第5章1話 お泊まり会スタート
第5章と少しのエピローグで完結させる予定です。
「お待たせー」
そう言って僕の部屋からリビングに戻って来た姫乃を見て固まった。てっきりワンピースみたいな服装で来るのかと思っていたから。
姫乃はモコモコだった。いや、真っ白なモコモコのパーカーを着ていた。ゆったり大きめサイズで太もも辺りまで隠しているパーカーからは健康そうな脚が覗いていて、浅く被ったフードからは猫の耳が生えていた。完璧にくつろぎモードだ。
何も言わない僕を見て、姫乃が不安そうに尋ねてきた。
「……やっぱり変、かな」
「そんなことないよ。びっくりしただけ」
「そっか」
「うん、可愛いよ」
感想を正直に告げると、姫乃はフードを深く被り直した。そのせいで顔がよく見えなかったけれど、代わりにソファに座っている僕の膝の上に座ってきたから、照れているだけなんだろうな。
「そんな服持ってたんだね」
「…………あお姉さんが泊まりに来た時に渡されたの」
「あお姉が?」
「環くんが喜ぶからって」
あお姉、後でシバく。と、いつもなら思っていただろう。でも、今日だけはファインプレーだと感謝しておくことにした。だって、大悟からラノベを借りたせいでケモ耳に目覚めてしまったんだから。
まだ踏み荒らされていない新雪みたいに真っ白なパーカーを着た姫乃。その頭からぴょこんと生えている猫耳は、僕のフェチをくすぐるには十分すぎた。
僕は膝の上に座っている姫乃を持ち上げて隣に座らせた。
「ひゃわっ」
「っと……ごめん」
姫乃がくすぐったそうに暴れた。少し配慮が足りなかったみたいだ。謝ると、姫乃は下から見上げるように僕を睨んでから言った。
「やるなら言って」
「ごめん」
もう一度謝った僕を見て、姫乃はもう我慢できないというように笑い声を上げた。ひとしきり笑ってから、呆然とする僕に姫乃はこう言った。
「そんなわかりやすく落ち込まないでよ。別に怒ってないよー」
「……え?」
「驚いたのは本当だけど、それよりも嬉しいんだよ?」
「はぁ」
「私、環くんに抱っこされるの好きだなぁ」
からかう、というよりも照れる僕の表情を楽しむように、さらっとそんなことを言った姫乃。その顔はまさに小悪魔のそれだった。
そうは言っても多少の恥ずかしさはあるようで、すぐに頬を薄紅に染めて「えへへ」と小さく含羞んだ。その表情の変化はは本当に心臓に悪い。普段は天使みたいに周りを明るくしてくれているのに、たまに出る姫乃の小悪魔みたいなこういうところ、ズルいと思う。
「……ズルいぞ」
「女の子は好きな人の前では天使にも小悪魔にもなるんだよー」
僕の心を読んだかのようなセリフを口にした姫乃。その表情を直視できなくて、僕は部屋の外に視線を向けた。
姫乃はそんな僕を見て、くすくすと楽しそうに笑った。
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「環くんも着替えてきなよ」
そう言われて漸く自分がまだ制服を着ていたことを思い出す。別にこのままでも良かったんだけど、姫乃の「環くんの私服見たいなぁ」という寂しそうな呟きに負けてしまった。そのうち姫乃に逆らえなくなりそうだ。
「ジャージじゃ駄目だよな……」
そんなことを呟きながら自室の扉を開けた途端、床に無造作に置かれたスーツケースが目に入った。何の変哲もない、普通のキャスター付きのパステルピンクのスーツケース。それなのに圧倒的な存在感を見せつけてくるのは、その上に畳まれた制服が置かれているからだろう。
姫乃のスーツケースが部屋にある、そのこと自体は別におかしくない。姫乃は僕の部屋で寝ることになっているんだから。問題なのはその上に置かれた制服。それはつまり姫乃がここで着替えていたことの揺るがない証拠であり……
そこまで思ったところで我に返り、慌てて不埒な考えを頭から排除する。こんな考えが姫乃にバレたらと思うと気が気ではない。そう理解してはいるのに、不思議な魅力を放つスーツケースから目を離すことができなかった。
大きく深呼吸してから、収納ケースの中にしまわれた黒のパーカーとジーンズを取り出して着替える。部屋着とは言いづらいけれど、まぁ大丈夫だろう。
「お待たせ」
「長かったね」
「…………っ」
リビングに戻った途端姫乃にそう言われて、スーツケースに乗せられた彼女の制服を思い出した。自分でも頬が熱くなるのがわかり、落ち着くために台所へ行く。コップに注いだ水を飲んでいる時に、狙いすましたように姫乃が言った。
「私の着替え、ドキドキした?」
「ぶっ!?」
あまりに唐突すぎるその言葉に、口に含んでいた水を吹き出してしまった。飲み込みかけていた分は気道にも入ってしまったようで、盛大に咳き込んでしまった。
「わ! 大丈夫?」
「ケホッ………わざとだったの!?」
「ごめんごめん、まさかここまで動揺するとはねぇ」
台所へやって来て、僕の背中をさすりながらおかしそうに笑う姫乃。さっきは天使にも小悪魔にもなると言っていたけれど、今日に限っては天使の要素はどこにも見られなかった。
「とりあえずしまってくるね」
「是非そうして下さい」
姫乃は“とててて……”という擬音が似合う走り方で制服を片付けに行った。その間に立ち上がってソファに移動すると、1分も経たないうちに戻ってきて僕の隣にちょこんと座った。2人の腕と腕が触れ合う距離で、漸く落ち着くことができた。落ち着けたのを自覚した途端、僕の口からため息がこぼれた。
「はぁ……」
「だいぶお疲れのようですね」
「誰かさんのせいでね」
「あはは……誰のことかなぁ」
じぃっと姫乃の目を見つめていると、罪悪感からか露骨に目を逸らされた。これ以上追及すると姫乃の機嫌が悪化しそうだったので、そろそろ話題を切り替えることにする。
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「文化祭、楽しかったね」
「うん! あ、でも最後のは思い出したくないかなぁ……」
姫乃はそう答えて遠い目をした。稲村先輩たちが不憫だ。
「稲村先輩も頑張ってたんだし、それは認めようよ」
「むー……」
一応そうは言っておいたけれど、僕だって自ら思い出そうとはしない。あくまで楽しかった文化祭の一部として記憶に留めているだけだ。
それでも姫乃は渋い顔をしていた──と思ったら、僕の顔を見て「環くん、メイドは好き?」と真剣な表情で聞いてきた。
「いや、まぁ……」
「どっち?」
「嫌いではない、かな」
真面目な表情の姫乃に詰め寄られてははぐらかすことなんてできない。正直に(でも曖昧に)そう答えると、姫乃は何かを考え込むように「ふーん」と言った。何か間違えたのかと不安に思っていると、姫乃は突然手を叩いて立ち上がった。驚く僕に、彼女は微かに頬を染めて言った。
「じゃあメイド服探しておくね」
「あぁ、うん。………………えぇ!?」
まさか彼女のメイド姿を拝める日が来てしまうのか……? 姫乃の場合本当にメイド服を買ってしまいそうで、少しだけ怖くなった。というかあお姉なら姫乃のために間違いなく買うだろう。
とりあえず姫乃の気をメイドから逸らすことにする。
「それにしても、色々あったね」
「……ほんとにねぇ」
焼きそばはすごい大変だったし、姫乃は苦手なお化け屋敷に挑戦するし、伊織たちのライブは感動したしバンドに入るし、先輩に料理を教える約束をするなんて思いもしなかった。それに、事故からのファーストキスだって──
姫乃も同じことを考えたようで、ほぼ同時に「あ……」という声が重なった。そのままいたたまれない空気に突入し、数分間視線を合わせることができなかった。西陽のおかげで赤くなった頬が目立たなくなっていたことだけが唯一の救いだった。
初っ端からイチャイチャ多めな気が……
踏ん張れ、環の理性。