさせてごめん。ずっと謝りたかった」
姫乃が自分を卑下する度に僕の胸が疼く。姫乃は何も悪くないのに、そう思わせてしまったのは僕なのに。
謝って許されることじゃない。今更謝っても遅いかもしれない。だけど、だけど──
姫乃の背中に手を回して、そっと力を込める。強ばっていた姫乃の体から力が抜けていくのがわかった。
「環くん……」
「今まで僕は姫に甘え過ぎてた。だから今度は、姫にいっぱい甘えて欲しい。今までの分を取り戻すのは無理かもしれないけど、それでも、姫はもっと甘えていいんだよ」
「でも、嫌なところは見せたくないよ」
「姫に嫌なところなんてない。姫が自分のことが嫌いなら、僕が姫の好きなところを全部教える。姫にはいいところが沢山あるんだよ」
「でも、でも……」
姫乃はその先を言葉にできなかった。ただただ、声にならない嗚咽を漏らしながら、僕の体にしがみついてきた。
そんな姫乃を優しく受け止めながら、漸く聞くことができた姫乃の本音を噛み締める。隠れて自分を卑下し続けてきた姫乃に、どんな言葉をかけるべきなのか。姫乃に甘えてもらうために、どうするべきか。
何よりもまずは、言葉で伝えるべきだろう。
「姫、大好き。今までも、これからも、その想いは変わらない。ずっと大好きだよ」
姫乃が頷いたのが、僕の体を通して伝わってきた。
偽りのない気持ちを真正面から伝えたことで、胸の疼きもいくらか軽くなっていた。
後半は少し重めでしたかね?
姫乃さん、柏木家勢揃いの場面でも似たようなシチュエーションにはなりましたが、少しだけ遠慮していた部分があったみたいです。環と2人になれて、漸く零れた姫乃さんの本音。
それを聞いた環がこれから選ぶ行動に、乞うご期待。
ちなみに5章のこの6話でまだ4、5時間しか経過してません。
そろそろ2人が眠くなってくる頃合です。皆さん期待する描写はないよ、と先に言っておきますが、読むのやめないでくださいね?