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僕の息抜き短編集  作者: 智琉 誠。
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ある男の一生



古びた鳩時計は、彼が産まれる前から鳴いていた。


鳩は鳴いた。


初めて浴びる光。温かい腕の中で、彼は大きな産声を上げた。全てが眩しく輝き、全てが誕生を祝福した。


「待っていたよ」


父は嬉しそうに笑い、初めて会えた小さな彼を慣れない手つきで抱いた。母は疲れ切っていたが、小さな彼を見て笑いながら泣いた。


「なんて可愛らしいの」


若い二人は、人生最大の宝物を手に入れた。


鳩は鳴いた。


彼は光沢のある、眩しい新品のランドセルを背負った。それはまだ彼の背中には大きく、少し不格好にも見えた。両親はそんな姿を愛おしそうに眺めながら、彼の成長を噛み締め、学び舎へ送り出した。


「行ってきます」


まだ見ぬ友人や恩師の想像が、幼い彼の脳裏で膨らんだ。雲一つない春日和。

通学路は桃色に染まり、彼と同級生になるだろう新しいランドセル達が連なって歩いていた。


「おはようございます」


校門の前で彼らを迎える教師に、無邪気に挨拶をした。



彼らは皆、鳩が全てを見守りながら、一回、また一回と丁寧に鳴いている様に思えた。


鳩は鳴いた。


黒い詰襟の学生服に身を包んだ彼。母と言葉も交わさず、少し俯き学び舎へ向かった。


錆びた自転車。

風を切って、葛藤を追い越す様に走らせる。歩道にはあの子が歩いていた。今日も、おはようとは言えない彼。


晴天の中、彼は苛立っていた。

最早彼は、雲一つ無い空にまで腹が立った。

何がそこまで苛立たせるのか、彼自身も分からない。大人はそれを思春期と揶揄するが、彼には分からない。


「何故だ」


大人、学校、社会、世界に向けて彼は問いかけ、自転車で勢いよく坂を下って行った。

風を切って走ると、少しだけ楽になる気がした。


鳩は鳴いた。


綺麗に片付いた殺風景な彼の部屋で、一筋の涙を浮かべる母。ダンボールの箱は几帳面に整理され、もう既に荷台にある。準備は出来ていた。


「正月には必ず帰るよ」


彼は随分落ち着いていた。もう立派な青年だ。名残惜しさは有るものの、それを見せないことが、今できる最大の親孝行だと彼は思った。


母に別れを告げ家を出ると、寡黙な父は運転席で、煙草を燻らせていた。


「頑張れよ」


彼が父と二人で言葉を交わしたのは久々だ。

寡黙で気難しい父が、初めて彼にかけた優しさに満ちた父親としての言葉だった。


彼は奥歯を噛み締め、少し上を向いて返事をした。


鳩は鳴いた。


赤い提灯が揺れる、古臭い屋台。

彼は薄い水割りを片手に、溜め息をこぼした。同期の男は既に酔い潰れている。


「帰りたいな」


遠い故郷に想いを馳せたのは一瞬、すぐに明日への憂鬱が襲った。冷めてしまった焼き鳥を齧り、水割りで流し込む。

忙しい日々、努力とは比例しない結果。

彼の心は随分疲れていた。


ふと、父の姿が浮かんだ。

彼の父はいつも、家族が寝静まった後、安い焼酎をあおっていた。

幼い頃、深夜に目が覚め、襖の隙間から見た酒を飲む父。その背中には言葉では形容し難い、男の人生が見えた。


「もう少し頑張ろう」


彼は景気づけに、グラスに残っていた水割りを一気に飲み干した。


鳩は、都会で忙しなく暮らす彼を急かす様に鳴いていた。決して気に入って住んでいるわけでもない、無愛想な四畳半で。


鳩は鳴いた。


彼女は涙を浮かべて頷いた。

今迄見たこともない、美しい表情だった。


少し無理をして、宝石店に走った甲斐があったと彼は安堵した。白く細い彼女の指で光る、小さなダイヤモンドは、心做しかショーウィンドウで見た時にも増して、光っている気がした。


「よろしくお願いします」


頬を赤らめ、涙零す彼女は言った。

背伸びをして予約したレストラン。窓からは燦然と光る都会の夜景。

飲み慣れないシャンパンに、少し酔った様だった。彼の目には全てが美しく見え、気の弱い筈の彼の心に、揺るぎない確固たる物が生まれた。


鳩は鳴いた。


険しい顔をする、彼女の父の前。彼は畳に頭をつけていた。

彼女の母は不安そうに見守っている。


「彼、とても優しいの」


彼女は真剣な眼差しで、腕を組んで黙り込む父に語った。大きな咳払いをすると、しゃがれた低い声で言った。


「娘を頼むな」


何処の家も、父というものは不器用だと彼は思った。そして、そんな父に愛され育った彼女を、これからは自分が守っていこうと誓った。


日当たりの良い新居は、二人のお気に入り。彼女と共に聴く鳩の声は、ご機嫌な口笛の様だった。


鳩は鳴いた。


待合室にも響く、産声。

彼は走った。早く彼女を讃えてあげたかった。


病室のベッドでは、彼女が愛おしそうな表情を浮かべ、やっと会えた愛娘を抱いていた。

男の彼には想像し得ぬ、壮絶な時間を過ごしたとは思えないほど、彼女は穏やかだった。


「よく頑張った」


娘を抱く彼女を、彼は包み込んだ。

いつかと同じ、いやそれ以上に美しく、温かい涙を彼女は零した。

娘は彼女によく似た、小さな女の子だった。

笑みのような表情を浮かべているのは、生まれた喜びを伝えようとしているのか。

彼に新しい守るものができた。


鳩は鳴いた。


辿々しい幼い足が、一歩踏み出した。

めっきり母の顔になった彼女が、不安げに両手を広げ、娘の名を呼んだ。


「歩いた、歩いたよ」


機械音痴な彼が、ビデオカメラを手に娘を見守る。愛娘の偉大な一歩に、彼は一筋の涙を零した。きっと自分の両親も、そうだったのだろうと、親心の意味が分かった気がした。


毎日が新鮮で、平凡だが笑いの絶えない温かい我が家。鳩の声は娘の子守唄になった。


鳩は鳴いた。


食卓には彼女と彼。娘の姿はない。

彼女は不安そうに、時計を確認している。


「先に食おう」


彼はそれ以上は言わず、箸を手に取った。

彼女はそれでも、食卓に並べられた料理には手をつけない。


扉がゆっくりと開く音がした。


「何時だと思っているんだ」


居間から彼は怒鳴った。

着崩したセーラー服姿の娘は、返事ひとつしない。彼女は娘にかけ寄り、早く着替えなさいと促した。


娘は少女と女性の狭間にいた。


彼は分かっていた。自分もそうだった様に、娘が年頃特有の何かを抱いている事は。

彼自身驚いていた。娘と同じ歳だった自分が、一番嫌っていた親父に自分がなってしまった事を。


鳩は鳴いた。


日が傾き始めた、穏やかな休日。突然、耳を劈く電話の音。

彼は直感的に、悪い知らせだと分かった。


「お父さんが」


震えた母の声だった。冷や汗がこめかみを伝う。

彼は急いで車を走らせる。道中、実家から離れて暮らすことを選んだ自分を責めた。

着く頃には午前零時を過ぎていた。


冷たい病室。目を閉じた父の傍で、泣き崩れる母。


「父さん、ごめん」


気づけば、盆暮れしか会うことがなくなっていた父は、皺だらけの小さな手になっていた。


自分は親孝行を出来たのだろうか、彼には分からなかった。遺された母も、年老いていた。


病室の鏡をふと見ると、随分老けた自分の姿が映る。そこには昔の父がいた。


家では鳩が、彼の代わりに彼女と娘を見守っていた。


鳩は鳴いた。


控え室で彼は、今迄の様々な出来事を思い返していた。アルバムを開くが如く、記憶に残る些細な出来事も懐かしんだ。


「準備が整いましたよ」


係りの者に呼ばれ、彼は娘が待つ部屋の扉を開いた。そこには若き日の彼女によく似た、白無垢を纏った娘が立っていた。

娘は慣れない和服に足を取られながら、ゆっくりと彼に近づく。


娘は既に涙を浮かべ、言葉に詰まっていた。

彼は普段は持ち歩かないハンカチを、ぎこちない手つきで取り出した。娘の頬を伝う涙を拭うと、照れ臭さと寂しさを隠す様に、冷静に言った。


「泣いたら化粧が崩れるぞ」


彼はとっくに、何処にでも居る不器用な頑固親父になっていた。


鳩は鳴いた。


新年を迎え、活気に満ち溢れた町内。

彼の手は、幼く小さな手を握っていた。


「お父さん嬉しそう」


彼の後ろを歩く彼女と娘は、彼に聞こえない様に小さく笑った。初孫は彼を少し若くした。娘がまだ小さかった頃の様に。


「お爺ちゃんあれ欲しい」


幼い手が、屋台に並んだ羽子板を指さした。

彼は心から、穏やかな喜びを感じた。

華やかな絵が描かれた羽子板を孫に渡すと、それはまだ幼い手には大きかった。


鳩は、また彼と彼女の二人きりになった家で、相も変わらず鳴いていた。


鳩は鳴いた。


縁側に座る二人、何年経っただろう。

ここ最近はずっと、同じ日々を送っている。 若い頃とは違い、刺激の無い同じ日々が彼には丁度良かった。


「お茶が沸きましたよ」


彼女のその言葉も、何百、何千回と聞いた。

使い込まれた湯のみ、お茶の温度、香り、全ていつも変わらない。彼はそれが心地良かった。


「あら茶柱」


湯のみを覗き込む彼女は、嬉しそうに微笑んだ。皺だらけの顔には、もう若く美しい彼女は居ない。それでも愛おしかった。

遠い昔に感じた、燃え上がる物は無いものの、静かで清らかな小川のせせらぎが彼の心にはあった。


「いい天気だ」


二人にはもう多くの言葉は不要だ。彼は熱いお茶をゆっくりと啜った。


鳩は鳴いた。


ぼんやりとする意識。彼女や娘、大きくなった孫が彼を囲んでいた。そこにいる全員が、彼を必死に引き留めた。


しかし彼は、もうそろそろか、と諦めに似た達成感とも思える感情を抱いていた。


思い出を辿る程の気力はなかった。

ただ良かったと、ただ幸せだったと、心が満ちていた。勿論、全てが順風満帆なわけでも、後悔が無いわけでもない。

それでも今の彼には、全てが幸せな記憶に思え、この人生で出会った葛藤も、苦しみも、全てを赦せた。


「ありがとう、ありがとう」


彼を囲う全員が涙し、何度も言う。

想像していた最後よりも、静かで穏やかなものだと彼は思った。


「幸せだった」


消え入りそうな小さな声で、その数文字を絞り出すのがやっとだった。

彼はやりきった、と達成感にも似た幸福に包まれ眠りについた。


鳩は鳴いた。


何百、何千、数え切れない程、鳴いた。

鳩時計は鳩時計でしかなかった。誰の為でもなく、鳩は回る針に従い、また鳴く。


鳩は鳴いた。


今も時間は進んでいる。

進む時間の中で、日々生きている。


そんな時間の中に潜む、極平凡な人生。

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